その日、エバは早起きをすると、着替えを済まして台所へと降り立った。
泰日楼の一画にて、リリスとエバの姉妹はつましく暮らしていた。リリスはもっぱら王都で活動しているため、魔術師としての免状をもらって以降、この家は事実上エバのものだった。
台所は基本的に、錬庵も兼ねている。戸棚や引き出しは、常に薬草などの素材でいっぱいだった。
今日は焼餅を作ることに決めていた。これならば何度も作ったことがある。薄く延ばした生地に、蜜と餡を入れて作る焼き菓子だ。下ごしらえは既に昨日やっておいた。リンゴを切って蜂蜜につけ、あとはそれらをよくすり潰してもち米と和え、最後は生地に包んで焼くだけである。
もう焼餅の完成図はできている。昨日の夜、布団に寝そべっている間中、エバは焼き菓子を作るイメージを膨らませていた。頭の中で、もう何度生地と餡を練り合わせたか分からない。
「よし」
と気合を込めると、早速エバは料理の支度に取り掛かった。
「できた!」
エバは思わず、一人で歓声を上げた。
起き抜けには暗かった空も、今ではだいぶ明るくなってきている。
指を鳴らし、エバは竃の火を魔力で一気に消し去る。蓋を持ち上げ、エバは鉄板に並べられた焼き菓子たちを、そっとテーブルまで運んだ。甘い匂いがエバの鼻孔をくすぐる。イメージしていたよりも、ずっと洗練された仕上がりだった。
(あとは、冷めるのを待つだけ)
できた焼き菓子を皿の上に並べると、エバはそれに覆いをする。これから身支度を整えねばならない。
エバは予章宮へ――ヒスイのもとへ行くつもりだった。
箒で優雅に漂いながら、エバは予章宮の入り口を目指した。眼下には鬱蒼と木々が茂り、遠くを見れば海と山並みが一望できる。
できるかぎり、エバは高いところを飛ぶのが好きだった。むろん、高く飛ぶのは危険が大きい上、魔力の消費量も大きい。特にもともと魔力の少ないエバは、箒にさまざまな細工をしないといけない。でないと、普通の魔法使い並みに飛ぶのさえエバには難儀だった。
魔力が少ない分だけ、エバは工夫に工夫を重ねた。勉強したことに関しては、誰にだって負けないつもりでいる。
しかしエバがどれだけ努力しようとも、姉のリリスは軽々とそれを超えてしまう。
(同じ姉妹なのに、こうも違うものか)
と、エバはたびたび思った。工夫をすればするほど、細工をすればするほど、エバは自分と姉との超えられぬ壁を実感し、やるせない気持ちに駆られていた。
箒の先端にぶら提げた籠が、はげしく揺れる。
(ダメだ)
頭を横に振ると、エバは不愉快な感情を払拭しようとした。くだらないことを考え始めると、悪いことばかり思い出すようになる。今は目先のことに集中しなくてはならない。ヒスイに焼き菓子を食べてもらうのだ。
箒の柄を握りなおし、エバは集中する。
木々に囲まれた丘の中腹から、予章宮が姿を見せ始めた。
予章宮の近くには、小川が流れている。幼い頃から、ここでヒスイと泥だんごをぶつけ合ったりしていた。だからエバも、小川の周辺には馴染みがある。
川べりに降り立つと、エバは近くの岩陰に箒を隠した。万が一誰かに盗まれると大変だ。たとえ箒を盗んだところで、盗人が箒に乗れるわけではない。ただエバの箒はエバが作りこんだものである。あれを盗まれてしまったら途方に暮れるしかない。
籠の取っ手を握り締め、エバは小川の浅い部分を渡る。渡りきってからエバは、自らの額をハンカチで拭った。ヒスイの招待で料理をご馳走になってから、すでに半年経っている。夏は過ぎ、竜の島は秋を迎えつつあった。汗なんて見苦しいものを掻いているわけにはいかなかった。
焼き菓子の入った籠を携え、エバは予章宮の正門までやってきた。幼いときから何度も見てきた、予章宮の白い建物。
「お待ちを」
正門の前には、兵士が二人いる。控えていた兵士の一人が、エバに気づいて駆け寄ってきた。
「お勤めご苦労様です、兵隊さん」
「ヒスイ様に御用ですか?」
兵士は丁寧な口調で、エバに問いかける。兵士の大半にエバは知られていた。
「はい。ヒスイにお菓子を作ってきたので――」
「そうですか、ではこちらでお預かりして、ヒスイ様にお渡ししましょう」
「いえ、あの、その……」
エバは言いあぐね、籠を自分の前に抱える。エバは手製の焼き菓子を、直接ヒスイに渡したかったのだ。
「しかし……」
そのことを兵士も察したらしい。兵士は難しそうな顔をした。後からやってきたもう一人と共に、エバから一歩離れると、兵士たちは互いに小声で話しはじめる。
“どうする?”
“直接ヒスイ様にお伺いしたほうがよろしい……”
そんな会話がエバの方にも漏れてきた。やがて一方の兵士が、そそくさと宮殿内へ戻ってゆく。
「しばしお待ちください」
もう一人の兵士の言葉に、エバは黙って頷いた。
しばらく待っていると、さっき居なくなった兵士が戻ってきた。
「ヒスイ様が通すようにとおっしゃっています。どうぞ中へ」
断られるのではと不安だったエバは、その言葉に安堵する。
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
「いえ、お気になさらず。ただ――」
と、兵士は神妙な顔をして話を続ける。
「ただ、今ヒスイ様は容易に動けぬ状態ですので、お心遣いのほど、くれぐれもお願いいたします」
分かりました、とエバは告げた。しかしなぜヒスイが動けないのか、エバには分からない。
「ヒスイ様の下までご案内しましょう」
と案内役を買って出たこの兵士も、特にエバに何かを言うそぶりはなかった。兵士の後ろにくっつきながら、エバは予章宮の奥までと進んでゆく。
広間を抜け、階段を上がり、長い廊下の奥まで進むと、果たして目的とする部屋があった。
「ヒスイの部屋ですか、ここは?」
「その質問は、ヒスイ様にお伺いください」
エバにとって不満な返事だったが、すぐに考え直した。これほどの兵士に囲まれて、ヒスイは守られているわけである。そう簡単にヒスイの居室を部外者に洩らせるはずがない。
「ここはヒスイ様の居室です」
と言うわけにはいかないし、
「いいえ、ここはヒスイ様の居室ではありません」
と言うわけにもいかないのだ。ある意味で今の応答は洗練されたものなのだと、エバは感心した。
兵士が扉を叩く。
「請来 (どうぞ)」
と、奥からヒスイの声が響いた。いたって平常なヒスイの声に、エバもほっとする。どうやらヒスイは、体調を崩しているわけではないようだ。
「ヒスイ――」
「エバ、おはよー」
室内へ通されたエバは、事態を飲み込むのに一旦ためらった。丸椅子に座っているヒスイは、背中をはだけたまま上半身をかがめている。そんなヒスイの背中に、痩身の職人風の男が、何やら細工を施していた。灸でも据えているのかとエバは思ったが、それにしては周囲に散らばる道具が仰々しい。
黒い衣をまとった男性が、ヒスイの綺麗な背中に針を刺した。
(あっ)
エバもようやく合点がいった。ヒスイは今、自分の背中に刺青をしているのだ。
「どうしたの、エバ?」
「え、いや、その、ゴメン」
ヒスイに質問をされて、エバはしどろもどろになる。
「すごく取り込み中よね? あたしちょっと出直してくるから――」
「ウウン、いいわ。エバもここにいればいいじゃない」
「でも……」
「雲督尉、私とエバのためにお茶を準備してきて」
ヒスイは矢継ぎ早にそう告げ、エバを強引に空いている丸椅子へ座らせた。
「ダメよエバ、出直すだなんて。これは私の命令よ。もし命令を聞かないというのなら、後でとっ捕まえて、エバのおしりにも刺青をいれさせるんだから」
「わかった、わかったから――」
いつの間にか、エバがヒスイを宥めていた。今の会話を彫師がどう捉えているのか、エバには気になった。しかし、彫師は顔色一つ変えず、自分の施す刺青に集中していた。彫師の実力は相当なものなのだろう。彫師自身の腕にも、墨染めの蛇がのたうっている。
やがて、先ほど出ていった雲督尉が戻ってくる。
てっきり急須と茶碗が運ばれてくるものと考えていたエバは、次から次へと入ってくる料理人達に仰天した。ヒスイの見守る前で茶釜の水が沸き、茶葉がほぐされ、碗に注がれる。碗は外側が陶器で、内側は銀でできていた。
「どうぞ、お召し上がりください」
二つの碗が差し出され、料理人たちは引き下がってゆく。エバは動揺してないことを示すためにも、すぐさま碗を取り、飲んだ。程よい熱さで、えぐみもなく、美味い。――美味いがしかし、所詮は茶である。何のためにあれほどの人数を呼び、この場で準備したのかがエバには分からない。
「ヒスイ様、」
茶碗に手を伸ばしかけたヒスイに、彫師が声を掛けた。
「今はまだ、熱い飲み物はどうかお控えください。汗を掻くといけません」
「それもそうね……?」
ヒスイは残念そうに指を引っ込めた。
「ならば、いいわ。今日はこれまでにしましょう?」
「ですが、それでは予定の日までに刺青が彫れなくなってしまいます」
「いいわよ別に、一日や二日ぐらい遅れたって。あなたも大変でしょう? 一日中私の面倒を見なくてはいけないんだから」
「はい……」
と言った後、自分が口を滑らしたことに気づき、彫師は真っ青になる。
「いえ、すみません! 今のは決してそういう意味では――」
「フフフ、いいのよ。道具はこの場においていって構わないから、今日はこのぐらいにしましょう?」
はい、分かりました、そうしましょう――と、彫師は額の汗を拭きながら、道具を片付けて去っていった。勇者の娘を相手に仕事をするのは、大変難儀なのだろう。仕事を終えた後の彫師の顔は、「充足感」という言葉だけでは表現しきれない「何か」に満ち溢れていた。
「お茶が美味しいわねー」
部屋を出てゆく彫師を見送りながら、ヒスイがのんきそうにお茶を啜った。
「でもヒスイ、」
と、エバはタイミングを見計らって口を開いた。
「どうして刺青なんか入れる気になったの?」
「そうね、『暇つぶし』っていったところかしら?」
(暇つぶしで刺青を彫るのか)
エバはよほど突っ込んでやりたくなったが、我慢してお茶を飲む。
「ねぇエバ、私の刺青が何か分かる?」
ヒスイは座ったまま振り向いて、エバに背中を見せた。ヒスイの背中の左半分、透き通った白い肌の上に、黒く青く線が引かれている。線は何かの輪郭なのだろう。複雑で幾何学的な形を描いていた。
「何だろう、ゴメン、分かんない」
「峰下竜血樹よ」
「バオシャ……ああ」
名前だけはエバも知っている。
天界に根を張り、下界に枝を漲らせる世界樹のことだ。他の竜血樹と異なり、この峰下竜血樹は底の狭い鋭角二等辺三角形である。
「これからどんどん色を入れていくの。まだ半分も完成していないんだけどね」
「でも……背中に彫ったんじゃ、誰も見られないじゃない?」
「あら、エバ? 私に半裸で歩いて欲しいわけ?」
「いや、そうじゃないけどさ……」
この前食事に招待されたときの展開を思い出し、エバは身震いした。
「ところでエバ、その籠はどうしたの」
「あ、そうだ」
そう、これを忘れてしまっては、何のためにやって来たのか分からなくなってくる。エバは高鳴る鼓動を抑えつつ、床においた籠を膝へ載せ、中から焼き菓子を取り出した。
「作ったんだ、これ。ヒスイに、って」
差し出された焼き菓子を、ヒスイは興味深げに見つめてから受け取った。軽く匂いをかいだ後、ヒスイはそれを頬張る。
「……うん。すごく美味しい」
「――ホント?」
「ええ、もちろんよ。ウソをつく必要なんてないじゃない」
ヒスイは顔をほころばせ、エバに微笑みかけた。そんなヒスイに、エバも屈託なく笑った。
この上ない高揚感にエバは満たされていた。朝起きてからの苦労など、すべてがどうでもよいことのように思えてくる。
焼き菓子を食べ、お茶を飲みながら、二人はよく喋り、よく笑った。今までになく平和な一時であり、いつになく幸福な空気が流れていた。
左手で焼き菓子を握り締めながら、ヒスイはそれとなく無造作に右手を投げ出していた。ヒスイの細い指。エバが手を伸ばせば、握り締めることができる。
エバは軽い気持ちで、空いたヒスイの右手を取った。
ヒスイは何も言わない。
エバも何も言わない。強く力を込めすぎないよう、ガラスを扱うかのように繊細に、エバはヒスイの手を取っていた。ヒスイの鼓動がそのまま自分に伝わってきそうで、エバは何だか息苦しくなる。
「やめて」
そのとき、ヒスイが声を出した。ほぼすべての目的を達成し、恍惚としていたエバは、その言葉の意味を把握しかねた。
ヒスイは焼き菓子を左手に持ったまま、正面を見据え固まっていた。
「エバ、手を離して」
「あっ、ゴメン……」
すかさず手を離すと、動揺のあまり、エバは手を口元に持っていった。先ほどまでとはうって変わった、ヒスイの冷たい言葉。
(どうして?)
そう訊きたい衝動に駆られたが、それすらも言うのが憚られた。
「――ごめんね、エバ」
最後のひとかけらを嚥下してから、ヒスイはばつ悪げに言った。
「ごめん。上手くは言えないんだけど……手を触れられると、自分の惨めさにやりきれなくなる」
つとめて平静を装った声だった。が、ヒスイが隠している恐怖心が、エバにはすぐ分かった。
「自分に対して怒っているわけではない」と、エバは思い込もうとする。ヒスイは自分の行為に怒っているわけで、自分のことが嫌いなわけじゃない。きっとそうだ。
でなければ、どうしよう?
嫌われていたとしたら、どうしよう?
言いたいことは山ほどあったが、結局エバは口をつぐんだままだった。
――ありがとう、エバ。また今度も作ってよ?
最後の焼き菓子を食べた後、ヒスイは確かにそう言った。エバの手を振りほどいたことに対する、ささやかなフォローだったのかもしれない。それにしても、自分の作った菓子で、あれだけヒスイが喜んでくれるなんて。
「もし、失礼――」
意気揚々と家へ戻ろうとしていたに、躊躇いがちな男の声がした。
「あなたは――」
「エバ様ですね? 申し遅れました、刺青師のリンと申します」
声の主は、先ほどまでヒスイに刺青をしていた彫師である。様子からして、エバのことを待っていたらしい。
「どうかしたんですか、リンさん?」
「ユン督尉から話はお聞きしました。エバ様はヒスイ様と、大変親しい間柄とか」
「ええ、そうですね……」
不安げなリンの表情に、エバも少し心配になってくる。
「それが、どうしたんですか?」
「エバ様から、ぜひヒスイ様にお願いして欲しいのです、『刺青を彫るのはやめるように』と」
「えっ……」
唐突なリンの言葉に、エバも平常心ではいられなくなる。
「どうしてですか?」
「私などが言うのもおこがましいですが、ヒスイ様は大変綺麗な肌をしていらっしゃる。わざわざ刺青を彫るまでもありません。ヒスイ様たっての希望ということでこれまで我慢しておりましたが、やはりあの方に刺青をするのは、あまりにももったいなさ過ぎる」
リンの言うことも、エバにはもっともらしく聞こえた。凡人のエバですら、ヒスイの肌のきれいさは分かるのである。人の肌で作業をする彫師ならば、なおさらそのことがよく分かるのだろう。
「でも……『刺青を彫る』って決めたのはヒスイでしょう?」
ヒスイは自分の刺青を、誇らしげに見せていた。そう、ヒスイは何だって自分で決めている。ヒスイの決断を、勇者の娘の決断を、凡人が変更することは許されない。ヒスイが「触れるな」と言ったら、その手を握り締めてはいけないのだ――。
だんだんと、エバは頭に血が上ってきた。自分のやるせなさに対する怒りがせめぎあい、口からほとばしる。
「だったら、やっぱりヒスイに刺青を彫ってあげるべきだと思います。ヒスイは一度決めたらなかなか後には引かないし、そもそもリンさんの仕事は、刺青を彫ることでしょう?」
最後の言葉は、エバも言いすぎたと反省した。
性根のやさしい人物なのだろう。リンは答えに窮した、泣き顔のような表情になる。
「はい……分かりました。お引止めして申し訳ない」
彫師のリンはそれだけ言うと、逃げるようにその場を後にした。取り残されたエバはそれでも不安になる。エバの第六感が、何か嫌な予感を必死に告げていた。