第82話:鳥を見て「鳥」と言え

「やめましょう」

……

……

 その言葉は、この上なく合理だった。

 鳥を見て「鳥だ」と言い、火を見て「火だ」と言い、月を見て「月だ」と言うのと同じくらい、その言葉は正しい言葉だった。

 正しい、正しすぎる言葉であるがゆえに、エバの足は竦んだ。

 今の言葉は、本来ならば自分が言うべき言葉だった。誰かに聞かされる言葉なんかではない。

 そんな言葉を、よりによってヒスイに、“宣告”された。

 ヒスイの青い、澄んだ瞳に、自分の姿が映りこんでいる。そう考えるだけで、エバはもうどうしようもなかった。

 どうかどうか、自分を見つめてくれるな。

 心臓が張り裂けそうだった。

「エバ。フフフ……どうしたのよ?」

 ヒスイはエバに微笑みかける。

 言葉にならぬかすれ声をエバは上げる。エバの頬を涙がつたう。慰めの口調が、ヒスイの言葉には含まれていた。

 そしてその慰めの対象には、エバだけでなく、ヒスイ自身も含まれていた。傷つけたくない、傷つけたくない……そう思い行動していた。しかしエバはこうして、ヒスイを蔑ろにしていたのだ。

「エバ、いいのよ。気にしないで。ごめんね……ありがとう」

 それでもヒスイの一言一言は、エバにとっての救いだった。うずくまって泣くエバに、ヒスイはそっと寄り添う。

 こんな光景を人に見られたら、リリスに見られたなら何と言われることだろう。誰もいなくて本当によかった。

 だからエバは泣いていた。


 どのくらいの時間が経ったのかは分からない。いつしかエバも泣き止み、苔むした岩壁に背を預けていた。ヒスイもその傍らにいて、黙って小川のせせらぎに耳を傾けていた。

「ごめんね、エバ」

 ふとヒスイが声をかけた。目頭を拭うと、エバはヒスイを見やる。小川を見つめ続けていたヒスイが、エバに向かって視線を注ぐ。

「私も、エバのことが好きよ。それこそ、エバが私のことを思ってくれる以上に、私もエバのことを思っていたい。……でもね、エバ。私はそれと同じことを、他の人にもやってあげなきゃいけないの。私はエバのことが好き。でも同じくらいセフのことも好きだし、イェンさんのことも好きだし、ほかに親しい人が出来たら、同じように好きになるわ。――ごめんね、こんなのずるいかしら? こんな言い方するのって」

「ううん」

 エバは首を横に振った。

「分かるよ、ヒスイ。そうよね、そうしないと。でも――」

「――勇者が還ってくる」

 先の言葉を繋ごうとしたエバだったが、唐突にヒスイがそう言い放った。

「えっ……?」

 話の脈絡がつかめず、エバはまばたきする。ヒスイは姿勢を直し、膝を抱える姿勢になった。それからもう一度視線をエバに戻し、そっとエバに微笑む。

「勇者がやってくるのよ、エバ。……信じられる?」

 ヒスイの口調には、どことなく嫌な雰囲気があった。

 まるでヒスイ自身が、来るべき未来に対して怯えているかのようだった。

 機械的に、エバはもう一度首を横に振る。にわかには信じがたい話だ。ヒスイの親である勇者は伝承上の人物で、その素性はほとんど知らされていない。名前はおろか、性別さえ知らされていないのである。

 エバも昔話程度の文脈で、クライン導師や年上の人物から話を聞くくらいである。そんな昔話でさえ、抽象化された“勇者”が一人歩きしているだけのように、エバは感じ取って聞いていた。

「私の親にあたる人よ、勇者は」

「そうね……それは分かるわ」

 どう返事をすべきか、エバには測りかねた。

「でも、勇者が還ってくるとしたら、ヒスイはどうなるわけ?」

「その人と、私は闘わなきゃいけないの」

……

……

「えっ?」

「闘って死ぬんだって、私」

……

……

 急速にヒスイが自分から遠のいていく――そんな感覚に、エバは囚われた。意味もなくエバは、ヒスイの胴衣シャツに取りすがる。感覚的に遠ざかりつつあるヒスイに対し、エバが物理的に出来た唯一の抵抗だった。

 胴衣の口は広いため、引っ張ったところからヒスイの背中が少しだけ見える。背中にはあでやかなタトゥーがあった。

 エバの知らぬ間に、タトゥーは完成したらしい。

「ウソよ」

「ううん、エバ。ウソじゃないの。本当の話よ」

「どうして?」

「宿命なんだってさ」

「宿命……?」

 エバは、胸の締め付けられる思いがした。おかしい、おかしい。死ぬことが決まっていて、どうして闘う必然があると言うのだろう?

 いや、違う。闘う以上、勝つチャンスはあったっていいはずだ。死が宿命として定められているのならば、そんなの闘いじゃない、ただのリンチだ。屠殺だ。

 そしてヒスイは、他ならぬ勇者の娘なのだ。なのにどうして、ヒスイを殺そうとするのか。自分の娘を愛おしいとは思わないのか?

「……エバ、馬鹿げていると思う? 私の話」

 だがエバは、そんな数々の言葉を口に出せなかった。唇の端をゆがめて笑うヒスイを見たら、何かを言う気合など潰えてしまった。

 ヒスイの、勇者の娘の表情を見て、凡人は一体何が言えるというのだろう?

 ヒスイの表情には、覚悟が漲っていた。もしかしたら諦念と呼んでもよかったのかもしれない。ヒスイは、自らの宿命を受け入れているようだった。

「エバ、私ね……明日になったら、ここを出るわ」

「“ここ”って……予章宮を?」

「そうよ。旅に出るの。転日京までね。そしてもう、」

 ここには戻ってこない。

……

……

 あたしも、

 あたしも連れてって。

「ダメよ」

 取りすがろうとするエバの言葉を、ヒスイは打ち消した。口調は柔らかかったが、言葉の芯は冷たい。

「絶対にダメ」

「嫌よヒスイ。ヒスイが何と言おうと、あたしも着いてく」

「エバが着いてくるなんて赦さないわ。エバも、セフも……イェンさんだって、着いてくるなんて言わせないわ。死ぬのは私だけで充分、誰も私と一緒に死ぬなんて赦さない!」

 話すうち、ヒスイの言葉には自然と熱がこもっていた。ヒスイの見せた静かな怒りに、エバも口をつぐむしかなかった。

 喉下まで出掛かっていた言葉を飲み込み、もどかしい気持ちを抱えながらも、エバはヒスイの見せた怒りに平常心ではいられなかった。エバの記憶で、ヒスイがこんなにも色めきだったことはなかった。

 つまりそれだけ、ヒスイにとって“勇者”が重いのだ。

「どう頑張ってもダメ」

 訥々と、ヒスイは語り始める。

「昔からそんな気はしていたの、『勇者は還ってくる』って気が。でもここ数年、それが鮮明になってきた。……第六感、ってヤツかしら? 頭から振りほどこうとしても、勇者の存在はますます大きくなってくる」

 エバは黙って、ヒスイの話に耳を傾けている。

「それで分かったのよ。これは勇者からのメッセージなんだ、って。『お前と闘うから、そのために準備をしておけ』って。でもね、エバ、私にはどう頑張ってもダメ。一日だって鍛錬を怠ったつもりはない。でも……でも、勝つ未来が見えない。頭の中で、自分の勝つ姿がイメージできない」

 いつしか、ヒスイの表情は険しくなってきていた。話を聞くにつけ、エバもヒスイの恐怖心が分かるような気がした。

 ヒスイはいつだって、自らの親の存在に脅かされていたのだ。自らをこの世界に生み出しておきながら、しかし自らを殺しにくる勇者の存在に。

 勇者は自ら建設したものを、自ら破壊しようとしている。

 それで破壊が完了したら何をするのか? おそらくはまた建設するだろう。終わりの見えない破壊と建設の循環。

 なんという非合理、

 なんという無秩序、

 そして――なんという身勝手なことだろう!

「なんでよ……」

 エバの目から、ふたたび涙がこぼれ始める。

「何でヒスイが……」

「フフフ……なんでだろうね? どうして私なんだろう? ――私もよく考えたわ。でもよく諺で言うでしょう、『私という親にして、あなたという子供』って? それの逆なのよ。私は予章という勇者の娘、そしてその親こそ予章という勇者なのよ」

「――分かんない、分かんないよ」

 べそをかくように、エバは言った。衣の袖で涙を拭う。

 正直、分かりたくもなかった。

「フフフ、いいのよ。……分からなくて結構」

 そこまで言うと、ヒスイはおもむろに立ち上がり、伸びをした。ヒスイが上半身をよじる。それにつられて、肩に下げてあるベルトも音を立てた。

「はじめはね、エバ」

 後ろにいるエバを確かめることなく、ヒスイが口を開いた。

「私、ここで勇者を待つ予定だったの。ここで、私の気が充満している予章宮ならば、闘って死ぬにしても――せめて勇者と刺し違えることくらいは出来るかもしれない」

 そう語ると、ヒスイはエバのほうへ振り向いた。弾かれるように、エバも岩壁から背を離し、立ち上がる。

「でもね、エバ。それじゃダメ。私がしなくちゃいけないのは、勇者を倒すことじゃない。この世界を、勇者から守らなくちゃいけない。このままここにいて、何も出来ないまま一人で勇者を待つわけにはいかない」

 言い放ったヒスイだったが、ふと唇の端をゆがめ、俯いた。戸惑いがちに、エバはヒスイの様子を見つめた。

 ヒスイは笑っていた。

「どうしたの……ヒスイ?」

「ウウン、フフフ……何でもない」

 口元を右手の甲でこすり、ヒスイは顔を上げた。

「おかしな話よね? 勇者が作った世界を、勇者から守らなきゃいけないなんて。――しかも、その運命を託されているのが私だなんて」

「やめてよ、ヒスイ」

 ヒスイの言葉は自虐だった。こんなヒスイの様子を、エバは見たことがなかった。

 そして、もう二度と見たくなかった。

「ねぇ、エバ」

 小刻みに肩を震わせて笑っていたヒスイだったが、やがて笑いも収まったらしい。

「その……こんなことをいうのも変なんだけどね」

……

……

「私のことを好きでいてくれて、ありがとう」

 照れくさそうに、ヒスイは告げた。その言葉を、エバは受け止める。エバはヒスイのことを愛している。ヒスイはそれに「ありがとう」と言った。

 つまるところ、「もうこれ以上愛してくれるな」というのと同じだ。ヒスイの宿命と自らの宿命、それが完全に隔てられてしまったのを、エバは悟った。

 その日の深夜に、ヒスイは記憶を失う。

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