ヒスイが死んでしまった。
ほんとうに、本当にヒスイは死んでしまったのだ。
サイファを討って、それで終わりだと思っていた。
――勇者がやってくるのよ。
記憶を失う前に、ヒスイがそうエバに呟いた。
――勇者がやってくるのよ。
――私の親にあたる人よ。
――その人と、私は闘わなきゃいけないの。
――闘って死ぬんだって、私。
――宿命なんだってさ。エバ、馬鹿げていると思う? 私の話。
(馬鹿げてる)
今だったら、エバははっきりと言えた。死ぬことまで宿命として決められているのなら、そもそもなぜヒスイは闘う必要があるのだろうか。そんなのはおかしい、必ず負ける闘いなんて、そんなのはただのリンチだ。だからヒスイの誤りだ、と。
肝心のヒスイは、もうこの世界にいない。
もうどのくらい時間が経ったかは覚えていない。頭の中が真っ白だった。エバがいるこの世界は、完全に静止してしまっているようだった。セフがいなくなり、戻ってきて、ロイとリリスがやってきて、イェンがやってきて、リリスにぶたれ、イェンがいなくなり、ロイがいなくなり、リリスもいなくなり、ジスモンダに連れられてセフもいなくなった。
今はエバしかここにいない。さっきからずっと、ヒスイの死骸の側にしゃがみ込んでいた。頭部はめちゃくちゃになり、身体は真っ二つに叩き潰されている。目に見えない強烈な力が、ヒスイを叩ききったようだった。着ている装束以外に、ヒスイの面影は無い。だがそれでよかったのかもしれない。ヒスイの首がそのまま残っていたら、エバはもう、どうして良いか分からなかったかもしれないからだ。
記憶が戻ってきた直後、ヒスイは「記憶を失った、その日一日」の記憶が戻っていないとサイファに問い詰めていた。あのとき一瞬、エバはほっとしたのだ。ヒスイが、自分にとって最も都合の良い状態で戻ってきたからだ。
だが、そうはいかなかった。戻ってきたと思ったら、また失われてしまった。しかも今度は、完全な形で。
しゃがみ込んだままでいるエバの衣の裾を、ヒスイの血が染み渡ってゆく。自分も死んでしまいたい気持ちだった。なぜ自分が生き残り、ヒスイが死んでしまったのか。
淀んだ血をずっと眺めていたエバだったが、そのうちあることに気付いた。
ヒスイの銃が、ない。
心臓を鷲掴みにされた思いがした。とっさにエバは、ヒスイの死骸の周辺を見渡してみる。ない、ない、どこにもない。死の直前までヒスイが左手に握っていたはずの銃が、今はどこを探してもない。
おかしい――まるで蒸気のように、銃が消え去ってしまっている。
ヒスイの血が、一瞬白くほのめいた。目の錯覚だと思ったエバも、ヒスイの全身から湯気のようなものが漂っていると知り、思わず後ずさって距離を取る。ヒスイの血から、肉から、色が抜け落ちてゆく。まるで強烈な薬で、死骸が漂白されているかのようだった。
ヒスイの全身が、瞬時にして青白い炎に包まれる。ここにいたってようやく、エバも我に返った。誰かがヒスイの死骸に、魔法をかけているのだ。
どこだ、どこにいる――、自らの身を案ずる気持ちは、今のエバには芽生えなかった。さっきはヒスイの心が奪われた。これから、今まさに、ヒスイの身体までもが奪われようとしている。
ヒスイの全身が淡い光となり、床から持ち上がる。
「あっ――!」
思わずエバは声をあげる。淡い光は鬼火のごとく宙を漂うと、横へ滑るようにして、瞬時に移動した。エバも食い入るようにその軌道を見つめる。淡い光は広間の一角へ収束して、吸い込まれる。
暗がりの奥に、少年がいる。十三、十四歳ほどの少年だろうか。浅黒い肌に、青く光る澄んだ瞳が印象的な少年だ。これまでに出会った誰よりも、少年は不思議な格好をしていた。つぎはぎだらけのくすんだ衣装は下天の人間を連想させたが、頭にはターバンを巻きつけている。
今、少年が手に持つランタンの中へ、光が収められた。少年は表情一つ変えずにその経過を確認すると、ランタンを懐へとしまう。
「待って!」
エバが立ち上がり、少年に声をかける。少年はエバの声に気づくと、そそくさと身を翻した。
エバの心が怒りに包まれる。今まさに、ヒスイの死体が盗まれようとしている――エバの直感がそう囁きかけていた。ヒスイの死体を持ち逃げする権利、そんなものは誰も持っていない。あの少年が何であれ、必ず捕まえなくてはならない。
「待ちなさい――待ちなさいよ!」
自分でも可笑しくなってしまうくらい必死に、エバは少年に詰め寄った。全身から力が湧き上がってくるかのようだった。魔法を使うことなど思いも寄らない。エバは手を伸ばして、少年に掴みかかろうとする。
少年が動いた。
エバのほうへ向かって。
(えっ?)
踏み込んできた少年をエバは捕まえようとする。だが、エバの指は空気を掴んだだけで、少年の髪の毛一本さえ捕まえられない。少年の身体と、エバの身体とが交錯した。少年はエバをすり抜けると、そのまま瓦礫を駆け上って広間を抜けようとする。
「ちょっと――」
慌ててエバは振り向いた。少年は広間の出口にいた。エバがどう出るのか、様子を探っているようなそぶりだった。
(どうする?)
エバは考えた。今までの一連の行為は、明らかに魔法によるものだ。そうでなければ、エバの体をすり抜けることなんてできない。しかもこれらのことを、あの少年は何の動作もなく手早く行っている。相当な魔術の使い手に違いない。ヒスイの死体を取り戻さなくてはいけないが、あの少年と張りあえるだろうか?
エバが躊躇っているのを見越したのか、少年は背を向け、一目散に出口を抜ける。
「待って!」
仕方なく、エバもそのあとを追い瓦礫を登る。考えあぐねていたら相手の思う壺だ。今はなんとしてでも、あの少年に追いつかなくてはならない。
瓦礫を抜け、広間の出口を抜ける。エバはすぐさま周囲を確認した。少年はもう螺旋階段を降り、列柱廊へと続く扉の前にいる。再び、エバと少年の目が合う。少年は身を翻すと、その扉を抜けた。
エバも息せき切って螺旋階段を降りると、扉を押しぬけて列柱廊へ躍り出た。連なる柱の奥、もう一方の扉の前に、やはり少年が立っている。
少年はこちらを見つめていた。一定の距離を取っては、エバの様子を見ているらしい。弄ばれている――一瞬そう考え、エバは怒りが爆発しそうになる。だが少年の様子は、どうもエバを案内しているようだった。
ふたたび少年が扉を抜け、姿を消した。エバは息があがって苦しかったが、それでも少年の後を追う。
エバが新しい部屋へ入ると、少年が別の出口でそれを待っていて、居なくなる。――こんなやり取りが続いた。少年はどうも、抜け道を使って后来院へ戻ろうとしているようだった。
「いい度胸じゃない……」
肩で息をして追いかけながらも、エバは一人悪態をついた。后来院はエバにとってもなじみの建物だ。知らない箇所はもうほとんどないし、隠れられそうな箇所もだいぶ見当がついている。地の利は自分にある。何があっても、ヒスイの死体だけは奪還してやらねばならない。死んでしまったのなら、せめてちゃんと埋葬してやりたい――。
さて、后来院へ到着した。エバは廊下へとつながる階段を駆け上る。少年はまたしても、廊下の一番奥にいた。
「待ちなさい――」
大声を上げるつもりでいたが、息があがり、弱々しい息しか弾まなかった。少年もそれを見越しているのか、颯爽と間近にある扉をくぐった。
(やった)
だがエバは知っている。扉の向こうはやや広い部屋だが、クライン導師が蔵書をしまうための部屋であり、つまりは行き止まりだった。ついにエバは、少年を追い詰めたのである。
逃がさない――息を整え、少年との交戦も辞さない覚悟で、エバは扉の直前まで詰め寄った。
「ヒスイが死にましたね、勇者様」
扉の奥から、くぐもった声がする。紛れもなくエバの姉・リリスの声だった。ドアの向こうから聞こえる姉の言葉に、エバは耳を疑った。
(勇者様だって?!)
どういうことだ? まさか、扉の奥に勇者が控えているとでもいうのか。だとしたら、どうしてリリスはそのことを知っているのだろうか。
興味本位でドアを開こうとしたエバだったが、ふと思いとどまる。何かを思いついたわけでもない。だがエバの第六感が、本能的にエバの行動を阻止したのである。身体に針金を差し込まれたかのように、エバは動きをやめる。その一方で、耳にだけ注意がいった。
「サイファがこちらのことを暴露したりはしていないでしょう」
エバは息が止まりそうになる。扉の奥で、リリスと“誰か”が話をしているのだろう。リリスの声だけはこちらからも分かった。しかし、“誰か”は相当小さな声で話しているのだろう、エバの耳では、誰の言葉か聞き取れない。
扉の向こう側で妹が聞き耳を立てているなどとは、つゆとも知らないのだろう。ふたたびリリスの声がした。
「あとの二人はどうします? 早いうちに始末してしまうのがよいかと思いますが」
胸に杭を打ち込まれたかのような痛烈な衝撃に、エバは身じろぎした。遠くなる意識を、奥歯を噛み締めて何とか踏みとどまる。心臓の鼓動が早くなり、吐き気が襲ってくる。
“あとの二人”、間違いなく自分と、セフのことだ。それを「始末する」ことが提案されている。誰によって? ――リリスによって、
他ならぬ、自分の姉によって。
(ウソだ)
エバの額から汗が流れ落ちる。今までに掻いたことのない汗が、エバの体中から溢れてきた。嘘だ。こんなはずはない。信じられない。扉の奥で話をしているのは、ほんとうに本当に、本当に自分の姉なのか? いや、そんなことはないはずだ。自分はきっと、悪い幻覚を見ているのだ。ヒスイが突然煙のように消えてしまったことも、少年と追いかけっこする羽目になっているのも、この幻聴も、すべてが幻なのだ。単純に自分が錯乱しているだけだ。そうに違いない。セフにこんなところを見られたらバカにされてしまう。自分のほうがセフより少し年上なのだから、もっとしっかりしないと。
エバは覚悟を決めた。何が何でも、事実をはっきりさせなくてはならない。エバは扉の取っ手を掴み、思い切り開け放った。
「――あら、エバ?」
エバの視界に、リリスの姿が映る。
その脇には、ジスモンダがいた。