その後もたびたび、エバは焼き菓子を作り、ヒスイの下まで遊びに行った。
(ヒスイの邪魔になるのではないか)
と、内心エバは不安だった。しかしヒスイは、いつでもエバを快く迎えてくれた。
二人して同じ焼き菓子を食べ、お茶を飲み、他愛もない話をする――特別な変化のない、平和でのどかな、静止した時間の中に二人はいた。
やがてヒスイは
「内緒だよ」
と断ってから、エバを自室へと案内した。ヒスイが寝起きしている、正真正銘の“ヒスイの部屋”である。
大きな期待を込めて足を踏み入れたエバだったが、思いの外がらんとした部屋の内装に、少しばかり不安になる。目立つ家具といえば、文机と、寝台と、あとは小物入れ程度しかない。長方形の部屋の奥に、申し訳程度の暖炉が付いているだけである。
「あれ? エバ」
エバの顔を覗きこみ、ヒスイが悪戯っぽく訊いた。
「もしかして、ガッカリした?」
「へ? い、いや別にそんなこともないけど……」
「フフフ……」
とりつくろうエバに対し、ヒスイは意味深げに笑うのみだった。
「おお、エバかの?」
泰日楼の街を散策していたエバを、誰かが呼び止める。ふとそちらへ目をやれば、イェンがいた。
「あれ、イェンさん? ……お久しぶりです」
「久しぶりじゃの、エバ」
実に何ヶ月ぶりになるのか分からない。白色の衣に赤い帯を締めたイェンが立っていた。
すぐ側ではせわしなく、配下の兵士たちが荷造りを行っていた。どうやらイェンは、それを監督している最中のようだ。
ヒスイの傅育掛をしていたイェンだったが、ヒスイが成長してからは、“イェンさん”としてではなく“国従海炎”としての役割に戻っていた。
ヒスイの幼い頃には、イェンもほぼ予章宮に住み込み、ヒスイの面倒を見ていた。だが今現在は転日京にいるのがもっぱらとなり、予章宮や泰日楼までイェンが出向くことは稀になっている。
イェンのことを“イェンさん”などと気安く呼べるのは、おそらくヒスイと、エバと、セフぐらいなものだろう。
それ以外の人はちょっと怖くて、軽々しく“イェンさん”なんて呼べない。
「妾も聞いたぞ。クラインのジジイから魔術の免状を授かったとな? いやーリリスもそうじゃが大したもんじゃ」
「はは……ありがとうございます」
誉めそやすイェンに、エバは微苦笑で応じる。クラインとイェンの仲が悪いのは、都会に住む誰しもが知っている事情だ。
といっても険悪な仲というわけではなく、あくまで悪友としての関係であるらしい。事実クラインを“ジジイ”呼ばわりしているイェンも、心なしか愉快そうだった。
「イェンさんはどうしてここに?」
「うむ。兵士たちの引継ぎじゃな。水瓶門におる部隊と、ここにおる部隊とが交代になるのじゃ。……まぁもっとも、この街は僧正の管轄内じゃからな、仕事も少なくて妾も暇じゃ」
「フフフ……じゃあ、久しぶりにヒスイのところまで行けばいいんじゃないですか?」
「むろんそのつもりじゃ――」
顔をほころばせ、イェンは続けて何かを言おうとする。
そのとき、二人の脇から別の人が声を上げた。
「もし……あなたは海国従閣下であらせられますか?」
相手は、品のよい老人だった。従者と思しき若者が後ろに一人いる。彼は何かを大切そうに抱えていた。
「うむ、そうじゃ。して、ご老公は……?」
「申し遅れました。私はジンと申します。泰日楼よりやや南東にある青という村で村長をやっております」
「ふむ。それでジン殿は妾にどのようなご用件かの?」
二人を交互に見つめていたエバは、不思議な感覚にとらわれていた。ジンという老人のほうが、見た目はイェンより老いている。しかし実年齢において、二人の年齢はさして変わらないはずだった。
いやもしかしたら、イェンのほうが年上かもしれない。年下かもしれない相手に対してイェンは“ご老公”と言っているのだ。
「はい、……ほら、こちらへ」
ジン翁は従者を手招きする。呼ばれた従者は二人の側までやってくると、両手に抱えていた包みをイェンに差し出した。その包みを受け取ると、イェンは中身をあらためてみる。
「あァ……」
包みを開いたイェンが、感嘆の声を上げる。近寄ると、エバもそっと包みの中を覗いた。程よく熟した榴の実 (ザクロ)が、大切そうにくるまれていた。
「私どもの村で、最もはじめに採れた榴の実でございます。ヒスイ様にぜひともお召し上がりいただきたいのですが、なにぶん私どもの身分では、ヒスイ様にお会いすることもかないません。海国従閣下がこちらへ参ったと聞きつけ、居ても立ってもいられずこちらへ参った次第ですが……なにとぞ、私どもの代わりに、ヒスイ様へお届け願いませぬか?」
このとおり、とばかりに、ジン翁とその従者はイェンに深々と頭を下げる。イェンの様子を、エバも何気なくうかがった。
エバの予想に反し、イェンはもどかしげな表情をしている。
嫌な予感が、エバの脳裏をよぎった。イェンはきっと、ジン翁たちの頼みを聞き届けるだろう。だが――。
「うむ。承知した、ジン殿。お安い御用じゃ、了解じゃ」
瞬きをしないまま、イェンが早口に言った。
顔を上げたジン翁は、心底嬉しそうである。
「左様にございますか?! ああ、好かった。来た甲斐がありました……」
「安心ござれ、ジン殿」
イェンが差し出した榴の実の包みを、エバは無意識に受け取った。
「この国従が、責任をもって渡すでな……」
頼みを聞き届けられたジン翁は、その後も何度も礼を言いながら、村までの帰路へと着いた。
「やれやれ、参ったのう……」
ため息混じりに、イェンが呟いた。すでにジン翁たちの姿は、街路の向こうへ消えている。胸のざわつきが、エバの中で一層激しくなった。
――イェンに何も訊くな!
エバの第六感が、しきりにエバに訴えていた。質問するのは、好くない。絶対に好くない。本能では分かっていた。分かりきっていることだった。
「どうしてですか?」
だけど、エバは質問せずにいられなかった。イェンが動揺する理由――ヒスイに対する関心を、エバは抑えることができなかった。知りたくないという気持ちと、知りたいと思う気持ちがせめぎあい、弾ける。
「ヒスイは……生の食べ物は食わぬのじゃ」
躊躇いがちに口を開くと、エバに預けていた包みをイェンは取り返した。
「いや、もっと言えば『自分の目の前で調理されたもの以外』じゃな。それ以外は絶対に口にせぬ」
周囲の空気が凍り付いてしまったかのような錯覚が、エバを襲った。時間がエバの隣で、勢いを失い、凝固し始める。
ウソだ、そんなのはウソだ。
だってヒスイは、自分の作った焼き菓子を、食べていたじゃないか。
いや、「食べてくれていた」のか?
食べているふりなのか?
「どうして?」
この言葉は、イェンに向けられたものではなかった。静止した時間に対し、エバが出来た唯一の抵抗だった。脚から力が抜けていくのが分かる。立っているのが精一杯だった。
「ふむ……まぁ、ヒスイらしいといえばそれまでなのじゃが、」
イェンはそんな事情を知るはずがない。
「『食べ物には毒が入っているかもしれないから』じゃったかのう? エバ、お前さんもヒスイに連れられてご馳走されたじゃろ? あの時だって厨房が食堂とつながっていたはずじゃろ」
――毒が入っているかもしれない?
鉄芯を埋め込まれたかのような鈍い痛みが、エバの胸に走る。体内の臓器が、皆裏返ってしまいそうだった。悲鳴を上げたくなる衝動を、エバは堪える。閉じ込めた悲鳴が体内にこだまし、不協和音となって骨を揺さぶるかのようだった。
そうだ、イェンの言うとおりだ。
冷静に考えれば、エバにだって分かったはずだ。ヒスイが厨房をうろついてはつまみ食いをするのも、「料理人が毒を盛る」という、万が一の可能性を防ぐため。
お茶を淹れるため、わざわざ料理人が大挙して部屋まで押し寄せるのも、自分の目が届かぬところで、毒が入れられるのをヒスイが怖れるため。
ヒスイはほとんど、予章宮から出ない。そしてヒスイは一般人を、ほとんど予章宮に招かない。そして目の前で料理されたもの以外を、ヒスイは食べようとしない。
なぜなら毒を盛られるのが怖いから。
そんなヒスイがエバと一緒に外で泥団子を作り、わざわざエバを予章宮に招き、わざわざエバの焼き菓子だけは食べている。
それはどうして?
答え。ヒスイはエバを傷つけたくなかったから。
それはつまり、エバが知らず知らずの内にヒスイを傷つけていたということ。ヒスイの努力のすべてを、エバの行いが否定したということ。
自分が心から笑っている裏で、ヒスイは微笑するだけだった。心から、エバと一緒にヒスイは笑っていない。
勇者の娘は笑わない。
その日もエバは、明朝から焼き菓子を作っていた。
生地を焼く手順はいつも通りだったが、今回は餡の中にすり潰した榴の実を練っている。
「しかし、どうしたものかの。まさか果物を焼いて喰うワケにはいかぬし……」
と、逡巡していたイェンから貰い受けたものである。
イェンと出くわしたその日には、結局予章宮まで行かなかった。とても行く気にはなれず、そのまま布団に突っ伏して眠ってしまった。
あれから一週間。エバは、ヒスイのことしか考えられなくなっていた。
出来た焼き菓子を一つつまむと、エバはそっとかじってみる。外側の生地は香ばしく、中に包まれた餡は蜜を湛えている。まだかなり熱かったが、焼き菓子は満足のいく出来栄えだった。一番はじめに作った焼き菓子と比べても、格段に上手になっているということがエバにも分かる。
焼き菓子がすっかり冷めるまでには、まだ少し時間がある。ちゃんと冷めてから、ヒスイのところへ持って行こう。
(持っていってどうなる?)
持って行けば、ヒスイは食べてくれるだろう。今までだってそうしてくれたのだから。そしてお茶を飲んで、他愛もない話をして、帰る。それで終わり?
終わりだ。いや、“終わらせる”のだ。エバには平和であり、ヒスイには不毛であるはずの時間を終わらせるのである。
立ちすくむエバの耳に、外からの音が聞こえてきた。誰かが急いで駆けているらしい。足音と、荒い息遣いが聞こえてくる。やがて足音は、エバの家の前で止まる。
(誰だろう?)
エバがいぶかしむより先に、扉が叩かれる。
「早上好……」
外から、若い男の声が響いてきた。
「寺院のものです。姉君からの手紙をお届けに参りました」
“姉君”――その単語に、エバは一抹の疑念を覚える。王都にいるはずの姉・リリスが、一体エバに何の用だというのだろう。
「早上好、僧侶さん。わざわざのご足労感謝いたします」
そう言って、エバは僧兵から書状を貰う。僧兵が引き下がるのを見送ってから、エバは椅子に腰掛け、書状の中身をあらためてみる。
「【エバ殿ヘ速達。】」
手紙はそんな見出しから始まっている。もともとリリスは字が汚いほうである。加えて墨を派手に引きずっているため、判読が余計困難になってくる。
【エバ殿ヘ速達。去ル王紀泰陰陽三十九年泰陽虎嘯五日、国従魔閣下后来院ニテ逝去サレタリ。】
文様めいた文字を懸命に読み進めていたエバは、“逝去”の文字に目を疑った。
(クライン導師が?!)
それはエバの魔術の師匠・クラインの死を告げたものだった。改めてエバは、日付を確認してみる。“五日”、ということはちょうど一週間前のことである。
いつごろに亡くなったのかは分からない。だがクラインに対してイェンが軽口を叩いていたそのとき、クラインは死生の境界をさまよっていたのである。
これを知ったら、一体イェンはどんな顔をするのだろう。
手紙には、ほかに何も書かれていない。久々の連絡だというのに、リリスの手紙は実に格式ばった代物だった。一週間も前のことならば、既に葬儀は終えているのだろう。そう考えるとエバは、無性にやるせなく感じる。
それでも、ヒスイのところにだけは行かなくてはならない。これが予章宮へ向かう最後である。
(これっきりもう、ヒスイとは会わない)
そう決心し、エバは身支度を整え始める。