第81話:魔法少女の長すぎる回想(4)

 高鳴る鼓動に比して、エバの心は沈んでゆく。箒で空を飛ぶときの高揚感も、今のエバには無かった。

 ヒスイに別れを告げるのである。一緒にいたら、またヒスイに気を遣わせてしまうだけである。エバとしては、どうしてもそれだけは避けたかった。

(どうして王都に留まらなかったのだろう?)

 今さらながら、エバは後悔していた。

(これからどうしよう?)

 先の見えない不安に、エバは鳥肌をたてる。ヒスイから遠ざかることは簡単だ。自分は泰日楼テイロスの周辺に居さえすればよい。基本的にヒスイは予章宮を出ない。だから鉢合わせることはなくなる。

 木々の合間から、予章宮が顔を出した。白亜の予章宮を俯瞰できるのも、今日が最後である。

(だけど、セフは?)

 そのときふと、エバはセフのことを思い出した。

 寺院にいるセフと仲良くなったのも、エバが物心ついて間もない頃だった。

 セフは寺院で唯一の女の子であり、それゆえセフは寺院内に遊び相手が居なかった。

 リリスは寺院の僧侶達と親しい間柄だった。そのためにエバも寺院によく連れて行かれた。そこでエバはセフと知り合い、だんだんセフと親しくなってきたのだ。

 そんなセフとヒスイが知り合ったのは、つい五、六年ほど昔のことだ。僧正の説法を聴きに、お忍びではるばるヒスイが寺院までやって来たのだ。

 引っ込み思案で内向的なセフだったが、それでもすぐヒスイとセフは打ち解けた。

 もっとも、“年下”ということで恐縮しまくっているセフを、ヒスイがいじって遊んでいる感じだったが。

 それでも、ヒスイが気さくにちょっかいを出したお蔭で、セフとのわだかまりもあっという間に無くなった。それからはずっと、ヒスイ、エバ、そしてセフの三人でうまくやってきている。

 たとえエバがヒスイから遠ざかっても、セフはヒスイと交流を続けるだろう。

 エバが去ったことで空いた立場ポジションを、セフが奪うのだ。

 そうなったとき、ヒスイは完全にエバを忘れている。

 それはそれでいい。だがセフが自分の役割を果たすことに、エバは納得がいかなかった。

 いや、“我慢がならなかった”。

 セフはヒスイを独り占めにする。ヒスイには会わずとも、これからたびたび、エバはセフに会うだろう。セフを見るたび、エバは遠巻きにヒスイのことを思わざるをえない。

(そんなのは、嫌だ)

 そんなことは許されない。自分が拒まれて、セフが許容されるなんて。セフも同じ目に遭えばいい。

 でも実際そうはなるまい。幸か不幸か、セフは寺院の子だ。戒律があり、門限は厳しい。エバのように、自由に予章宮まで遊びにゆくことは不可能だ。

 でも、いやだからこそヒスイとは上手くいってしまうはずだ。たまにしか会えないからこそ、却ってお互いに不都合が無いはずなのだ。

(おかしい、そんなのはおかしい)

 足しげく通っていた自分がヒスイから拒まれ、自分よりも後からヒスイと親しくなったセフが、ヒスイに許容されるのか? ありえない、ありえない。そんなのは不公平だ。

 じゃあ、ヒスイに

「不公平だ」

 と言うのか?

 セフに

「ヒスイと近づくな」

 と言えるのか?

 言えるはずなんてない!

 エバは気が狂いそうだった。自分も傷つかず、ヒスイもセフも傷つかずにいられる方法などありはしない。

 身体を預けるように、エバはそっと芝生の上へ降り立った。はじめて予章宮に招待された際、門番によって案内された裏口がここにある。ここから予章宮へ入るのが、エバにとっていつしか定番になっていた。裏口の隠された扉を叩けば、どこかしらにいるヒスイが聞きつけ、わざわざ来てくれる。

 箒を脇に抱え、左手に籠を提げたまま、エバは右手で扉を叩いた。石でできた予章宮の質量の前には、自分のノックなど何とも無意味なようにエバには思えてしまう。

 それでもヒスイは必ず聞きつけ、ここまで出向いてくれる。

 扉の箇所に耳をあて、ヒスイが来るか探ってみる。セフほど五感が鋭いわけではない。しかしたびたび来るうちに、エバはヒスイの“気配”というものが分かるようになってきた。

 耳を澄ませていたエバの心に、ふと影が忍び寄ってくる。こんな、こんな他愛のないことができるのも、今日が最後。

好好兒カオカオア、エバ――」

 ヒスイが笑顔でやって来てくれるのも、

 ヒスイが笑顔を見せてくれるのも、

 今日が最後である。


「どうしたのよ、エバ? なまずが腸捻転になったような顔しちゃって」

「……あたし、そんな顔してるように見える?」

「フフフ……お菓子、持ってきてくれたんでしょう?」

 エバは口を開こうとしたが、ヒスイはうむを言わせなかった。橙色の胴衣シャツに藍色の襦袢ズボンといった、相変わらずのいでたちだった。左手には革製のグローブを嵌め、腰に巻くベルトを肩から提げている。

 お菓子の入った籠を手に取ると、ヒスイはエバに微笑んでみせた。

「それじゃ……」

 ヒスイはそう口にした。それから少し間が開く。

「そうね、今日は外に出ない?」

 エバにとっては、予期せぬ台詞だった。

「外に?」

「ええ。――好いでしょう、たまには? それとも、何? こんないい天気の日に閉じこもるほど、エバはインドア派なわけ?」

「そんなんじゃないけど……」

「じゃ、行きましょうよ。ほら、箒は置いておいていいから!」

 どこからか草履を引っ張り出すと、ヒスイは裏口から外へ出る。左手に籠を持ち直すと、ヒスイは右手で、エバの左手を掴む。

 ヒスイの握る力が強いことに、エバは内心驚いた。だが気にするそぶりもなく、ヒスイはエバをどこかへ連れてゆく。


 二人がたどり着いた先は、予章宮のすぐ側にある川原だった。かつてはイェンに連れられ、ヒスイとエバはよく川原で遊んだものだった。川のせせらぎは耳に涼しく、居心地はよかった。

「ねぇ、ヒスイ。この川ってどこから続いているのかしら?」

「さぁ……考えたこともないわ。イェンさんに聞いてみればいいんだけどね?」

「――あれ? イェンさんに会ったんじゃないの?」

「泰日楼までは来たそうね」

 籠を地面に置くと、ヒスイは小川に右手を浸した。

「でも転日京へ帰ったそうよ。早馬が来たんだって」

(クライン導師のことだ)

 エバは直感的にそう考えたが、黙っていることにした。今はこの最後の一時を、自分のためだけに使いたかった。

「エバ、いつもありがとうね」

「えっ?」

「お菓子のことよ」

 いつの間にか、エバは無意識に籠を自分の方へ手繰り寄せていた。ヒスイは包みに手を伸ばし、籠の中の焼き菓子を手に取る。

「ヒスイ、そのさ……」

「いただきまーす」

 ヒスイは焼き菓子をかじった。

 やめて。

 やめてよ。

「やめて」

 エバは言った。自分でも情けないくらい、小さくかすれた声だった。道すがら、いや一週間考え続けていたことが、エバの中に突如として沸き上がった。

「やめてってば!!!」

 ヒスイの手首を掴む。かじりかけの焼き菓子が、芝生を転がった。

「エバ……?!」

 ヒスイが目を丸くし、エバの顔を覗きこんだ。その驚いた表情といったら。

 ヒスイは、本心から驚いているようだった。

 なんだ、こんなの、惨めじゃないか。――目頭が熱くなるのを、エバは感じ取っていた。取り落とした籠が、地面で音を立てる。ヒスイと自分との間に生まれる、深く暗い断絶。自分ばかりが考え込んで、今最悪の結末を迎えようとしている。

「待って!」

 ヒスイの制止も聞かず、エバは逃げ出していた。その場にいることが、どうしても耐えられなかった。どこか遠くの、誰も知らない場所へ行かなくてはならない。いまその場所こそ、エバが必要としたところだった。

 やがて息が上がってくる。どうにも我慢がならず、エバは川原の隅にある岩の後ろへ隠れた。下流へ向かうにつれ、小川は次第に幅と深さを増している。

苔むした岩肌に背を預けつつ、エバはひとしきり泣くのだった。

 どうする、

 これから、どうする?

 そんなことは分からない。エバこそ知りたいことだった。今更になって、エバは逃げ出した自分を恥じた。逃げたところでどうにもならない。ヒスイはかならず、自分を追いかけて来るだろう。そしたらどうすればいい? どんな顔をすればいい?

「エバ」

 声に気づき、エバは顔を上げた。

「ヒスイ……」

 そこには既に、ヒスイが立っている。エバの仕打ちにも関わらず、ヒスイの表情は至って穏やかだった。

 ヒスイの右手には、何かが握られている。芝生を転がったはずの、焼き菓子の残りだ。

「ヒスイ……あのね……あたし……」

 立ち上がったエバの下へ、ヒスイは歩み寄ってくる。エバの目の前で、ヒスイは焼き菓子をかじった。

「あたしは……!」

 それ以上を、ヒスイは言わせなかった。エバににじりよると、ヒスイは自らの唇で、エバの口を塞いだ。

 思わず仰け反ろうとするエバの背に、ヒスイは両腕を回す。背中と、後頭部を抱えられ、エバはもう身動きができなかった。互いの唇が触れ合う。ヒスイの口からは甘い密が漏れ、エバの喉へ注がれてゆく。

 エバの真珠色の髪が、ヒスイの手により撫でられた。榴の実の甘い香りが、エバの鼻孔をくすぐる。エバの胸に、ヒスイの胸が押しつけられる。エバ以上に、ヒスイの鼓動も高鳴っていた。

 エバはもう、考えることをやめてしまった。何を考えても無駄な気がした。ただヒスイに体を預け、エバはヒスイと触れ合うことの歓びを感じるだけだった。

 永遠的な時間だった。だがそれも終わりを迎える。回した腕をほどくと、ヒスイはエバから唇を離す。

 名残惜しいエバに対して、ヒスイはどこまでも無邪気そうに微笑んでから、

「やめましょう」

 と告げた。

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