「大賢者……?」
その言葉を、エバは半信半疑で受けとめる。“大賢者”の名を聞いて思い付く人物は、エバにとって一人しかいない。七十年前、勇者と連れ立って“竜の島”を救った仲間、夏瓊だ。
「大賢者って……あの“夏瓊”様のこと?」
「その通りです、エバ殿」
タミンは指を組んで、エバの質問に同意する。
「私はカケイ様の弟子であり、使命を仰せつかってはるばる参りました。主はあなたとセフ殿を、銀台宮に招待しております」
賢者の弟子を名乗る少年・タミンには、有無を言わせぬ言葉の迫力が備わっていた。
「待って――待って、でも」
しかしエバは、まだ頭の中が混沌としたままだった。剣聖は、エバ生まれる遥か昔に亡くなっている。勇者は――ヒスイの母は――ヒスイによれば“還ってくる”という。つまり、勇者もまたこの世界にはいないのだ。
しかしタミンと名乗る少年は、「大賢者は生きている」と言っている。
それがエバには釈然としない。剣聖の逸話はさまざま残っている。勇者も逸話は少ないが、確たる証拠として勇者の娘・ヒスイがいた。
だが、大賢者は? ――エバもカケイについては、その名前しか知らないのだ。
「私の言葉をお疑いのようですね」
エバの表情ににじみ出る不審感を、タミンも察知したらしい。
「それも構いません。容易には信じがたい話ですから。――海炎同志はこちらにおられますか?」
「イェンさん……?!」
イェンの名前に、エバは目の色を変える。
「あなた、イェンさんのことを知っているの?」
「勿論です。同志にお会いすれば、私の言うことを信じてくださるでしょう」
タミンはそう告げると、身を翻してエバの前に立った。
(ということは、イェンさんはこの子と知り合いなんだ……)
エバは息を呑む。だが、どうしてイェンはこのことを言わなかったのだろうか。本当にカケイが生きているとしたら、サイファを倒す上でも大きな助けになったはずだ。
「ではエバ殿、参りましょう」
「ちょっ、ちょっと待って――」
エバはタミンを引き留める。
「そこへ行って、何の意味があるわけ? とにかく今は、セフを助けないと――」
「あなたとセフ殿は銀台宮へ行き――」
タミンは剽然と答える。
「そこでヒスイ様の復活をお待ちするのです」
エバはどきりとした。「復活」という言葉から溢れる高揚感で、胸が詰まりそうになる。
「ヒスイが復活するのは……本当なの?」
「先ほどジスモンダが言っていたとおりです」
「教えて!」
エバはタミンに詰め寄り、跪いた。
「ヒスイが戻ってくるために、何ができるの? あたしは――」
「エバ殿、あなたは何もできない」
ややつっけんどんに、タミンは答えた。
「強いて言えるとしたら、あなた方は待つことしかできない。しかし復活の経緯は分からずとも、復活して何処へ降り立つかは判断がついている……そこが銀台宮なのです」
タミンはそこで一旦、言葉を切った。
「ともかくはセフ殿です。ジスモンダに取り込まれる前に、まずは我々が取り込まねばなりますまい」
取り込む、という言い草がエバには引っ掛かったが、タミンに気にするそぶりはなかった。
「エバ殿、お手をお貸しください」
「手を貸す?」
エバを立ち上がらせると、差し出した手に、タミンは自らの小さな手を添えた。お互いに両手を合わせた、舞踏中のような格好になる。
「ちょっと、何を……?」
「行きましょう、転日宮まで|転移《ワープ』します」
「――はぁ?!」
素っ頓狂な声を上げるエバには構わず、タミンはエバの手を握り締めると、瞳をゆっくりと閉じた。手のひらを浸すようにして、タミンの強烈な魔力がエバにも流れ込む。ぼんやりしていると、意識までも消し飛んでしまいそうな魔力だ。
転移魔法の講釈は、クライン導師からされた。――といっても、理論だけを。
「実践では不可能」
と導師はため息をついていた。
まさか――それを利用するというのか? だが、タミンは本気のようだった。
「目をつぶって!」
言われるがまま、エバは目を閉じる。
……
……
「さぁ、目をお開けください」
再び、タミンの声がする。解き放たれた魔力のわりには、体に何も感じなかった。
「うわっ……」
だが、結果は偉大だった。后来院の廊下にいたはずが、今は空虚な転日宮の玉座の間にいる。ヒスイの遺骸があったはずの場所だ。
「そうだ、」
そのヒスイの遺骸は、タミンが吸い取っているのだ。
「あなた、ヒスイをどうしたの?」
「肉体はここにあります」
袖口から、タミンはランタンを取り出した。ランタンの中には、七色に光る炎が躍っている。方式は分からないが、これもまたタミンの魔法だろう。
「それは……カケイ様のところまで持ってゆくため?」
タミンは、すぐに答えなかった。
「ええ、そうです」
不安になったエバが訊き返そうとしたとき、タミンがようやく口を開いた。
「主のところまで持ってゆきます」
「――エバ?」
やり取りをかわす二人の後ろで、誰かの声がする。セフの声だった。
「セフ! 戻ったの?」
「うん……ジスモンダ閣下のところへ行ってたんだ」
「ジスモンダ……」
その言葉に、エバは表情を硬くする。
「あの女、何て言ってた?」
問い詰めるエバの言葉に冷たさを感じたのか、セフの表情が曇った。
「……謀反者がいるかもしれないから、それを探すように、って言われた」
エバは思わず笑い出しそうになった。セフが何も知らないことにつけ込んで、どうやらジスモンダは、自分で自分のことを嗅ぎまわらせているようだった。
「それより……ヒスイの死体は?」
「それは――」
タミンを紹介しようと振り向いたエバは、そこにある光景にまじろぐ。
ヒスイはいない。――それはもちろん、タミンが持っているからだ。
だが同時に、タミンもいなかった。たった今まで会話を交わしていたにもかかわらず、タミンの姿は影も形もない。
「どうしたの?」
「――ここに男の子がいなかった?」
「男の子?」
焦った口調のエバを、いぶかしげにセフが見つめる。
「いや……見なかったよ。その男の子がどうしたの?」
「その子、タミンって言うんだけど、その子が持っているのよ、ヒスイの死体を!」
「死体を?」
セフが目を細めた。
「どうして? というより、どうやって?」
「その子、魔法使いなのよ……大賢者の弟子なんだって。あなたも知っているでしょう、大賢者の夏瓊様を? 魔法を使って、ヒスイの死体を保存しているのよ」
「何のために?」
「それは……必要なんだって、ヒスイの死体が、ヒスイの復活のために!」
期待を込めてエバが放った言葉とは裏腹に、セフの反応は微妙だった。たしかに説得力を帯びた理性的な発言だとは言いがたかったが、もどかしさがエバの心に湧きあがってくる。
「ねぇエバ……こう考えることはない?」
やや言いにくげに、セフが言葉を発し始める。
「わたしには、ちょっと信じられない。第一今はその子がいないし……騙されているんじゃないかな、エバ? もしかしたらソイツは――」
「ソイツがあたしのことを騙しているって?」
セフの言葉を鸚鵡返しにすると、エバは肩をすくめた。
「まさか……突然あらわれて、どうしてあたしを騙す必要があるって言うのよ? そのタミンっていう子、強力な魔法を使えるのよ。もちろん、それだからあたしのことを騙しているわけじゃない、とは言えないけど……」
一方的にまくし立てたあげく、とうとうエバは口をつぐんでしまった。エバがどれだけ完璧な論法でセフに熱弁をふるおうとも、肝心のタミン当人が消滅してしまったのでは、取り付く島がなかった。
「うん、まあ……ちょっとすぐには信じられないけど」
肩を落としているエバを見かねたのか、セフが困った顔をしながら口を開く。
「とりあえず、じゃあそのタミン、って子を探してみようよ。ついさっきまでこの辺りにいたのなら、すぐに見つけられると思うし……」
「――その必要はありません、おふた方」
セフの背中越しから、第三者の声が聞こえてくる。
ジスモンダの声だった。
「ジスモンダ……!」
前方から迫るジスモンダに、エバは目をむいた。普段どおり、ジスモンダは笑う鬼のお面を被っていた。
ジスモンダの左右と背後には、青い衣を着た従者が控えていた。顔を見られないように、従者達は衣の色と同じ青色の頭巾で覆面をしていた。布の切れ端から、うつろな目だけが垣間見られる。
ジスモンダとその従者たちの異様ないでたちは、サァキャとその従者たちの異様ないでたちと重なって見えた。サァキャたちと鉢合わせしたときのことを思い出し、エバもセフも身震いをした。
「『探す必要がない』ってのは、どういうことかしら?」
腰に巻いたポーチへ左手を滑らせながら、エバが訊く。
「あなたが殺してしまったとでも言うわけ?」
「エバ……!」
セフがエバをとがめた。
「――エバ殿はヒスイ様を失い、どうやら気が立っておられるようですね?」
エバから発せられる敵意にも、ジスモンダは微動だにしなかった。やや改まった口調で、ジスモンダはセフに呼びかける。
「平常心ではいられないエバ殿のお気持ちは分かります。だからこそ、我々は謀反者を探さなくてはいけません」
「違うわ……!」
エバは左手を、ジスモンダに向けて突き出した。その左手には、予備のタクトが握り締められている。
「自分が謀反者のクセに、よくまあそんなことが言えるわね。 ――その仮面を取りなさい。なんなら、あたしが取ってあげましょうか、閣下?」
ジスモンダの右脇に控えていた従者の一人が、肩をいからせてエバまで近づこうとする。しかしジスモンダは、それを右手で制した。
「ねぇエバ、ダメだって……!」
セフが必死に、エバの腕に取りすがった。
「冷静になってよ! こんなことしたって――」
「――セフ殿は、どうお考えですか?」
エバが言い返すよりも前に、ジスモンダが口を開いた。ジスモンダは腕を組み、漂然とセフのことを見据えている。
「えっ?」
「セフ殿に与えられている選択肢は二つあります。私を裏切り者と見なすか、あるいはエバ殿の言葉を妄言として斥けるかです。こうした一元的な二項対立は問題の本質を誤らせますが、どうでしょう、セフ殿? 究極の選択をなさってみるのは?」