第83話:深い陽射しの向こう

 霧深い銀台の山中で、エバが崩れ落ちていたその頃。

 鼻息を荒くしながら、今までに通り過ぎてきた道をセフは戻っていた。深い霧ですら、セフの行く手を阻むには物足りない障害だった。

(エバなんかに……何でエバなんかに!)

 エバに張られた頬は、時間が経つにつれて痛みを増してくる。憤怒に駆られ、セフの足はますます速くなった。

 セフは悔しくて仕方がなかった。

 エバに頬を張られたからだけではない。エバが隠している以上の秘密を、セフだって持っている。


 あの日、

 動乱が始まる前日、予章宮を訪れたのはエバだけではなかった。

 リリスからの報――エバが受け取った、クライン導師の訃報を告げる報は、セフを含める寺院の側にも伝わっていた。

 なにせクラインと言えば、国を束ねる要人・十二国従の一人である。その一人が死んだとなれば、同じ十二国従の一人である、泰日楼の僧正にまで急が告げられるのは必然だった。

――セフよ、今すぐ予章宮に赴き、ヒスイ様へこのことをお伝えするのだ。

 座禅の途中で呼び出しを喰らったセフは、高僧の一人にそう命令された。はやくはやくと急かされ、セフは寺院を飛び出すと、泰日楼から予章宮まで向かったのである。

 ゆえに、懐に書状を忍ばせながら、セフは予章宮へ続く道を歩いている。

「暑い、あついー」

 いかに秋が近づいているといえ、黒の胴衣に黒の襦袢である。服全体が熱を吸収してしまい、とにかく暑かった。握った手拭でしきりに汗を拭き取りながら、セフは森にある道路を歩いてゆく。

 これがエバだったら、颯爽と箒に乗って予章宮へ行けるのだろう。むろん日差しには晒されるのだろが、森に阻まれることはないのだ。道中はセフより遥かに楽だろう。

(魔法が使えればな)

 セフはそう考え、唇を噛んだ。あいにくセフには魔術の才能がない。無いものねだりをしても仕方がないことくらい、セフにも分かっている。

 分かっているがしかし、やはりエバと自分とを比べてしまえば、どう見ても分がないようにセフには思われた。

 これから向かう予章宮――要するにヒスイに対してもそうだった。

 もともとセフは、ヒスイと面識がない。それに対し、エバはヒスイと友達であり続けている。セフはエバを辿ってヒスイに知り合ったのである。「友達の友達は友達」という間柄だった。

 おまけにヒスイの第一印象は、セフにとって最悪だった。

 話は更にさかのぼる。


 動乱が始まる日より、更に五、六年も昔。

 その日、ヒスイは僧正の説法を聴きに、お忍びではるばる寺院までやって来ていた。

 セフはヒスイを出迎えに行ったのだが、そのときの奇抜な格好といったらなかった。青い胴衣に白の襦袢――それだけならまだしも、少女は泣きっ面をした赤い鬼の被り物を被っていたのである。

 むろんそのときのセフは、このおかしな少女が“勇者の娘”であるとはつゆとも思わなかった。

「あのう……」

 と、見た目の怪しい少女に、セフは声を掛ける。少女は被り物の口の部分から顔を出し、ものめずらしげに周囲を動き回っていた。

 勇者の娘を出迎えるという大切な役目を、セフは僧正から仰せつかっている。

(しくじるわけにはいかない)

 それがセフの率直な感想だった。だからこそ、こんな派手派手しい道化師みたいな格好をしているおかしな女の子には、さっさとお帰りいただきたかったのである。

 それでもセフはがんばって、なるべく下手に出ようとした。少女は見たところ、セフよりも年上だからである。

「年上をうやまう」

 のも、寺院における大切な掟だった。

「あ、良いところいた」

 赤いお面の少女が、セフの存在に気づいた。

「ねぇねぇ、僧正様はどこにいるの?」

 セフは面食らった。こんなイロモノ少女を、モリオ僧正に晒すわけにはいかない。

 ひんしゅくを買うだけでなく、セフの理性までもが疑われてしまいかねない。

「あの……すいません、ぜひともお帰り願いたいのですが」

「うん?」

 その言葉に、赤いお面の少女は無邪気そうに目を丸くした。

「へー、帰ってほしいんだ? でも私、出口ワカンナーイ」

「じゃ、じゃあわたしが出口までご案内しますから……」

「はい、じゃあここで出口まで案内して欲しくない人、挙手!」

「えっ」

「ハーイ」

 と、お面の少女は手を挙げる。

「あら、残念! 賛成一反対零棄権零で、私は出口まで案内されないことが合議で決定しました。皆さん、ミンシュシュギに感謝を。パチパチパチー」

 このときセフは、

(くそっ、年下だからって馬鹿にしやがって)

 とふん慨した。ミンシュシュギが何なのかはセフには分からない。しかしこんなおかしな少女が弄するものであるから、きっとろくでもないものに違いない。

 それでもセフは、何とかがんばって怒りを堪える。

 しかし、そもそもセフは手を上げていないのだ。だから本当だったら「賛成一反対一」、あるいは少なくとも「賛成一棄権一」になるはずなのである。抜け目ない人物ならば、このお面の少女が使ったレトリックに騙されることはないのだろう。

 あいにくセフは根がお人よしなので、そのことに気づかなかったのである。

「うぅ……。あっ、そうだ!」

 セフは閃いた。

「案内します」

 と言っておきながら、こっそりと出口まで少女を導けばよいのである。

「分かりました。それじゃあ、ご案内いたします」

「ほんと?! ありがとー。それじゃあ、私のことを押して行って欲しいな」

「……はい?」

 今度こそ、セフは本当に意味が分からなかった。

「それはどういうことですか?」

「うん、つまりね、私のことを引っ張って、僧正様のところまで持っていって欲しいのよ」

「ご自分でお歩きになればよろしいじゃないですか」

「それがね、私、脚を怪我しているのよ」

「脚を……?」

 だが、襦袢から覗く少女の膝小僧より下は、至って綺麗なものだった。

「――お怪我をしているようには見受けられませんが?」

「ウウン。今から怪我をするのよ」

「えっ」

「ほらね……つるんっ」

 言うが早いか、少女は盛大に身を翻してみせる。崖の上から海に飛び込むような鮮やかさだったが、当然下はただの床である。見事な放物線を描いて少女はすっころぶと、したたかと膝を柱に強打する。

 少女の立てる音と共に、周囲のふすまも風圧でがたついた。

「うう、いたたたた……」

 少女はわざとらしく膝を抱え、床を転げまわる。少女の予想では、セフが怒り狂ってこちらへ飛び掛ってくる算段だった。

「うー。私もう歩けないー。……あれ?」

 だが、実際は違った。

「う、う、うっ……」

 セフは歯軋りしながら、涙をぼろぼろと零していた。自分には何も疚しいことがないはずなのに、どうしてこんな理不尽に我慢し続けなくてはならないのか。しかも、こんな大切な日に限って。――そう考えたセフはもう、怒りを通り越して泣くしかなかったのである。

「あー……ゴメンね?」

 悪戯の度が過ぎたと分かり、少女もセフのもとへ駆け寄った。

「ううっ……えぐっ、ひどい……みんな、みんなわたしが年下だからって、馬鹿にして。ううっ……」

 一度泣き始めると、セフは嫌なことを次々と思い出す性質だった。

「あちゃー。参ったな」

 少女は困ったように肩をすくめると、被り物を脱ぎ捨てて左脇に抱えた。少女の茶色い髪が被り物から解放される。こうして頭全体があらわになると、少女は別段おかしな人間には見えなかった。

 お互いに打つ手がなくなっていた。セフは涙ぐみ、少女は所在無く頭を掻いていた。そこへせわしなく、第三者の足音が響き渡る。

「ごめんごめん、待った?」

「エバ!」

「エバ……えっ?」

 廊下の奥から、エバが姿をあらわした。赤い胴衣に、黒の細い襦袢といった、セフも見慣れたいつもの格好である。

 ただいつもと違うのは、エバが話しかけた相手だった。エバの金色の瞳は、セフにではなく、このおかしな少女に向けられている。

 エバは状況が掴めていないのだろう。目を点にして、セフと少女とをかわるがわる見つめている。

「ねぇ、エバ、私逃げ出してもいいかな?」

 まず少女が口を開いた。セフと同じく、少女もエバを見知っているらしい。

 それを聞きつけ、エバが憮然とした表情で頬を膨らませる。

「だめよ、ヒスイ」

 少女はヒスイというらしい。

 ヒスイ。

「へぇっ?!」

 泣くのも忘れて、セフは素っ頓狂な声を上げた。

「へぇっ?! へぇーっ?! ふえええぇーッ???!!!」

 セフの頭の中が真っ白になってゆく。

 こんなお馬鹿みたいな少女が、勇者の娘であるようだ。


 その場は結局、それで丸く収まった。ヒスイも大変申し訳なく思ったらしく、

――年下のほうが延びしろがある。

 だの何だのと言って、セフは慰められたのだった。

(あれは酷かった)

 今だって思い出すたび、セフは苦々しい気持ちになる。

 しかし、あれが結局運命の出会いだったのかもしれない。そのままずるずると、いやある程度はセフも積極的に、ヒスイとセフとは交際が続いていた。

 はじめは“水と油”だと思っていた。それでもヒスイという人物に、セフはいつの間にか親しみが湧いていたのである。

 “勇者の娘”という、堅くて重い肩書きに比し、“ヒスイ”という少女は何とも柔軟な存在だった。

 それがある意味で、セフにとっては憧れだった。肩書きに囚われず、しがらみから自由で、何とも奔放に、そして身軽に生きている様子――。

 それは、セフにとっての憧れ。そして同時に、セフが絶対に手に入れることの出来ない理想だった。

 ヒスイに近いとしたら、誰だろう? ――セフは時々、そんなことを考える。そしてその答えはもう出ていた。

 エバである。セフの印象では、ヒスイもエバも同じ属性に位置していた。セフとは違う、明るい、華やかな属性である。

 “ヒスイとエバは、お互いに引き寄せ合っている“。

 それがセフの率直な感触だった。自分はそんな二人と、たまたま偶然仲良くなったにすぎない。

(いや、違うはずだ)

 重くのしかかってくる消極的な考えを、セフは必死になって打ち消した。たしかに成り行きは偶然だったかもしれない。しかしセフはこの交際を維持するために、特に卑屈になった覚えはない。言いたいことは素直に言えるし、笑いたいときに笑える。自分はあの二人を許容し、また許容された上で仲良くしているのだ。

 それでもやはり、エバが羨ましい。セフの持っていないものを、エバはなんだって持っている。明るく前向きな性格だって、物怖じしない態度だって、魔術の才能だって、

 ヒスイと渡り合えるだけの積極性だって。


「着いた――」

 ようやく、セフは予章宮に辿り着いた。

 地道に歩いた分、予章宮に到着した感慨もひとしおである。思えばセフは、ヒスイに招待されて以降、自ら予章宮までやってきたのは初めてだった。

(ヒスイに会えるかな)

 セフは期待に胸を膨らませる。その矢先、門の前に立っていた兵士が、セフに気づいてやってきた。

「セフ殿ですね?」

「えっ? あ……はい!」

 慇懃な兵士の応対に、セフも背筋を伸ばした。予章宮を訪れたのは今回がようやく二度目である。なのに、セフは既に予章宮の要員に知られているらしい。

 それが何だか、セフには誇らしい。

「どのようなご用件でしょう?」

「はい。僧正様からの使者として参上しました。この書状を、ヒスイ様にお渡しください」

 言い終えてからセフは

(しまった)

 と思った。

 せっかくヒスイに会える機会である。だから

「ヒスイ様にお会いしたい」

 ぐらいのことを言ってもよかったはずだ。

 できることなら打ち消したかったが、あいにく自分でも驚くぐらいはっきりと言ってしまったがために、セフは後に引けなかった。

「これを……」

 と、セフは仕方なく懐の書状を取り出した。

「承りました、セフ殿。僧正様には『確かに受け取った』とお伝えください。はるばるいらしたこと、ヒスイ様に代わり感謝申し上げます」

 兵士は丁寧に頭を下げる。

「は、ありがとうございます」

 と、セフも頭を下げた。立ち止まっているのもおかしいので、セフはそのまま引き下がってゆく。

(ダメだなァ)

 と、セフはがっかりして、もと来た道を引き返してゆく。

 もしかしたら、寺院の僧正がセフに伝令を頼んだのも、「ヒスイに会わせてやろう」との気遣いだったのかもしれない。

 だとしたら、セフはそんな気遣いをも無駄にしたことになる。自分の間抜けっぷりに、セフはだんだんと腹が立ってくる。

 それにしても、である。いかんせん日差しが強く、セフはへとへとだった。

どこかに水でもあれば……と考えたセフは、ふと予章宮の近くを流れる小川の存在を思い出した。

(たしか、向こう側だ)

 セフはいても立ってもいられず、道を逸れ小走りに木々の合い間を抜けてゆく。

 セフは駆け足で、木々の合い間を抜ける。水のせせらぎが、セフの耳にも届いてきた。

(あれ?)

 しかし同時に、別の音も聞こえてくる。人間の声のようだった。

 気になったセフは速度を緩めると、茂みの合い間を抜けながらゆっくりと川に近づく。大きな岩の近くに、誰かが蹲っているのが見えた。

(え……?)

 それはエバの姿である。顔を両手で塞ぎながら、苔むした岩壁に背を預け、エバはひとしきり泣いているようだった。いつも明るいエバからは想像もつかないほど、弱々しい姿である。端から見ても胸のつまる光景だった。

 しかし、どうしてエバがこんなところにいるのか。茂みから駆け出そうとしたセフだったが、新たな人物の登場に思いとどまる。

(ヒスイ……)

 それはヒスイだった。

 ヒスイが口を開く。川の流れる音のせいで、セフの耳にヒスイの声は届かない。それでも口の動きから

「エバ」

 と呼びかけているのがセフには分かった。

 声に弾かれるようにして、エバが顔を上げた。いつになく深い絶望の色が、エバの表情から浮かび上がってくる。

 立ち上がったエバの下へ、ヒスイが歩み寄る。右手に握った何かを、ヒスイは口元へ運んだ。

 エバが何かを、必死に弁明している。

(あっ)

 だが、決定的瞬間はその後だった。ヒスイはエバに腕をまわすと、しかと抱きしめ、口付けをしたのだ。

(ウソだ)

 セフは見てしまった。ヒスイとエバの唇が互いに触れ合っている。ヒスイはまぶたを閉じている。エバとの口付けを堪能しているようだった。エバもかつてないほど目を見開いていたが、それ以降は目を細め、ヒスイに身体を預けていた。

(こんなのは、ウソだ!)

 視界が遠のいてゆくのを、セフは感じ取っていた。

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