高鳴る鼓動に比して、エバの心は沈んでゆく。箒で空を飛ぶときの高揚感も、今のエバには無かった。
ヒスイに別れを告げるのである。一緒にいたら、またヒスイに気を遣わせてしまうだけである。エバとしては、どうしてもそれだけは避けたかった。
(どうして王都に留まらなかったのだろう?)
今さらながら、エバは後悔していた。
(これからどうしよう?)
先の見えない不安に、エバは鳥肌をたてる。ヒスイから遠ざかることは簡単だ。自分は泰日楼の周辺に居さえすればよい。基本的にヒスイは予章宮を出ない。だから鉢合わせることはなくなる。
木々の合間から、予章宮が顔を出した。白亜の予章宮を俯瞰できるのも、今日が最後である。
(だけど、セフは?)
そのときふと、エバはセフのことを思い出した。
寺院にいるセフと仲良くなったのも、エバが物心ついて間もない頃だった。
セフは寺院で唯一の女の子であり、それゆえセフは寺院内に遊び相手が居なかった。
リリスは寺院の僧侶達と親しい間柄だった。そのためにエバも寺院によく連れて行かれた。そこでエバはセフと知り合い、だんだんセフと親しくなってきたのだ。
そんなセフとヒスイが知り合ったのは、つい五、六年ほど昔のことだ。僧正の説法を聴きに、お忍びではるばるヒスイが寺院までやって来たのだ。
引っ込み思案で内向的なセフだったが、それでもすぐヒスイとセフは打ち解けた。
もっとも、“年下”ということで恐縮しまくっているセフを、ヒスイがいじって遊んでいる感じだったが。
それでも、ヒスイが気さくにちょっかいを出したお蔭で、セフとのわだかまりもあっという間に無くなった。それからはずっと、ヒスイ、エバ、そしてセフの三人でうまくやってきている。
たとえエバがヒスイから遠ざかっても、セフはヒスイと交流を続けるだろう。
エバが去ったことで空いた立場を、セフが奪うのだ。
そうなったとき、ヒスイは完全にエバを忘れている。
それはそれでいい。だがセフが自分の役割を果たすことに、エバは納得がいかなかった。
いや、“我慢がならなかった”。
セフはヒスイを独り占めにする。ヒスイには会わずとも、これからたびたび、エバはセフに会うだろう。セフを見るたび、エバは遠巻きにヒスイのことを思わざるをえない。
(そんなのは、嫌だ)
そんなことは許されない。自分が拒まれて、セフが許容されるなんて。セフも同じ目に遭えばいい。
でも実際そうはなるまい。幸か不幸か、セフは寺院の子だ。戒律があり、門限は厳しい。エバのように、自由に予章宮まで遊びにゆくことは不可能だ。
でも、いやだからこそヒスイとは上手くいってしまうはずだ。たまにしか会えないからこそ、却ってお互いに不都合が無いはずなのだ。
(おかしい、そんなのはおかしい)
足しげく通っていた自分がヒスイから拒まれ、自分よりも後からヒスイと親しくなったセフが、ヒスイに許容されるのか? ありえない、ありえない。そんなのは不公平だ。
じゃあ、ヒスイに
「不公平だ」
と言うのか?
セフに
「ヒスイと近づくな」
と言えるのか?
言えるはずなんてない!
エバは気が狂いそうだった。自分も傷つかず、ヒスイもセフも傷つかずにいられる方法などありはしない。
身体を預けるように、エバはそっと芝生の上へ降り立った。はじめて予章宮に招待された際、門番によって案内された裏口がここにある。ここから予章宮へ入るのが、エバにとっていつしか定番になっていた。裏口の隠された扉を叩けば、どこかしらにいるヒスイが聞きつけ、わざわざ来てくれる。
箒を脇に抱え、左手に籠を提げたまま、エバは右手で扉を叩いた。石でできた予章宮の質量の前には、自分のノックなど何とも無意味なようにエバには思えてしまう。
それでもヒスイは必ず聞きつけ、ここまで出向いてくれる。
扉の箇所に耳をあて、ヒスイが来るか探ってみる。セフほど五感が鋭いわけではない。しかしたびたび来るうちに、エバはヒスイの“気配”というものが分かるようになってきた。
耳を澄ませていたエバの心に、ふと影が忍び寄ってくる。こんな、こんな他愛のないことができるのも、今日が最後。
「好好兒、エバ――」
ヒスイが笑顔でやって来てくれるのも、
ヒスイが笑顔を見せてくれるのも、
今日が最後である。
「どうしたのよ、エバ? なまずが腸捻転になったような顔しちゃって」
「……あたし、そんな顔してるように見える?」
「フフフ……お菓子、持ってきてくれたんでしょう?」
エバは口を開こうとしたが、ヒスイはうむを言わせなかった。橙色の胴衣に藍色の襦袢といった、相変わらずのいでたちだった。左手には革製のグローブを嵌め、腰に巻く帯を肩から提げている。
お菓子の入った籠を手に取ると、ヒスイはエバに微笑んでみせた。
「それじゃ……」
ヒスイはそう口にした。それから少し間が開く。
「そうね、今日は外に出ない?」
エバにとっては、予期せぬ台詞だった。
「外に?」
「ええ。――好いでしょう、たまには? それとも、何? こんないい天気の日に閉じこもるほど、エバはインドア派なわけ?」
「そんなんじゃないけど……」
「じゃ、行きましょうよ。ほら、箒は置いておいていいから!」
どこからか草履を引っ張り出すと、ヒスイは裏口から外へ出る。左手に籠を持ち直すと、ヒスイは右手で、エバの左手を掴む。
ヒスイの握る力が強いことに、エバは内心驚いた。だが気にするそぶりもなく、ヒスイはエバをどこかへ連れてゆく。
二人がたどり着いた先は、予章宮のすぐ側にある川原だった。かつてはイェンに連れられ、ヒスイとエバはよく川原で遊んだものだった。川のせせらぎは耳に涼しく、居心地はよかった。
「ねぇ、ヒスイ。この川ってどこから続いているのかしら?」
「さぁ……考えたこともないわ。イェンさんに聞いてみればいいんだけどね?」
「――あれ? イェンさんに会ったんじゃないの?」
「泰日楼までは来たそうね」
籠を地面に置くと、ヒスイは小川に右手を浸した。
「でも転日京へ帰ったそうよ。早馬が来たんだって」
(クライン導師のことだ)
エバは直感的にそう考えたが、黙っていることにした。今はこの最後の一時を、自分のためだけに使いたかった。
「エバ、いつもありがとうね」
「えっ?」
「お菓子のことよ」
いつの間にか、エバは無意識に籠を自分の方へ手繰り寄せていた。ヒスイは包みに手を伸ばし、籠の中の焼き菓子を手に取る。
「ヒスイ、そのさ……」
「いただきまーす」
ヒスイは焼き菓子をかじった。
やめて。
やめてよ。
「やめて」
エバは言った。自分でも情けないくらい、小さくかすれた声だった。道すがら、いや一週間考え続けていたことが、エバの中に突如として沸き上がった。
「やめてってば!!!」
ヒスイの手首を掴む。かじりかけの焼き菓子が、芝生を転がった。
「エバ……?!」
ヒスイが目を丸くし、エバの顔を覗きこんだ。その驚いた表情といったら。
ヒスイは、本心から驚いているようだった。
なんだ、こんなの、惨めじゃないか。――目頭が熱くなるのを、エバは感じ取っていた。取り落とした籠が、地面で音を立てる。ヒスイと自分との間に生まれる、深く暗い断絶。自分ばかりが考え込んで、今最悪の結末を迎えようとしている。
「待って!」
ヒスイの制止も聞かず、エバは逃げ出していた。その場にいることが、どうしても耐えられなかった。どこか遠くの、誰も知らない場所へ行かなくてはならない。いまその場所こそ、エバが必要としたところだった。
やがて息が上がってくる。どうにも我慢がならず、エバは川原の隅にある岩の後ろへ隠れた。下流へ向かうにつれ、小川は次第に幅と深さを増している。
苔むした岩肌に背を預けつつ、エバはひとしきり泣くのだった。
どうする、
これから、どうする?
そんなことは分からない。エバこそ知りたいことだった。今更になって、エバは逃げ出した自分を恥じた。逃げたところでどうにもならない。ヒスイはかならず、自分を追いかけて来るだろう。そしたらどうすればいい? どんな顔をすればいい?
「エバ」
声に気づき、エバは顔を上げた。
「ヒスイ……」
そこには既に、ヒスイが立っている。エバの仕打ちにも関わらず、ヒスイの表情は至って穏やかだった。
ヒスイの右手には、何かが握られている。芝生を転がったはずの、焼き菓子の残りだ。
「ヒスイ……あのね……あたし……」
立ち上がったエバの下へ、ヒスイは歩み寄ってくる。エバの目の前で、ヒスイは焼き菓子をかじった。
「あたしは……!」
それ以上を、ヒスイは言わせなかった。エバににじりよると、ヒスイは自らの唇で、エバの口を塞いだ。
思わず仰け反ろうとするエバの背に、ヒスイは両腕を回す。背中と、後頭部を抱えられ、エバはもう身動きができなかった。互いの唇が触れ合う。ヒスイの口からは甘い密が漏れ、エバの喉へ注がれてゆく。
エバの真珠色の髪が、ヒスイの手により撫でられた。榴の実の甘い香りが、エバの鼻孔をくすぐる。エバの胸に、ヒスイの胸が押しつけられる。エバ以上に、ヒスイの鼓動も高鳴っていた。
エバはもう、考えることをやめてしまった。何を考えても無駄な気がした。ただヒスイに体を預け、エバはヒスイと触れ合うことの歓びを感じるだけだった。
永遠的な時間だった。だがそれも終わりを迎える。回した腕をほどくと、ヒスイはエバから唇を離す。
名残惜しいエバに対して、ヒスイはどこまでも無邪気そうに微笑んでから、
「やめましょう」
と告げた。