第75話:くるしみはひととき、よろこびはとこしえ。

「セフ……あたしを信じて!」

 エバの声が、広間に響き渡る。エバとジスモンダ、この二人を交互に見返して、セフは逡巡していた。

 だが覚悟を決めたのだろう、セフはエバの近くに寄り添い、ジスモンダへと訊いた。

「わたしは、どっちも噓をついているとは思いたくありません」

 セフの瞳は、不安げに揺れていた。

「でも閣下、友達を嘘つきだと見なすことよりも難しいことはないと思います。……ですから、どうかそのお面を外してくださいませんか?」

 最後のセリフを言い終わるより前に、セフはエバの衣の裾を握り締めていた。

 深い静寂が、一同の間を横たわり、断絶させていた。一方の岸辺にはエバとセフが、もう一方の岸辺にはジスモンダとその仲間たちがいる。

 ジスモンダは無言のまま、組んでいた腕をほどき、笑う鬼のお面を両手で抱えた。顔から仮面を外すと、そのまま脇へと放り投げた。

 木の放つ乾いた音。

「あっ!」

 と叫んだセフの声。

 ヒスイの顔がそこにある。后来院ホウライユェンでエバが見たときと同じだった。ヒスイではない――頭では分かっているつもりだったが、こうして正面から目が合うと、エバも覚悟が揺らぎそうだった。髪の毛の色も黒いし、瞳の色も黒い、だからヒスイではない――はずだ。しかし完璧に似ていないからこそ、却ってジスモンダはヒスイの印象を強くしていた。

「どうしちゃったのよ、セフ?」

 先ほどまでとはうって変わった口調で、ジスモンダがセフに呼びかけた。ヒスイそのままの口ぶりに、セフは激しく動揺していた。

「ウソだ……そんな……まさか、どうやって!」

「セフ、落ち着いて!」

 セフは後ずさろうとしたのだが、目の前の光景に呆けてしまい、足取りがおぼつかなかった。混乱して崩れ落ちそうになるセフの身体を、エバも必死になって支える。

「フフフ……どうしちゃったの、二人とも?」

 ジスモンダは肩をすくめると、二人へ向かって歩み寄った。

「そんなにビックリしなくていいのよ。私復活したんだから」

 声音こそ違えど、口調も仕草も明らかにヒスイのものだった。エバの中で一瞬、ヒスイの確信が揺らいだ。

「いや……違う、違う! お前は――」

「違わないわ、セフ。私がヒスイよ」

 顔をほころばせて“ヒスイ”はそう答える。震えるセフに、“ヒスイ”は右手を差し出した。

「ジスモンダが黒幕ってのは当たりよ、エバ。でもエバたちが気づく前に、私がさっさと始末しておいたわ。タミンはジスモンダの残党よ。私たちのことを騙そうとしたんじゃないかしら? ――ほら、二人とも!」

 差し伸べた手を、“ヒスイ”はさらに突き出して強調する。何をどうしたらいいのか、エバは分からなくなってきた。こうなるとこれまでやってきたことのすべてが偽りだったかのような気がしてくる。今のヒスイが、本当の本当に本物なのか。いや、それは誤りなのか。騙されたフリをしたほうがいいのか、

 信じて、いいのか。

 差し出した“ヒスイ”の右手と、セフの左手が触れ合いそうになる。

 その一歩手前、何かが二人の間を横切り、“ヒスイ”の手をもぎ取った。強烈な風圧に、“ヒスイ”の手から滴るはずだった血が床に軌跡を描く。“ヒスイ”の手は壁に叩きつけられ、ぐちゃぐちゃになった。

 それは矢の軌道――ロイの放った矢だった。憮然とした表情のまま弓を握り締め、ロイは一同を見据えている。

「ロイ……ひどい」

 苦痛に満ちた表情で右手を庇うと、“ヒスイ”がロイを見やった。

「いきなり――何をするのよ!」

「俺はヒスイが嫌いだ」

 ”ヒスイ”に構うことなく、ロイは平然と言ってのける。

「だがそれ以上に、ジスモンダも嫌いだ。今まで嫌いなものはしらみ潰しに片付けてきた。これからもそうするつもりだ」

「私はジスモンダじゃないわ」

「だろうな。だけどヒスイでもないだろ?」

 「だろうな」から「だけど」へと繫がるロイの思考回路がエバには分からない。だけどロイから「ヒスイじゃない」と言われると、もはやそんな気しかしなくなってくる。

「……私がヨショウ・ヒスイよ?」

「違うね。お前は偽者だ」

 ロイは“ヒスイ”を指差すと、そう断言した。

「せいぜい“ヒスイ気取り”ってところだろ? もしヒスイだというのなら、銃を見せてみろ」

 その言葉に、エバもセフもはっとした。ヒスイがヒスイであるための、最も重要な証拠。

 銃を、この“ヒスイ”は持っていない。

「それは残念ね。銃ならば后来院ホウライユェンへ置きっ放しだわ」

「へえ!」

 感慨なさげに、ロイが目を丸くして見せる。

「それじゃあお前は本物かもしれないな。悪いな? 右腕を吹き飛ばしちまって。でも、左手は無事だ。だったら握れるだろ? 自分の銃ぐらい」

 成り行きを見守っていたエバも、今度ばかりは騙されるまいと、“ヒスイ気取り”を睨みつけた。そうだ、ヒスイは左利きなのだ。いつも銃は左手に握っている。

 “ヒスイ気取り”が、ジスモンダが差し伸べた手は右手。

 ロイはそれを見逃さなかった。

 一部始終を聞き終えたジスモンダが、あからさまなため息をついた。

「これはあたしの落ち度ね――少しうかつだったわ」

 ヒスイを気取っていない、しかしかつてのように慇懃でもない、打ち砕けた口調の独り言だった。

「スイリショウセツにしては陳腐よね。でも、実際に取り繕うのは並大抵の苦労じゃないわ。それが分かっただけでも、あたしとしては大きな収穫――」

「……どういうこと?」

 一人呟いているジスモンダに対し、セフが口を挟んだ。既に太刀の握りには手が添えられている。

「お前――ヒスイはどうしたんだ!」

「あたしは何もしていないわ、サンゴジュ・セフ」

 ジスモンダはしらばっくれると、右腕を突き出した。それに呼応するかのように、千切れた右手の肉片が泡立ちはじめる。さながら乳醤バターが溶けて沸騰しているかのような有様だった。完全にみどろになった肉片は、ジスモンダのところまで吸い寄せられ、右腕に付着する。

 とうとう皆の見ている前で、ジスモンダの右手は完全に元通りになった。

「しいて言うのならば、ヨショウ・ヒスイは竜の島から“退場”したのよ。復活するかもしれないし、しないかもしれない。でもこれはあたしにとって大きなチャンスよ。自分の世界計画を実行するための時間が稼げるから――」

 訊きなれない単語を口走るジスモンダに、エバは身動き一つしなかった。このときと似た状況で、似たような歯がゆさを感じたことがあったような気がした。

「本当はあなたたちを殺したくなかったわ」

 エバたちに背を向けると、ジスモンダが両腕を広げる。それに呼応して、ジスモンダの従者三人がエバとセフに詰め寄った。

「……“殺したくない”? 本当かよ?」

 そんな従者三人の前に、ロイが一人で立ちはだかった。「ロイ……」と、セフが小さな声をあげた。

「ええ。ヒスイが悲しむ顔は見たくないもの」

 ジスモンダの答えに、エバとセフは顔を見合わせる。

(どういうことだ?)

 エバにはいまいち、ジスモンダの言うことの意味が分からなかった。言っていることとやっていることが、ここまでねじれていることも稀有だろう。エバは少し身をかがめ、従者たちの奥にいるジスモンダを見ようとした。だがジスモンダはエバに背を向けるのみで、表情までは掴めない。

「おい――エバ」

 ロイが小声で、後ろに控えるエバに告げる。

「目をくらます魔法はないか? 戦っても無駄だ、合図したら逃げるぞ」

「――わかった」

 真剣な口調で、エバはロイに答えた。とりあえず逃げるのが先だ。密かにチョークを取り出すと、エバは自分の手のひらに文様を描く。

「でも、仕方がないわ」

 エバたちに気づいていないのか、ジスモンダは話し続ける

「成功を勝ち取るためにはリスクを怖れられない。転日京を抜ける前に、あなたたちを始末します」

 ジスモンダが右腕を振りかざし、指を鳴らした。

(今だ!)

 エバが両手を重ね合わせ、魔力を指に込める――。

――……

「いなくなった、か……」

 閃光が収まってから、少女は広間を見渡した。三人の姿は既にない。きっとエバの魔術が炸裂している隙に、逃げおおせたのだろう。青い衣をまとった少女の従者達も、ようやく立ち上がり始める。

――エバ殿とセフ殿の身柄は、こちらで預かります――

 ヒスイが“退場”した今、少女もそのことはよく分かっていた。タミンの口を通じて、少女も聞きつけたからだ。

(予想外のことが続いている)

 少女は心の中で、そうひとりごちる。現実は想像をめぐらしていたよりもはるかに複雑で――はるかに面白かった。ヒスイが下天を通ったのも、サイファがジスモンダを裏切ったのも、タミンがあらわれたのも、

 そして、ヒスイが“退場”したのも。

「――様、」

 背後から女の声がする。エバの姉・リリスの声だった。

「エバとセフの二人は、どうやら銀台宮まで向かうようです――こちらから追っ手を差し向けますか?」

「……いえ、深追いする必要はありません。我々は手を出せませんし、手を出さなくとも自滅する可能性が高い。――もしお好みでしたら、おふた方の自滅に加担なさるのもよいでしょうが」

「かしこまりました、――様」

 リリスは恭しく礼をすると、魔術を用いて少女の視界から消える。

(敵はどこにいるかわからない)

 竜の島へ降り立ったとき、はじめに教訓とした言葉を、少女は深く反芻していた。事実、味方に引き入れたはずのサイファには裏切られ、もう一人の裏切り者も消息が取れない。少女の片腕として活躍しているリリスも、いつかは裏切るかもしれないし――あるいはもう裏切っているかもしれない。問題は少女の前に山積していた。

(戻って来るかな?)

 だが今の少女にとって、最大の懸念はヒスイだった。ぜひ一度だけでいい、ヒスイという人物に、“竜の娘”に会ってみたい。それもお面越しにではなく、ちゃんとお互いがお互いの素性を理解した上で。

 そうなれば破滅がもたらされることを、少女はよく知っていた。少女が倒れヒスイが勝ち残っても、ヒスイが倒れ少女が勝ち残っても、あるいは共倒れになっても、少女にとってはさしたる違いではなかった。どのような苛烈な運命になろうとも、ヒスイに会いたい。

 苦しみは一時ひととき、喜びは永遠とこしえ

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