「エバ……」
自らの名を呼ぶ声に、エバは目を見開いた。こめかみを冷や汗が伝い、背筋に怖気がはしる。うっとうしいほどの霧の中で、靄の中で、その声だけが鋭く冷気ばしっていた。
「エバ……」
声の主が、もう一度エバを呼んだ。声の主が誰なのかを、エバはよく知っていた。間違うはずがない。声の主はリリス、自らの姉だからだ。
浮き足立ち、すぐにも駆け出したくなる衝動を、エバは息を殺して我慢する。声音は普段通りだが、口調はおぞましい。エバに対する敵愾心に、リリスの声は満ちていた。
うかつに逃げ出したら、姉の餌食になるのは明白だ。幸い周囲は霧が濃い。声が発せられる方向を冷静に聞き分け、瞬時に駆け出せば大丈夫だ――。地面にうずくまったまま、エバは聞き耳を立てる。
しばしの沈黙。心臓の鼓動だけが響き渡り、空間全体に巣食うようだった。
「出てきなさい、エバ……」
また声がした。今度は後ろからだった。リリスが口を開くやいなや、エバはもう反対側へ駆け出していた。
恐怖にはじかれ、エバはいつになく速く走る。耳を澄まして、背後を伺う。ほんのかすかな音――タクトを振るうような微細な音でさえ――聞き逃すわけにはいかない。姉の魔術に絡め取られたら、もはや命はないからだ。
息せききるエバの正面に、黒い影が立ちはだかる。
「あっ――!」
口に出さずにはいられない。そこにいたのはリリスだった。エバを見下す視線に、妹への愛着は感じられない。獲物を狙う鷹のような姉の視線に、エバはすくみあがり、脚をもつれさせ、尻餅をつく。指先に力が入らない。今手をついた地面は、まったく石のように冷たかった。
「みつけたわ」
無感動に、事実だけを述べる口調でリリスは言った。左手の中指と親指を組み合わせ、即座に弾く。
乾いた音と共に、エバの体は炎に包まれる。
「ねえさん――!」
絶望の最中、エバの声だけがむなしく響き渡った。服が焼け、肉が焼け、肉の焼けた香ばしい臭いが、自らのただれた鼻孔をついてエバをパニックにさせる。傷口に絶えず塩を塗りつけられるような、強烈な痛みと無力感。今自分は殺されようとしている、それも自分の姉にだ。思考までめちゃくちゃになりそうになる。
だがこれで終わりだ。
すべて終わりだ。
ヒスイを助けようと思った気持ちも、絶望したこの気持ちも、自分自身の存在も含めて、今はただただ燃え落ちてゆく――。
「エバ……」
耳元から聞こえる声に、エバは飛び起きる。体中を包んでいた気泡が一瞬にして割れるような、そんな驚きに全身が包まれる。
「大丈夫、エバ?」
肩で息をして喘いでいるエバを、セフが心配そうな目つきで覗き込んでいた。「すごいうなされていたよ? 嫌な夢でも見たの?」
「いや、大丈夫、なんでもない」
やや邪険な口調で、エバはセフの言葉を否定した。口を開くたび、一言一言を発するたびに、エバの頭は割れそうになる。
針金を差し込まれたかのような鈍い痛みが、絶えずエバの全身にほとばしっていた。胃はたえずむかつき、吐き気は常に胸までこみ上げていた。
転日京を脱出してから、既に二日経っている。北東にある銀台宮を目指して、エバ、セフそしてタミンの三人は霧の深い山々の中を縫うように進んでいた。
エバはこの間、ほとんど一睡もできないでいる。目を閉じ、意識がまどろみつつあるときを境にして、必ず夢を見るようになったからだ。
見る夢はみな同じだった。いつ果てるともしれない深い霧の中で、姉が執拗に自分のことを追いかけてくる、そんな夢だった。夢の中でエバは、何度も何度も逃げ方を変えてきた。しかしどれだけエバが工夫を重ねようとも、リリスは必ずエバに追いつき、エバを蹂躙するのである。
リリスの発した魔術により、エバは何度も手足をもぎ取られ、何度も稲妻を浴び、何度も業火に包まれた。気が狂いそうになるほどの痛みを感じ、姉の名を叫んだあげく、よく眠れぬまま目を覚まし、寝付けず、朝を迎えるのである。寝不足で疲労困憊し、エバの身体はもう悲鳴を上げつづけていた。
「“なんでもない”って……」
鼻息を荒くしているエバを見つめながら、セフが困った表情をする。
「さっきからずっとうなされていたし、目にも隈があるよ。汗もびっしょりだし――エバ、無理しなくたっていいんだよ? ヒスイが戻ってきたときに、わたしたちが銀台宮にいればいいんだから」
背嚢から水筒を取り出すと、セフはその水で手拭を浸し、エバに渡した。手拭をもらったエバは、額を流れる汗をそれで拭く。興奮のためにほてった身体にとって、手拭の冷たさは貴重だった。指が震えているのを見取られないよう、エバは手拭を強く握り締めて首筋を拭った。染み出してきた水がしずくとなって、エバの膝へ零れ落ちる。
「ごめんね、セフ。……ありがとう」
「本当? ホントにそう思ってくれる?」
エバのセリフを喰い気味に、セフが訊ねた。
「ええ、もちろんよ」
「じゃあ、エバ……お願いだから、今日は休もうよ」
エバの胸元に取りすがるようにして、セフは懇願した。エバのことを慮っての言葉なのだろう。だが哀切をきわめるセフの視線に、エバは居心地悪く感じ、目をそらした。まるでセフのほうが痛めつけられているかのような、そんな口調だった。それだけ自分の体調は悪そうに見えるわけだ。セフの言葉は抗いがたく感じ、その感情がまたエバをかたくなにさせた。
「いえ、それはなりません」
二人の横手から、タミンの声が響いた。濃い霧をも突き抜けるような鋭い声。やや遅れて、タミンが霧の中から姿をあらわす。霧が深く、おまけに木々も鬱蒼としているせいで、山の見通しはかなり悪い。黒い肌で、黒い装束のタミンは、もうほとんど周囲に渦巻く影と一体化しているかのようだった。
「できないって……でも!」
立ち上がると、セフはタミンに詰め寄った。
「エバはすごく具合が悪そうなんだ。おまけに毎日うなされているし……タミン、あなたも分かるでしょう? だから今日は――」
「いえ、セフ殿、それはなりません」
慇懃に、機械的にタミンは繰り返した。
「ヒスイ殿が先に復活し、おふた方がそれに間に合わずにいることを、主はお望みでないでしょう」
「望むも望まないも……」
セフは色めきだった。
「そんなこと、今は大した問題じゃないし、どうだっていい。わたしはエバが心配だから――ここに留まるつもり」
「これはけったい」
ひと言ひと言をやけにはっきりと強調しながら、タミンが応答する。
「なるほど、セフ殿はここに残るとおっしゃる。それは問題ありません。後から追いつきなさることも充分可能です。エバ殿はどのようにお考えですか? こちらで休むべきか、休まないべきか?」
ちょっと、となおも不満を口にしようとしたセフだったが、結局はうずくまるエバを見つめることしかできなかった。案内人のタミンが「どちらでも構わない」と言っている以上、判断はすでにエバの手に委ねられていた。
「――行くわ」
「エバ!」
セフの発した言葉には、エバを責めるような口調だった。手拭で口元を覆いながら、それでもエバは立ち上がり、自らの背嚢を背負う。
セフの言うとおり、休むほうが賢明だろう。もしかしたらヒスイが先に復活しようとも、大賢者・夏瓊はエバたちを咎めないかもしれない。
(でももし、そうじゃなかったら?)
その可能性だって充分にありえるのだ。カケイは、かつての仲間であったイェンを殺しかねない人物である。もしかしたらカケイは、間に合わなかったエバたちに怒り狂うかもしれない。その矛先が自分達に向けばまだいい。
だが肝心のヒスイへ向かったら? エバたちが頑張っているのも、今はヒスイを助けるためである。散々徒労を重ねて銀台宮に辿り着いたあげく、ヒスイが死んでいたのならば元も子もない。エバにとって、大賢者の行動はあまりにも計りがたかった。
(それに――)
エバは視線を下にして、タミンの懐を盗み見た。余計なことをしていないならば、タミンはまだ懐にランタンを隠していることだろう。――ヒスイのしかばねを吸収したランタンを、である。
「ヒスイの復活に必要なのか?」
とエバが訊ねたとき、タミンは
「そうだ」
と答えたのだ。おそらく、銀台宮へ戻ってくるのはヒスイの魂だけなのだろう。それを完全に復活させるためにも、ヒスイの肉体がどうしても必要なのだ。
逆に言えばタミンは、ヒスイの死体を人質にしていることになる。
――タミンに喰われるな。
転日京を抜ける直前、イェンに言われた言葉を思い出し、エバは身震いした。「タミンに喰われる」、その言葉の意味は、今のエバには分からない。タミンは敵ではないだろう。――が、きっと味方でもないのだ。タミンが握っているヒスイの死体――これの行方を注視しないわけにはいかなかった。
「エバ、ダメだよ! 冷静になってよ!」
エバに詰め寄ると、セフはエバの肩に掴みかかり、揺さぶった。セフの目は真っ赤になり、頬は上気していた。
「セフ大丈夫よ、あたし達が早く行かないと」
「でもエバ――」
「いいから!」
最後の言葉は、半ば叫びに近かった。薄暗い、それでいて沈黙している森の中で、エバの声だけが森林の遠くまでよく響いた。自分の声のせいで頭が痛くなる。信じられないとばかりに、セフは首を横に振っていた。エバはそれに、あえて憐憫の視線をおくった。セフの良心に対し、自分が悪いことをしているのはエバも分かってはいた。分かってはいたがしかし、そうせずにはいられなかった。
「ではエバ殿、参りましょう。――セフ殿、ともに参れないことは残念です」
「えっ……?」
他ならぬセフ自身が、驚きの声を上げた。
「主はエバ殿とセフ殿をご招待なさりましたが、むろん無理していらっしゃる必要もございません。どちらか一方だけ来てくだされば、きっと主もお喜びのはず」
胸のざわつきを覚えながらも、エバはセフの顔を一瞥した。タミンの言葉には、セフを侮蔑している雰囲気があった。そして案の定、セフは険しい表情をしていた。
「いえ、いいです」
セフは冷たく言い放った。
「分かった、私も行く。――ぜったいに行ってやる」
先頭を行くタミンに、セフは肩をいからせたまま追いずがった。エバは二人からはぐれないよう、一歩一歩懸命に前へ進んでゆく。
銀台宮まで連なる山の標高は、けして高いとはいえない。しかし当然のことながら、進むにつれて気温は下がってゆき、地面も歪になっていた。獣道のように細い一条の道を、三人は縦に並んで進んでいる。
草鞋わらじのようなものしか履いていないというのに、タミンの歩く速度は恐ろしく速かった。ほとんど早足で、時には駆け足で歩かないと、エバとセフはすぐにタミンからはぐれてしまいそうだった。二人がタミンに、もっと遅く歩くよう催促しても、タミンは、
「急がないと、ヒスイ様の復活に間に合わなくなります」
と言うだけで、いっこうに二人の歩幅に合わせようとしないのだ。
事実道すがら、エバとセフはタミンにはぐれたことがある。切り深い山の中腹で放り出され、エバもセフも途方に暮れかけたが、そうなるとタミンはややしばらくしてから現れて、ふたたび二人を先導するのである。まるで、わざと二人を引きはなし、はぐれて困っているのを楽しんでいるかのような態度だった。
そんなタミンの態度に、セフは何度も文句を言っていた。セフはまだ、タミンの言うことに信用がおけないらしい。
「あのさ――」
何度目かにタミンに引き離された際に、ついにセフが立ち止まった。エバもよろめきながら近づいたが、ただならぬ気配を感じて、ひとまずセフの言葉を待った。
それでも、セフは口を開こうとしない。
「ふぅ。それじゃあ、少し休憩しましょうよ? どうせまたすぐ、タミンは戻ってくるだろうし」
「うん――。エバ、あのさ」
やや切羽詰った口調で、セフが振り向いた。
「どうしたの?」
「これからのことなんだけど……」
セフの視線は泳いでいた。傍目からも、かなり言いづらそうにしているのが見て取れた。
「やっぱり私達、戻った方がいいんじゃないかな、と思って……」
「えっ……」
セフの言葉は、エバも予想していた言葉だった。だが実際に言われると、エバも心理的にえぐられるものがあった。
「ちょっと待ってセフ、どういうことよ? あと少し辛抱したら銀台宮に着くのよ? 今さら戻るなんて……できるわけ無いじゃない!」
ふたたび、エバの頭が痛んだ。頭痛は常態化し、少しでも気を抜いたらそのまま気絶してしまいそうだった。
「エバ、わたしずっと考えていたんだけど……あのタミンっていう子に踊らされているんじゃないかな? だって――そんな――あり得ないでしょ? ヒスイが復活するなんて!」
全身の血がさかのぼってゆくような気配を、エバは感知した。
「……何が言いたいの」
「エバ、戻った方がいいんだよ。サイファは死んだけど、まだ大勢の人が苦しんでる。ジスモンダだってまだ生きている。イェンさんたちと一緒にジスモンダを倒すことを考えたほうがいいんだよ」
息せき切って語るセフに対し、エバは感情を抑えつつ口を開く。
「セフ、あたしたちは……あのタミンっていう子にヒスイを人質に取られているの。この意味分かってるの?」
「……でしょ」
目を伏せ気味に、セフが何かを呟いた。言葉の最初が聞き取れず、エバは露骨に嫌な顔をする。
「――何? セフ聞こえない」
「あれは……ヒスイの死骸でしょ?」
怒りのあまり指先は震え、腕は勝手にセフの肩を突き飛ばしていた。突然のエバの行為に、セフもどうしようもなかった。木に頭を打ち付け、セフは尻餅をつく。
頭をおさえ、セフはうずくまっていた。どうしようもない間延びした時間が続いていた。憎悪の目つきで、お互いがお互いを見つめる。
「何、いきなり何なの!」
「こっちの台詞よ! 何よ、いくらなんでもそんなこと言うの許さないわ……! 今更どうするって言うのよ?! ヒスイを助けなきゃいけないことくらい、アンタだって分かっているでしょ――!」
「だから……ヒスイの死骸のそばで死ぬの?」
セフだから言える、痛烈な言葉だった。エバはそれに、どうしようもなかった。左手が一閃、セフの頬に届く。乾いた音が、森林の中に響いた。セフのぶたれた頬が紅くなる。エバは呆然とセフを見つめていた。怨みのこもった目で、セフもエバを見返す。
「知らない癖に……」
セフは、泣いていた。
「エバは、エバはわたしの気持ちなんか……」
「なんでアンタの気持ちなんか分かってあげなきゃいけないのよ?」
ほとばしる言葉をエバは止められず――それどころか、清々しい気持ちになっていた。
「いいわ……分かったわよ好きにしなさいよ……私はヒスイを探しに銀台宮まで行くの。セフは転日宮でイェンさんの手助け。――手分けするのよ? どう、良心的な解決策じゃない? お互い清々するでしょ?」
「……そうだね」
唇を噛み締めながら、セフが激しく頷いた。「それがいいよ」
荷物を担ぎなおし、吐き捨てるように言うと、セフはそのままもと来た道を戻っていった。霧の中、セフの姿が消え去るのに、そう時間はかからなかった。
後悔と、反省と――それでいて残り続ける自負の心とが、エバの中でせめぎあう。取り返しのつかないことをしてしまった自覚は、エバにもあった。それでも、セフの言葉を思い出すたびに、心には怒りが湧いてくる。自分の不甲斐無さに、エバは心臓が張り裂けそうだった。
「いかがなさいました?」
声を聞きつけて、エバは後ろを振り向いた。エバたちを置き去りにしていったはずのタミンが、いつの間にかそこにいる。
「大丈夫よ」
エバはそういいながらも、身近にある木の幹にしがみついた。全身が悲鳴をあげ、足取りはおぼつかない。
「セフ殿はいかがなさいましたか?」
「セフは――」
最後まで言い終わらないうちに、エバは膝から崩れ落ち、地面に倒れ伏した。精魂の糸が、完全に切れてしまっていた。
薄れゆく意識の中、エバはタミンの顔を見た。タミンの表情は、相変わらず無機質なままだった。