第80話:魔法少女の長すぎる回想(3)

 その後もたびたび、エバは焼き菓子を作り、ヒスイの下まで遊びに行った。

(ヒスイの邪魔になるのではないか)

 と、内心エバは不安だった。しかしヒスイは、いつでもエバを快く迎えてくれた。

 二人して同じ焼き菓子を食べ、お茶を飲み、他愛もない話をする――特別な変化のない、平和でのどかな、静止した時間の中に二人はいた。

 やがてヒスイは

「内緒だよ」

 と断ってから、エバを自室へと案内した。ヒスイが寝起きしている、正真正銘の“ヒスイの部屋”である。

 大きな期待を込めて足を踏み入れたエバだったが、思いの外がらんとした部屋の内装に、少しばかり不安になる。目立つ家具といえば、文机と、寝台と、あとは小物入れ程度しかない。長方形の部屋の奥に、申し訳程度の暖炉が付いているだけである。

「あれ? エバ」

 エバの顔を覗きこみ、ヒスイが悪戯っぽく訊いた。

「もしかして、ガッカリした?」

「へ? い、いや別にそんなこともないけど……」

「フフフ……」

 とりつくろうエバに対し、ヒスイは意味深げに笑うのみだった。


「おお、エバかの?」

 泰日楼テイロスの街を散策していたエバを、誰かが呼び止める。ふとそちらへ目をやれば、イェンがいた。

「あれ、イェンさん? ……お久しぶりです」

「久しぶりじゃの、エバ」

 実に何ヶ月ぶりになるのか分からない。白色の衣に赤い帯を締めたイェンが立っていた。

 すぐ側ではせわしなく、配下の兵士たちが荷造りを行っていた。どうやらイェンは、それを監督している最中のようだ。

 ヒスイの傅育掛をしていたイェンだったが、ヒスイが成長してからは、“イェンさん”としてではなく“国従海炎”としての役割に戻っていた。

 ヒスイの幼い頃には、イェンもほぼ予章宮に住み込み、ヒスイの面倒を見ていた。だが今現在は転日京にいるのがもっぱらとなり、予章宮や泰日楼までイェンが出向くことは稀になっている。

 イェンのことを“イェンさん”などと気安く呼べるのは、おそらくヒスイと、エバと、セフぐらいなものだろう。

 それ以外の人はちょっと怖くて、軽々しく“イェンさん”なんて呼べない。

あれも聞いたぞ。クラインのジジイから魔術の免状を授かったとな? いやーリリスもそうじゃが大したもんじゃ」

「はは……ありがとうございます」

 誉めそやすイェンに、エバは微苦笑で応じる。クラインとイェンの仲が悪いのは、都会に住む誰しもが知っている事情だ。

 といっても険悪な仲というわけではなく、あくまで悪友としての関係であるらしい。事実クラインを“ジジイ”呼ばわりしているイェンも、心なしか愉快そうだった。

「イェンさんはどうしてここに?」

「うむ。兵士たちの引継ぎじゃな。水瓶門シュイビトにおる部隊と、ここにおる部隊とが交代になるのじゃ。……まぁもっとも、この街は僧正の管轄内じゃからな、仕事も少なくてあれも暇じゃ」

「フフフ……じゃあ、久しぶりにヒスイのところまで行けばいいんじゃないですか?」

「むろんそのつもりじゃ――」

 顔をほころばせ、イェンは続けて何かを言おうとする。

 そのとき、二人の脇から別の人が声を上げた。

「もし……あなたは海国従閣下であらせられますか?」

 相手は、品のよい老人だった。従者と思しき若者が後ろに一人いる。彼は何かを大切そうに抱えていた。

「うむ、そうじゃ。して、ご老公は……?」

「申し遅れました。私はジンと申します。泰日楼よりやや南東にあるサウという村で村長をやっております」

「ふむ。それでジン殿はあれにどのようなご用件かの?」

 二人を交互に見つめていたエバは、不思議な感覚にとらわれていた。ジンという老人のほうが、見た目はイェンより老いている。しかし実年齢において、二人の年齢はさして変わらないはずだった。

 いやもしかしたら、イェンのほうが年上かもしれない。年下かもしれない相手に対してイェンは“ご老公”と言っているのだ。

「はい、……ほら、こちらへ」

 ジン翁は従者を手招きする。呼ばれた従者は二人の側までやってくると、両手に抱えていた包みをイェンに差し出した。その包みを受け取ると、イェンは中身をあらためてみる。

「あァ……」

 包みを開いたイェンが、感嘆の声を上げる。近寄ると、エバもそっと包みの中を覗いた。程よく熟したリウの実 (ザクロ)が、大切そうにくるまれていた。

「私どもの村で、最もはじめに採れた榴の実でございます。ヒスイ様にぜひともお召し上がりいただきたいのですが、なにぶん私どもの身分では、ヒスイ様にお会いすることもかないません。海国従閣下がこちらへ参ったと聞きつけ、居ても立ってもいられずこちらへ参った次第ですが……なにとぞ、私どもの代わりに、ヒスイ様へお届け願いませぬか?」

 このとおり、とばかりに、ジン翁とその従者はイェンに深々と頭を下げる。イェンの様子を、エバも何気なくうかがった。

 エバの予想に反し、イェンはもどかしげな表情をしている。

 嫌な予感が、エバの脳裏をよぎった。イェンはきっと、ジン翁たちの頼みを聞き届けるだろう。だが――。

「うむ。承知した、ジン殿。お安い御用じゃ、了解リャオジエじゃ」

 瞬きをしないまま、イェンが早口に言った。

 顔を上げたジン翁は、心底嬉しそうである。

「左様にございますか?! ああ、好かった。来た甲斐がありました……」

「安心ござれ、ジン殿」

 イェンが差し出したリウの実の包みを、エバは無意識に受け取った。

「この国従が、責任をもって渡すでな……」

 頼みを聞き届けられたジン翁は、その後も何度も礼を言いながら、村までの帰路へと着いた。


「やれやれ、参ったのう……」

 ため息混じりに、イェンが呟いた。すでにジン翁たちの姿は、街路の向こうへ消えている。胸のざわつきが、エバの中で一層激しくなった。

――イェンに何も訊くな!

 エバの第六感が、しきりにエバに訴えていた。質問するのは、好くない。絶対に好くない。本能では分かっていた。分かりきっていることだった。

「どうしてですか?」

 だけど、エバは質問せずにいられなかった。イェンが動揺する理由――ヒスイに対する関心を、エバは抑えることができなかった。知りたくないという気持ちと、知りたいと思う気持ちがせめぎあい、弾ける。

「ヒスイは……生の食べ物は食わぬのじゃ」

 躊躇いがちに口を開くと、エバに預けていた包みをイェンは取り返した。

「いや、もっと言えば『自分の目の前で調理されたもの以外』じゃな。それ以外は絶対に口にせぬ」

 周囲の空気が凍り付いてしまったかのような錯覚が、エバを襲った。時間がエバの隣で、勢いを失い、凝固し始める。

 ウソだ、そんなのはウソだ。

 だってヒスイは、自分の作った焼き菓子を、食べていたじゃないか。

 いや、「食べてくれていた」のか?

 食べているふりなのか?

「どうして?」

 この言葉は、イェンに向けられたものではなかった。静止した時間に対し、エバが出来た唯一の抵抗だった。脚から力が抜けていくのが分かる。立っているのが精一杯だった。

「ふむ……まぁ、ヒスイらしいといえばそれまでなのじゃが、」

 イェンはそんな事情を知るはずがない。

「『食べ物には毒が入っているかもしれないから』じゃったかのう? エバ、お前さんもヒスイに連れられてご馳走されたじゃろ? あの時だって厨房が食堂とつながっていたはずじゃろ」

――毒が入っているかもしれない?

 鉄芯を埋め込まれたかのような鈍い痛みが、エバの胸に走る。体内の臓器が、皆裏返ってしまいそうだった。悲鳴を上げたくなる衝動を、エバは堪える。閉じ込めた悲鳴が体内にこだまし、不協和音となって骨を揺さぶるかのようだった。

 そうだ、イェンの言うとおりだ。

 冷静に考えれば、エバにだって分かったはずだ。ヒスイが厨房をうろついてはつまみ食いをするのも、「料理人が毒を盛る」という、万が一の可能性を防ぐため。

 お茶を淹れるため、わざわざ料理人が大挙して部屋まで押し寄せるのも、自分の目が届かぬところで、毒が入れられるのをヒスイが怖れるため。

 ヒスイはほとんど、予章宮から出ない。そしてヒスイは一般人を、ほとんど予章宮に招かない。そして目の前で料理されたもの以外を、ヒスイは食べようとしない。

 なぜなら毒を盛られるのが怖いから。

 そんなヒスイがエバと一緒に外で泥団子を作り、わざわざエバを予章宮に招き、わざわざエバの焼き菓子だけは食べている。

 それはどうして?

 答え。ヒスイはエバを傷つけたくなかったから。

 それはつまり、エバが知らず知らずの内にヒスイを傷つけていたということ。ヒスイの努力のすべてを、エバの行いが否定したということ。

 自分が心から笑っている裏で、ヒスイは微笑するだけだった。心から、エバと一緒にヒスイは笑っていない。

 勇者の娘は笑わない。


 その日もエバは、明朝から焼き菓子を作っていた。

 生地を焼く手順はいつも通りだったが、今回は餡の中にすり潰した榴の実を練っている。

「しかし、どうしたものかの。まさか果物を焼いて喰うワケにはいかぬし……」

 と、逡巡していたイェンから貰い受けたものである。

 イェンと出くわしたその日には、結局予章宮まで行かなかった。とても行く気にはなれず、そのまま布団に突っ伏して眠ってしまった。

 あれから一週間。エバは、ヒスイのことしか考えられなくなっていた。

 出来た焼き菓子を一つつまむと、エバはそっとかじってみる。外側の生地は香ばしく、中に包まれた餡は蜜を湛えている。まだかなり熱かったが、焼き菓子は満足のいく出来栄えだった。一番はじめに作った焼き菓子と比べても、格段に上手になっているということがエバにも分かる。

 焼き菓子がすっかり冷めるまでには、まだ少し時間がある。ちゃんと冷めてから、ヒスイのところへ持って行こう。

(持っていってどうなる?)

 持って行けば、ヒスイは食べてくれるだろう。今までだってそうしてくれたのだから。そしてお茶を飲んで、他愛もない話をして、帰る。それで終わり?

 終わりだ。いや、“終わらせる”のだ。エバには平和であり、ヒスイには不毛であるはずの時間を終わらせるのである。

 立ちすくむエバの耳に、外からの音が聞こえてきた。誰かが急いで駆けているらしい。足音と、荒い息遣いが聞こえてくる。やがて足音は、エバの家の前で止まる。

(誰だろう?)

 エバがいぶかしむより先に、扉が叩かれる。

早上好サオシャンカオ……」

 外から、若い男の声が響いてきた。

「寺院のものです。姉君からの手紙をお届けに参りました」

“姉君”――その単語に、エバは一抹の疑念を覚える。王都にいるはずの姉・リリスが、一体エバに何の用だというのだろう。

早上好サオシャンカオ、僧侶さん。わざわざのご足労感謝いたします」

 そう言って、エバは僧兵から書状を貰う。僧兵が引き下がるのを見送ってから、エバは椅子に腰掛け、書状の中身をあらためてみる。

「【エバ殿ヘ速達。】」

 手紙はそんな見出しから始まっている。もともとリリスは字が汚いほうである。加えて墨を派手に引きずっているため、判読が余計困難になってくる。

【エバ殿ヘ速達。去ル王紀泰陰陽三十九年泰陽虎嘯五日、国従魔閣下后来院ニテ逝去サレタリ。】

 文様めいた文字を懸命に読み進めていたエバは、“逝去”の文字に目を疑った。

(クライン導師が?!)

 それはエバの魔術の師匠・クラインの死を告げたものだった。改めてエバは、日付を確認してみる。“五日”、ということはちょうど一週間前のことである。

 いつごろに亡くなったのかは分からない。だがクラインに対してイェンが軽口を叩いていたそのとき、クラインは死生の境界をさまよっていたのである。

 これを知ったら、一体イェンはどんな顔をするのだろう。

 手紙には、ほかに何も書かれていない。久々の連絡だというのに、リリスの手紙は実に格式ばった代物だった。一週間も前のことならば、既に葬儀は終えているのだろう。そう考えるとエバは、無性にやるせなく感じる。

 それでも、ヒスイのところにだけは行かなくてはならない。これが予章宮へ向かう最後である。

(これっきりもう、ヒスイとは会わない)

 そう決心し、エバは身支度を整え始める。

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