第72話:竜の瞳

 ヒスイが死んでしまった。

 ほんとうに、本当にヒスイは死んでしまったのだ。

 サイファを討って、それで終わりだと思っていた。

――勇者がやってくるのよ。

 記憶を失う前に、ヒスイがそうエバに呟いた。

――勇者がやってくるのよ。

――私の親にあたる人よ。

――その人と、私は闘わなきゃいけないの。

――闘って死ぬんだって、私。

――宿命なんだってさ。エバ、馬鹿げていると思う? 私の話。

(馬鹿げてる)

 今だったら、エバははっきりと言えた。死ぬことまで宿命として決められているのなら、そもそもなぜヒスイは闘う必要があるのだろうか。そんなのはおかしい、必ず負ける闘いなんて、そんなのはただのリンチだ。だからヒスイの誤りだ、と。

 肝心のヒスイは、もうこの世界にいない。

 もうどのくらい時間が経ったかは覚えていない。頭の中が真っ白だった。エバがいるこの世界は、完全に静止してしまっているようだった。セフがいなくなり、戻ってきて、ロイとリリスがやってきて、イェンがやってきて、リリスにぶたれ、イェンがいなくなり、ロイがいなくなり、リリスもいなくなり、ジスモンダに連れられてセフもいなくなった。

 今はエバしかここにいない。さっきからずっと、ヒスイの死骸の側にしゃがみ込んでいた。頭部はめちゃくちゃになり、身体は真っ二つに叩き潰されている。目に見えない強烈な力が、ヒスイを叩ききったようだった。着ている装束以外に、ヒスイの面影は無い。だがそれでよかったのかもしれない。ヒスイの首がそのまま残っていたら、エバはもう、どうして良いか分からなかったかもしれないからだ。

 記憶が戻ってきた直後、ヒスイは「記憶を失った、その日一日」の記憶が戻っていないとサイファに問い詰めていた。あのとき一瞬、エバはほっとしたのだ。ヒスイが、自分にとって最も都合の良い状態で戻ってきたからだ。

 だが、そうはいかなかった。戻ってきたと思ったら、また失われてしまった。しかも今度は、完全な形で。

 しゃがみ込んだままでいるエバの衣の裾を、ヒスイの血が染み渡ってゆく。自分も死んでしまいたい気持ちだった。なぜ自分が生き残り、ヒスイが死んでしまったのか。

 淀んだ血をずっと眺めていたエバだったが、そのうちあることに気付いた。

 ヒスイの銃が、ない。

 心臓を鷲掴みにされた思いがした。とっさにエバは、ヒスイの死骸の周辺を見渡してみる。ない、ない、どこにもない。死の直前までヒスイが左手に握っていたはずの銃が、今はどこを探してもない。

 おかしい――まるで蒸気のように、銃が消え去ってしまっている。

 ヒスイの血が、一瞬白くほのめいた。目の錯覚だと思ったエバも、ヒスイの全身から湯気のようなものが漂っていると知り、思わず後ずさって距離を取る。ヒスイの血から、肉から、色が抜け落ちてゆく。まるで強烈な薬で、死骸が漂白されているかのようだった。

 ヒスイの全身が、瞬時にして青白い炎に包まれる。ここにいたってようやく、エバも我に返った。誰かがヒスイの死骸に、魔法をかけているのだ。

 どこだ、どこにいる――、自らの身を案ずる気持ちは、今のエバには芽生えなかった。さっきはヒスイの心が奪われた。これから、今まさに、ヒスイの身体までもが奪われようとしている。

 ヒスイの全身が淡い光となり、床から持ち上がる。

「あっ――!」

 思わずエバは声をあげる。淡い光は鬼火のごとく宙を漂うと、横へ滑るようにして、瞬時に移動した。エバも食い入るようにその軌道を見つめる。淡い光は広間の一角へ収束して、吸い込まれる。

 暗がりの奥に、少年がいる。十三、十四歳ほどの少年だろうか。浅黒い肌に、青く光る澄んだ瞳が印象的な少年だ。これまでに出会った誰よりも、少年は不思議な格好をしていた。つぎはぎだらけのくすんだ衣装は下天の人間を連想させたが、頭にはターバンを巻きつけている。

 今、少年が手に持つランタンの中へ、光が収められた。少年は表情一つ変えずにその経過を確認すると、ランタンを懐へとしまう。

「待って!」

 エバが立ち上がり、少年に声をかける。少年はエバの声に気づくと、そそくさと身を翻した。

 エバの心が怒りに包まれる。今まさに、ヒスイの死体が盗まれようとしている――エバの直感がそう囁きかけていた。ヒスイの死体を持ち逃げする権利、そんなものは誰も持っていない。あの少年が何であれ、必ず捕まえなくてはならない。

「待ちなさい――待ちなさいよ!」

 自分でも可笑しくなってしまうくらい必死に、エバは少年に詰め寄った。全身から力が湧き上がってくるかのようだった。魔法を使うことなど思いも寄らない。エバは手を伸ばして、少年に掴みかかろうとする。

 少年が動いた。

 エバのほうへ向かって。

(えっ?)

 踏み込んできた少年をエバは捕まえようとする。だが、エバの指は空気を掴んだだけで、少年の髪の毛一本さえ捕まえられない。少年の身体と、エバの身体とが交錯した。少年はエバをすり抜けると、そのまま瓦礫を駆け上って広間を抜けようとする。

「ちょっと――」

 慌ててエバは振り向いた。少年は広間の出口にいた。エバがどう出るのか、様子を探っているようなそぶりだった。

(どうする?)

 エバは考えた。今までの一連の行為は、明らかに魔法によるものだ。そうでなければ、エバの体をすり抜けることなんてできない。しかもこれらのことを、あの少年は何の動作もなく手早く行っている。相当な魔術の使い手に違いない。ヒスイの死体を取り戻さなくてはいけないが、あの少年と張りあえるだろうか?

 エバが躊躇ためらっているのを見越したのか、少年は背を向け、一目散に出口を抜ける。

「待って!」

 仕方なく、エバもそのあとを追い瓦礫を登る。考えあぐねていたら相手の思う壺だ。今はなんとしてでも、あの少年に追いつかなくてはならない。

 瓦礫を抜け、広間の出口を抜ける。エバはすぐさま周囲を確認した。少年はもう螺旋階段を降り、列柱廊へと続く扉の前にいる。再び、エバと少年の目が合う。少年は身を翻すと、その扉を抜けた。

 エバも息せき切って螺旋階段を降りると、扉を押しぬけて列柱廊へ躍り出た。連なる柱の奥、もう一方の扉の前に、やはり少年が立っている。

 少年はこちらを見つめていた。一定の距離を取っては、エバの様子を見ているらしい。弄ばれている――一瞬そう考え、エバは怒りが爆発しそうになる。だが少年の様子は、どうもエバを案内しているようだった。

 ふたたび少年が扉を抜け、姿を消した。エバは息があがって苦しかったが、それでも少年の後を追う。

 エバが新しい部屋へ入ると、少年が別の出口でそれを待っていて、居なくなる。――こんなやり取りが続いた。少年はどうも、抜け道を使って后来院ホウライユェンへ戻ろうとしているようだった。

「いい度胸じゃない……」

 肩で息をして追いかけながらも、エバは一人悪態をついた。后来院はエバにとってもなじみの建物だ。知らない箇所はもうほとんどないし、隠れられそうな箇所もだいぶ見当がついている。地の利は自分にある。何があっても、ヒスイの死体だけは奪還してやらねばならない。死んでしまったのなら、せめてちゃんと埋葬してやりたい――。

 さて、后来院へ到着した。エバは廊下へとつながる階段を駆け上る。少年はまたしても、廊下の一番奥にいた。

「待ちなさい――」

 大声を上げるつもりでいたが、息があがり、弱々しい息しか弾まなかった。少年もそれを見越しているのか、颯爽と間近にある扉をくぐった。

(やった)

 だがエバは知っている。扉の向こうはやや広い部屋だが、クライン導師が蔵書をしまうための部屋であり、つまりは行き止まりだった。ついにエバは、少年を追い詰めたのである。

 逃がさない――息を整え、少年との交戦も辞さない覚悟で、エバは扉の直前まで詰め寄った。

「ヒスイが死にましたね、勇者様」

 扉の奥から、くぐもった声がする。紛れもなくエバの姉・リリスの声だった。ドアの向こうから聞こえる姉の言葉に、エバは耳を疑った。

(勇者様だって?!)

 どういうことだ? まさか、扉の奥に勇者が控えているとでもいうのか。だとしたら、どうしてリリスはそのことを知っているのだろうか。

 興味本位でドアを開こうとしたエバだったが、ふと思いとどまる。何かを思いついたわけでもない。だがエバの第六感が、本能的にエバの行動を阻止したのである。身体に針金を差し込まれたかのように、エバは動きをやめる。その一方で、耳にだけ注意がいった。

「サイファがこちらのことを暴露したりはしていないでしょう」

 エバは息が止まりそうになる。扉の奥で、リリスと“誰か”が話をしているのだろう。リリスの声だけはこちらからも分かった。しかし、“誰か”は相当小さな声で話しているのだろう、エバの耳では、誰の言葉か聞き取れない。

 扉の向こう側で妹が聞き耳を立てているなどとは、つゆとも知らないのだろう。ふたたびリリスの声がした。

「あとの二人はどうします? 早いうちに始末してしまうのがよいかと思いますが」

 胸に杭を打ち込まれたかのような痛烈な衝撃に、エバは身じろぎした。遠くなる意識を、奥歯を噛み締めて何とか踏みとどまる。心臓の鼓動が早くなり、吐き気が襲ってくる。

 “あとの二人”、間違いなく自分と、セフのことだ。それを「始末する」ことが提案されている。誰によって? ――リリスによって、

 他ならぬ、自分の姉によって。

(ウソだ)

 エバの額から汗が流れ落ちる。今までに掻いたことのない汗が、エバの体中から溢れてきた。嘘だ。こんなはずはない。信じられない。扉の奥で話をしているのは、ほんとうに本当に、本当に自分の姉なのか? いや、そんなことはないはずだ。自分はきっと、悪い幻覚を見ているのだ。ヒスイが突然煙のように消えてしまったことも、少年と追いかけっこする羽目になっているのも、この幻聴も、すべてが幻なのだ。単純に自分が錯乱しているだけだ。そうに違いない。セフにこんなところを見られたらバカにされてしまう。自分のほうがセフより少し年上なのだから、もっとしっかりしないと。

 エバは覚悟を決めた。何が何でも、事実をはっきりさせなくてはならない。エバは扉の取っ手を掴み、思い切り開け放った。

「――あら、エバ?」

 エバの視界に、リリスの姿が映る。

 その脇には、ジスモンダがいた。

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