霧深い山中でエバが倒れ伏した、その一年前のことになる。
「ねぇセフ?」
泰日楼を抜け、予章宮へと続く道を、エバとセフは並んで歩いていた。
ヒスイがわざわざ、二人を予章宮に招待したためである。
「こんなことって初めてじゃない? 今までだって、あたしたちが勝手にヒスイのところまで行ってただけだし――」
「うん、まぁ、そうだよね」
周囲の景色を眺めつつ、セフは無造作に返事をした。
それを聞いて、エバはハァ、とため息を漏らす。
セフはあせった。
「えっ、何? わたし、なんか悪いこと言った?」
「セフ、あなたねぇ……もうちょっとこう、“感動”ってモノがあったっていいはずでしょ? 勇者の娘の住み処に、あたしたちが初めて乗り込む“お客様”なんだから!」
「うん――確かに、そう考えると、そうかも」
「行ってみたかったのよね――」
冴えない反応しかしないセフを尻目に、エバは予章宮を夢想している。
物心ついたときから、ヒスイとエバは一緒に遊んでいた。
どういう経緯でそうなったのかは分からない。たぶんきっと、イェン国従と僧正と、姉のリリスとが仕組んだのだろう。
さいわい、年が近い二人はすぐに仲良くなった。
遊び場はつねに泰日楼か、あるいは予章宮の周辺だけだった。
予章宮近くの河原でかくれんぼをしたり、泥だんごを作って遊んだりしているとき、エバの視野の端には、かならず予章宮の巨大な建物が映りこんでいた。泰日楼のどの建物とも違う、石造りの荘厳な建物である。
(あそこに、ヒスイは住んでいるのか)
いつしか予章宮は、エバにとって憧れとなった。
そんなエバのもとへ、ヒスイからの使者がやって来たのは、つい一昨日のことだった。クラインから魔術の免状をもらい、后来院から泰日楼へ舞い戻ってきたのが、それより更に少し前である。ヒスイからの招待状は、エバが帰ってくるのを見計らっていたかのようだった。
だからこそ、エバはなおさら嬉しかった。后来院で魔術を習っていたときには、ヒスイからの音沙汰はなかった。
(自分は忘れられてしまったのではないか)
という不安が、エバに付きまとっていたのである。それがやっと、完全に払拭される。
「ヒスイ……元気にしてるかなぁ?」
隣でセフがぼやく。エバはムッとした。
「ねぇセフ、それあたしの質問なんだけど?」
「いや、まぁそりゃそうかもしれないけどさ、わたしだって、このところは忙しくて――」
「……金瓶梅様のこと?」
エバの言葉に、セフは黙って頷く。国従である金瓶梅魚から、セフは直接剣の手ほどきを受けている。
セフがおでこの辺りをさすった。見ればそこには、小さなこぶができている。
「それ……金瓶梅様にやられたってわけ?」
「うん。……あぁ、痛かった。竹刀の先でパーン、って」
“パーン”という言葉が、とにかくえぐかった。思わずエバは目をつぶる。
「ううっ……防具かなんかつけないわけ?」
「『実戦で防具なんかひっ被って、敵と渡り合うつもりか』だってさ」
「それもそうだけど、そもそも実戦の機会なんてないじゃないの」
勇者一行の活躍以降、“竜の島”には動乱が無かった。ここ七十年は飢饉や疫病もなく、極めて太平であると言ってよい。
自分のやっていることを“無意味”と断定されたのが、セフには不服だったらしい。うらめしげな目つきを、エバに向かって投げかける。
「そんなこと言ったら、エバの使う魔法だってそうだと思うんだけど?」
「あら、あたしの魔法が役立たずだって言いたいわけ?」
「いや、だって……雷の魔法なんて、何に使うのか分かんないし」
「いやー? 充分役に立ってるわよ」
なぜか腕まくりをして、エバは話を続ける。
「あたしが雷の魔法を、クライン導師目掛けて放つじゃない? そうするとね――」
「ちょ、ちょっと待って――」
セフが目を白黒させ、エバの話を遮る。
「えっ、えっ? クライン導師に?」
「そうよ。クライン導師に。すごい痺れて、気持ちがよくなるらしいわ。ぎっくり腰にもならないんだって」
「そうなんだ……」
いろいろと言いたいことはあったが、セフは黙っておくことにした。
ただ、エバの頭の中で
「雷の魔法は身体によい」
という命題が成り立っていたら危険だ。なぜならエバは魔術の免許をもらっている。
(なんとしても矯正しなくてはならない)
生唾を飲み込むと、セフはかたく心にちかうのだった。
「失礼、ご両人」
会話に夢中だったエバとセフは、前からやってきた青年に呼び止められた。青年は紺色の制服を身にまとい、黒い帯を締めている。
一見してすぐ、予章宮の兵士であると分かる格好だ。
「エバ殿とセフ殿ですね?」
「はい、そうです。兵隊さん」
「ヒスイ様から伺うよう命ぜられました。これから裏口へご案内いたします」
「裏口……ですか?」
青年兵士の言葉に、セフは不思議そうな顔をする。
「はい。ヒスイ様たってのお願いです。希望貴位熟慮 (ぜひともお計らいのほどを)」
「不泥迷 (分かりました)。――行きましょ、セフ?」
「うん」
と、二人は兵士に引率され、脇道へ歩みを進める。
案内されてやってきた場所は、本当に予章宮の裏側だった。
「こんなところにも扉があるんだ――」
感心したように、セフがしきりに頷いていた。一方のエバは、予章宮の白亜の外観に気圧されていた。
いざ間近に迫ってみると、予章宮の圧倒的な質感と威容とがいやでも分かる。
「ええ。どうか内密にお願いいたします」
兵士は慇懃に、セフに応対した。
「どうしてですか?」
「敵に予章宮の構造を把握されないために、です。ここの扉ならば、人目につきにくいのです」
漂然と言ってのける兵士に対し、エバとセフは顔を見合わせる。
ついさっきまで「竜の島の平和」について話をしていたのに、ここでは「もしものこと」を考えすべてが進んでいるようだった。
扉に近づいて、兵士は拳で軽くノックした。
「督伍の洪にございます」
兵士が挨拶をする。それに続き、扉の向こうからもノックが返ってくる。
「入ります――」
扉に兵士が手をかけようとした、そのとき。
扉がわずかにずれると、内側から開け放たれた。
「好好兒、みんな――」
内側から登場してきた人物に、一同は絶句する。
正確に言えば、内側からやってきた人物の“身なり”にである。
人物はまぎれもなく、予章緋睡である。この館の主にして、自他共に認める、正式な“勇者の娘”だ。
そんなヒスイは、泣きっ面をした赤い鬼の被り物をしている。
それ以外には、何も着ていない。
いや“着ていない”どころか、穿いてすらいない。
いくらなんでも、ヒスイだって年頃の女である。にもかかわらず真裸のまま、人前へ躍り出たのである。
三人は度肝を抜かれたまま、しばし立ち尽くしていた。
被り物の口が開いて、ヒスイが顔を覗かせた。
「洪督伍、お役目ごくろうさま。さがってよろしい!」
「は……ご苦労であります……皆様、おげんきで!」
最後の言葉はちょっと意味不明だった。しかし兵士もそれどころではなかったのだろう。なにせ女性三人に対し、兵士自身は唯一の男なのだ。額から汗をしとどにこぼしつつ、男は逃げるように引き下がっていった。
「逃げなくたってよかったのに」
そんな部下の有様を、ヒスイはのんきな目つきで追っていた。エバもセフも、ようやく我に返りつつある。
それにしても、なんというシュールな光景だろう。ヒスイはきめの細かい、白い肌をしている。それも青白いというわけではなく、いたって健康的な赤みも帯びていた。加えて日ごろの鍛錬によるものだろう、ヒスイの身体は女性特有の柔らかさを残しつつ、引き締まっているところはしっかり引き締まっている。
まったく同性が見ても恥ずかしくなるくらい、ヒスイの肢体は官能的だった。
「ヒスイ、あのさ……」
視線をどこにやればよいのか分からぬまま、エバはしどろもどろに話し始める。
「あの兵隊さん、追いかけなくていいの?」
「追いかけたっていいけど……さすがにこのまんま外へ飛び出したら、私だって捕まるんじゃないかしら? もし捕まったら、証人になってくれる?」
「いや、その格好でじゃなくてさ」
「その格好って、どんな格好?」
自然な笑みで、ヒスイは訊いてくる。なんでこんな意地の悪い質問をするのか。“裸”と答えるかどうかで、エバはどぎまぎした。鬼の被り物が泣き顔をしているが、こっちが泣きたいぐらいだ。自分の顔が赤くなっているのが、エバにも何となくわかる。
エバは話題をかえようと思った。
「それにしても、兵隊さん大丈夫かな?」
「さぁ……? 自涜でもしてるんじゃない?」
(あぁ、もうダメだ)
エバの心の中で、何かが音を立てて崩壊した。「ガラガラ」という幻聴まで聞こえてきそうだった。何が“ダメ”なのかは分からないが、飛び上がって逃げ出したい衝動にエバはかられた。が、その前に、エバはセフに目をやる。セフの反応が気になったのである。
「やめて……」
顔を真っ青にしたまま、か細く、蚊の鳴くような声でセフは訴えていた。自涜という言葉が醸し出す卑猥な空気に、完全にやられてしまったのだろう。すでにセフは涙目にさえなっている。
「ほんとうに……本当に、やめて。ヒスイ、お願いだから……」
「フフフ……そんな顔しないでよ」
被り物の口を、ヒスイは閉じた。
「さぁ、とりあえず上がって。扉は閉めてね? ちょっと私は着替えを取ってくるから」
と、ヒスイは身をひるがえし、廊下の向こうへと消えていった。
ヒスイの真っ白な背中とおしりを、エバは目で追い続ける。衝撃が大きすぎて、エバもセフもろくに口が聞けなかった。
それにしても、二人が来るのを見計らい、ヒスイは真裸のまま待ち構えていたのだろうか。わざわざ二人を驚かすために? そのために裸になり、変な被り物を取り出してきて、廊下を疾走してここに立ちはだかっていたのだろうか。扉を開けるとき、ヒスイはどんな顔をしていたのだろう。
そう考えると、エバは何だか面白くなってくる。
「ウフフ……」
「えっ?!」
エバの微笑みに、セフが素っ頓狂な声を上げた。
「なに、何? エバ、何がおかしいの?」
「いえ、別に――なんでもないわ」
とりつくろうエバに対し、セフはもどかしげな顔をしていた。
更にセフが問い詰めようとしたときに、
「おまたせー」
と、ヒスイが戻ってくる。橙色をした半袖の胴衣に、藍色をした膝までの襦袢。実に気楽な格好だが、肩越しに重々しい帯をひっ提げていた。
その帯ベルトには、“銃”が掛かっている。
先ほどの兵士の話が、生々しく二人によみがえってきた。
「二人とも、どうしたの?」
「ううん、何でもないよ?」
と、エバはしらばっくれてみせた。
「へぇ、本当?」
わざとらしく目を丸くしてから、ヒスイはセフの顔を覗きこむ。
「どうかしら、セフ? 機嫌直してくれた?」
「いや、機嫌も何も……」
「フフフ、そんな困った顔しないでよ、ほら、笑ってー」
と、ヒスイはセフのほっぺたをつまみあげ、ちょっとだけ上へ引っ張る。
「セフちゃんのほっぺたふにふにー」
「うー、うー、」
困った目つきで、セフは声にならない声を上げる。堪らずエバも噴きだしてしまった。
「セフのほっぺは柔らかくていじり甲斐があるわ。おっぱいがないことの代替ね?」
ヒスイの饒舌に対し、セフは飛んだとばっちりである。今にもふて腐れて泣き出しそうである。
「ところでヒスイ、今日は何をするつもりなの?」
「二人にご馳走を準備するのよ。さぁ、着いてきて」
ヒスイに案内され、二人は予章宮へと足を踏み入れる。
「さぁ、ここよ。――どうぞ?」
通された部屋を見て、セフが「うわぁ……」と感嘆の声を発した。
泰日楼にあるどんな建物よりも綺麗に違いない。牛乳のように白い壁に、青く磨きこまれたタイルの床。天井には豪勢な照明が取り付けられ、澄み渡った光を長テーブルに投げかけている。
部屋の奥行きはかなり広かった。あたかも、二つの部屋をくっつけて一つにしたかのようだった。
よく見れば、奥に数人の男性が控えている。エバと目が合うと、男性達は礼儀正しく会釈した。
「ヒスイ、ここは何の部屋なの?」
「食堂よ」
「それは分かるけど、向こうにいる人たちは?」
「あれは料理人の人たち」
と、ヒスイは料理人たちに手を振った。料理人たちも顔をほころばせる。
「むこうの厨房で料理を作って、すぐに運んでくれるのよ」
ヒスイが手で何かを合図する。壁際に控えていた料理人たちが、一斉に散らばり始めた。厨房と食卓が一体化した構造になっているようだ。どうりで部屋が広いわけである。
料理人たちはそれぞれの役割に従い、手際よく調理を始める。火を起こす者、鍋に油を敷くもの、魚をおろす者――。
「さぁ、座って――」
と、ヒスイは二人を座らせる。それから自分も席につくのかと思いきや、ヒスイは厨房の側まで立ち寄ると、なにやらいろいろと詮索をしだした。
「何やってるの、ヒスイ?」
「さぁ……」
と、エバとセフは首を傾げる。
いや、ヒスイのやっていることはこの上なく明白だった。厨房の中を歩き回りながら、適当に食材を見つけてはつまみ食いしているのである。それも量が半端ない。新しい食材や具材が登場するたびに、ヒスイはそれを食べ歩いているのだ。
料理人たちは誰一人としてヒスイを注意しない。あまつさえ、料理をねだるヒスイに、ちょっとだけ分けてあげたりなんかしている。ヒスイは無邪気に具材をもらっては、それをおいしそうに食べる。
やっていることは悪童と同じだったが、それでもヒスイがやれば妙にサマになるから不思議だ。
「さぁ、できたようね?」
しばらくして戻ってくると、ヒスイは席に着いた。
あれだけつまみ食いをしたにもかかわらず、まだ食べる魂胆のようだ。
料理人たちはできた料理を、矢継ぎ早にテーブルへと並べてゆく。テーブルはかなり大きかったはずだが、あっという間に料理で一杯になる。
「じゃ、いただきまーす」
と、自分の好きなおかずをヒスイは箸でごっそり取ってゆく。エバもセフもたじたじだったが、とりあえずおかずをひとしきり皿に載せ、白飯に添え食べ始める。
「うっ……?!」
エバは思わず声を発した。
どれもこれも、とてつもなくうまい。
「美味しい……」
ヒスイの脇では、セフが目を見開いていた。
「でしょ? すごく美味しいのよ」
と言いながらも、ヒスイはすごい速度で料理を平らげてゆく。
そんなヒスイの横顔を、エバは眺めた。
箸で肉や野菜をつまみながら、それを頬張っているヒスイ。実に幸せそうで、平和そうな様子だった。
エバの鼓動が高鳴る。
(ヒスイのことが好きだ)
と気づくのに、そう時間は掛からなかった。