第73話:豹変

「どうしたのよ、エバ? そんな怖い顔をしちゃって――」

 いつもの調子でおどけてみせると、リリスがエバの側まで寄った。煙草の臭いがほんのりと薫ってくるのも、いつものことだ。

 でも、嘘だ、こんなのは。

「姉さん……ねぇ、今の話……もう一度してくれない?」

 リリスはすぐに答えなかった。瞬きすらせずに、無機質な眼差しでエバを見つめてくる。

「話ですか。何ともけったいなことです」

 姉の代わりに、椅子に腰掛けたジスモンダが真面目くさった口調で答える。「リリス殿は、勇者の娘・ヒスイ殿の死体を隔離したとの報告にいらしたのです」

 全身に何かが圧し掛かるような、鈍い痛みがエバに襲い掛かる。ジスモンダと、リリスが、二人してエバを騙そうとしている。後ろめたげなそぶりを見せることなく、こんなにも、堂々と――。

「何処に隔離したのよ、……言いなさいよ!」

「この建物の、あの部屋は――何といいましたかね、リリス殿?」

「いい加減にして!」

 リリスが口を開く前に、エバの怒りが爆発した。

「見てるのよ、あたし……ヒスイはもうあそこにいないわ。連れ去られたのよ」

「連れ去られた……?」

 仮面の奥に揺れるジスモンダの瞳が、一瞬だけ細められた。

「なぜそんなことを? 魂だけが転送されたわけではないはず」

 どうするわけにもいかなかった。ジスモンダのしらばっくれた口調が許せなかった。口が動くよりも前に、体が勝手に反応する。強い怒りに突き動かされてタクトを握り締めると、エバはそれをジスモンダへ向けようとした。

「止めなさい」

 それをリリスが、エバの腕を掴んで阻止する。口調は穏やかだが、握る力は強烈だった。リリスの握力に耐えかねて、エバはタクトを取り落とす。それをみよがしにして、リリスがエバのタクトを踏みつける。

 ジスモンダが席から立ち上がり、エバの方まで歩み寄ってくる。

――一人いるの――

 エバの脳内で、ヒスイの言葉がはじけた。

――サイファを叩いたら、ある一人にいろいろ訊かなきゃいけないの――それこそ、たくさんのことを――

 そうか、

 そうか。

 分かった。

 ヒスイが言いたかったのは、こういうことだったのだ。これが、真実。サイファの裏に隠れてすべてを操っていたのが、ジスモンダだったのだ。

「まぁ、話を聞いてしまった人に、とぼけ続けるのは限界のようです」

 ジスモンダがお面ごと、エバへ顔を近づけてきた。エバは歯を食いしばって、ジスモンダの目を睨みつける。心なしか、ジスモンダは笑っているようだった。

 ジスモンダが右手で合図を送る。リリスはそれにしたがい、エバの左手首を離した。リリスに爪を立てられたせいで、手首には指のあとが赤く残り、血も滲んでいる。

「どうして……?」

 それでも、まだ信じられなかった。自分が今、実の姉と敵対しているのだ。リリスの投げかける冷たい視線が、そのことを如実に語っていた。

「ねぇ、エバ……こんなことを考えたことはない? 『どうせ生まれ変わるんだったら、もっといい世界に住みたい』って」

 エバは左手首を庇ったまま、呆然と姉を見上げていた。妹が答えないことを見越しているのか、リリスは更に言葉を続けた。

「でも、今生きる世界がこれからもっといい世界になればいいのよね? お姉ちゃん、ジスモンダちゃんと協力して、そうした世界を作ろうとしているのよ。そうである以上、ヒスイちゃんは邪魔だったの」

 今何て言った?

 ヒスイが、邪魔だった?

「悪く思わないで、エバ。エバがヒスイちゃんと仲がいいことは分かっているわよ。私もヒスイちゃんが好き。……でもね、立派な世界に住むことと、ヒスイちゃんがいい人間であることは違うのよ。ヒスイちゃんに生きていられると、いろいろと困るのよ」

 何だ、今、何が起きているんだ。気が遠くなりそうになるたび、エバは庇った自身の左手首に爪をたて、掻き毟っていた。既に手首全体が赤くなり、みみずばれができそうになっている。信じられない。姉の言葉は嘘か? あるいはこの状況が嘘か? それとも姉の存在そのものが、エバの幻影か? あるいは、

 この「嘘」は嘘で……姉は本心から語っているのか?

「嘘よ……」

「嘘じゃないわ、エバ」

 リリスは近寄ると、エバの手を握り締めた。

「よく聞いて。これから私はジスモンダちゃんに協力して、新しい世界を作るのよ。無論障害は多いけれど、それでもやってゆくつもりなのよ」

「リリス殿をお誘い申し上げたのは私です」

 一人、金色の瞳から涙を流しているエバの隣へ、ジスモンダもやってきた。

「エバ殿、リリス殿のおかげで、局面は終盤に差し掛かりつつあるといっても過言ではありません。――どうです、エバ殿? 私はエバ殿にも参加していただけると、大変心強いのですが」

 笑い顔のお面からは、ジスモンダの表情は掴めない。ウテーの住民とこのジスモンダは同じだ。そして感情を隠している時点で、このジスモンダのほうが見下げ果てたクズだ。コイツは――ヒスイが死んだときに、笑ったはずだ。そうに違いない。

「見せなさい……」

 姉の手を振りほどくと、エバがジスモンダに掴みかかった。

「止めなさい、エバ!」

 リリスが声をあげる。が、ジスモンダは手を後ろに回したまま、微動だにしなかった。エバのされるがままになっている。

 エバが被り物に手を駆け、それを引き剥がして投げ捨てた。木彫りのお面は乾いた音を立てて、床に転がる。ジスモンダの黒髪が、反動で靡く。

「ウソ……?」

 あらわになったジスモンダの正体に、エバは息を呑んだ。

 ヒスイが、そこにいた。

 丸い瞳に、凛々しい目つき、鼻筋の通った、しかし嫌味のない顔つき――、

 エバがよく知っている、ヒスイの容貌だった。

「どうしたのよ、エバ?」

 混乱するエバに、ジスモンダの言葉が拍車をかける。

「私がヒスイよ? ――ゴメンね、今までのは全部ウソよ。リリスさんと一緒に、ちょっとエバをからかってあげようと思ったの」

 それは、ヒスイの口調“そっくり”だった。

 そう、“そっくり”――。

(違う)

 エバの第六感が、目に見える現実を真っ向から打ち消した。これは違う、自分の知っているヒスイなんかではない。ヒスイの姿を真似ている偽者だ。声も、髪の色も、髪の長さも、瞳の色だって違うじゃないか。

「違うわ……、アンタは偽者よ!」

「そんなことを言われるのは心外ね?」

 ヒスイの似姿はやや楽しげに答える。まるで、ヒスイを真似ているこの状況そのものが愉快極まりないといった感じの口調だった。

「私は私そのものよ? 私以外の誰にだってなれないわ。それはちょうどエバが、あなたのお姉さんになれないのと同じこと」

 はじめから、はじめからジスモンダは自分達を騙しにかかっていたのだ。それに自分の姉も加担している。もしかしたら……他の連中もそうかもしれない。

 セフは? セフはどうなんだ? そうだ。セフだけは味方でいてくれるはずだ。今はなんとしてでも、セフに会わねばならない。

「狂ってる――」

 傷だらけになった左手を押さえつつ、エバが後ずさった。背中に、先ほど抜けた扉が当たる。ヒスイの似姿と、自身の姉が、そんなエバの様子を彫像のように見つめていた。

 これが姉を見る最後だ――エバの理性が、エバに囁きかけた。止まったはずの涙が、ふたたびエバの頬をつたった。

「みんな……狂ってる!!」

 エバはそう吐き捨てると、なりふり構わず部屋を飛び出した。

(どうする)

 后来院の廊下を駆け抜けながら、エバは一人考えていた。まずはセフに会わなければならない。一体何処へ行ってしまったのだろうか。――ここまで考え、エバは凍りついた。そうだ、セフはジスモンダに連れられて、広間を抜け出したのだ。もしかしたら今頃、もうセフはジスモンダの術中にかかっているのかもしれない。

(まて、待て、落ち着け)

 既に息が切れかけていた。後ろを気にしながら、エバは階段を降りる。仮にセフがジスモンダに捕らえられたのなら、さっきの会話でジスモンダはそれを切り札にしているはずだ。でもジスモンダはそうしなかった。まだセフはどこかにいる。きっとエバとすれ違っているはずだ。今すぐ転日宮まで戻らないと――。

 その途端、エバの口を何者かがふさいだ。驚愕がエバの心を席巻する。とっさにエバは相手の指に噛みつこうとした。しかし相手は怪力で、エバを階段の隅まで引っ張る。

「静かに」

 エバ耳元で声がした。少年のやさしい声だった。

「静かに――」

 少年は機械的に繰り返した。エバに取り憑いていた恐怖の波が、一気に引き上げてゆく。

「エバ、何処にいるの?」

 間髪いれずに、リリスの声が階段から下ってきた。口調は変わらなかったが、今までに聞いたこともない冷徹な響きを、リリスの声は帯びていた。エバは鼻で息をしながら、事の成り行きを見守る。

「〈我々は見えない――〉」

 背後で少年が呟く。

「〈我々は見えない我々は見えない我々は――〉」

 少年の口調から、エバは魔法がかけられつつあることを悟った。ここでエバも気付いた。いまエバのことを捕らえているのは、先ほどまでエバが追いかけていた黒人の少年なのだ。

「お姉ちゃんから逃げるつもり?」

 通路の脇からリリスが顔を出した。口許は不敵な笑みを見せている。

「魔法でも使っているのかしら? でもエバ、私にかなうと思って?」

 リリスはゆっくりと目を閉じる。共感覚テレパシーを用いて、隠れるエバをあぶり出そうとしているのだ。

「テレパシーか、」

 少年がまた呟いた。

「でも大丈夫。見えないだけでなく、あの女には“分からない”」

 少年と背中を接しているエバは、少年が強烈な魔力を全身から解き放っているのを感じ取った。魔力の余波がエバを駆け巡り、混乱させる。

(何、何なのこの子?!)

 こんな魔力、エバは体験したことがなかった。リリスの魔力だって、こんなに強烈ではないはずだ。

 しばらく目をつぶっていたリリスは、やがて不思議そうな面持ちで眉をひそめた。

「おかしい……」

 目つきを険しくさせ、リリスは周囲を見渡す。一瞬だけ、エバとリリスの目が合う。

(見つかった!)

 エバはおびえた。しかし肝心のリリスは、いぶかしげに辺りを見回すのみだった。

「気配どころか……完全に消えた?」

 リリスが独り言を呟いた。

「あの子、いつの間にそんな魔法を……」

「いかがしました、リリス殿?」

 第三者の声が近づいてくる。

 ジスモンダだった。

「勇者様――」

(勇者様だって?)

 ジスモンダは、自分のことを他人にそう呼ばせているのだ。ヒスイがいなくなった今は、自分が勇者気取りか。いや、それとも――

 ジスモンダこそが、ヒスイの母親……“イスイ”なのか?

「いえ、その呼び方はお止めください」

 ジスモンダは手を振り、丁重にリリスの言葉を訂正する。顔を露出させたジスモンダの様子は、エバにとって新鮮だった。

「私には不釣り合いです。今のところはジスモンダで構いません」

「しかし、すぐにあなたは勇者になる……」

 リリスは顎をなでた。

「そのおつもりでしょう? ヒスイも死んだことですし」

(何を話しているんだ?)

 頭の中が引っ掻き回されているようだった。ヒスイのことをリリスが呼び捨てにするなど、信じられなかった。こんなことは悪夢だと、エバは思いたかった。

「リリス殿、その考え方は誤りです」

(えっ?)

 エバの鼓動が高鳴る。

 相変わらず慇懃に、しかし毅然とした態度でジスモンダは話す。

「訂正してください。『死んだ』というよりもむしろ、『退場した』と言った方が正しい」

 恐怖や混沌を忘れ去り、いつしかエバもジスモンダの話に聞き入っていた。

「じきに復活することもあり得る……と?」

「リリス殿、復活を前提にしてください」

 ジスモンダの声は諭すようだったが、どことなく朗らかで弾んだ印象だった。まるで、ヒスイが再登場するのを心待ちにしているかのような口ぶりだ。

「ならばジスモンダ様は、復活を阻止することをお考えですか?」

「いいえ」

 ジスモンダはすぐさま、リリスの質問を否定した。

「ヒスイの復活は我々から独立しています。復活できるか否かは、すべてがヒスイの双肩にかかっています」

 ジスモンダは一旦息をついた。

「しかし復活までには大分時間があります。その間に我々は、進めるべきことを進めねばなりません。――エバ殿をこちら側につけることはかないませんでしたが、セフ殿ならば……」

「えぇ、あの子ならば心が弱いから、きっと可能でしょう」

 リリスはそう言って微笑んだ。ジスモンダとリリスは声を潜めながら、来た道を引き返し始めた。

「ぷはぁっ――!」

 少年から解放され、エバは深く息をついた。全身は汗にまみれ、心臓は高鳴っている。だがひとまず、窮地は免れたのだ。

「どうやらあの二人は、セフ殿を探している様子」

 対する少年は顎を撫でながら、なにやら思案げなそぶりだった。

「できるかぎり早いうちにセフ殿にお会いしないといけませんね、エバ殿」

「ええ……?」

 えっ?

 何であたしの名前を知っているの?

 驚いて目を丸くするエバの正面で、少年が両手を合わせて挨拶をした。

「申し遅れました、エバ殿。私は修験者のタミンと申します」

「タミン……」

 見たこともないような珍しい衣装に、聞いたこともないような珍しい名前。いぶかしげな口調で、エバが少年の名を反復した。

「左様にございます、エバ殿」

 それから、タミンは言葉を続けた。

「大賢者様が、エバ殿とセフ殿をご招待なされています」

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