ヒスイが死んでしまった。
あまりにも唐突な最期だった。
ヒスイが崩れ落ちたのを確認したあと、何を、どのように行動したのかセフには分からなかった。断片的にしか覚えていない。今しがた出て行ったばかりのロイとリリスを呼んだ。どうやって呼んだのか、セフ自身にも分からない。もしかしたら呼んでいなかったのかもしれない。
それでも二人は来た。半狂乱になっているエバの頬を、リリスがはたいたのだけは覚えている。エバを落ち着かせるためだったのだろうが、あんな顔をしているエバも、あんな表情をしていたリリスも、セフにとっては初めてだった。
ロイもまた立ち尽くしていた。悲痛そうな表情ではなかったが、ますます面白くなさそうな表情をしていた。
それからやや遅れて、イェンがやって来た。それまでずっとセフは立ちすくんでいたが、このときだけは
(逃げなければならない)
と強く思った。だけど、何から逃げるというのだろう。おそらくは、悲痛な表情を浮かべるだろうイェンを見たくなかったからかもしれない。あるいは、イェンのそぶりを見て、ヒスイが死んでしまったことを再認識したくなかったのかもしれない。
だけど、セフは逃げられなかった。そして、イェンの反応もセフが思い描いていたのとは違った。
「愚か者」
ヒスイの亡骸へ向かって、イェンははじめ、そう一言だけ述べた。セフのいる位置からは、イェンの背中しか見えない。却ってその方がよかったのかもしれない。
イェンの声は、不貞腐れているように聞こえた。
「妾が育てておきながら、妾より先に死ぬか! 戻ってきたと思ったら――勝手に死におって――!」
爪が刺さってしまうのではないかというぐらい、イェンが拳を握り締めていた。それからしばらく唸ったり、肩を震わせたりしていたが、やがて身をひるがえし、イェンはそのまま出て行ってしまった。そのあとを、部下であるロイが追いかけて行った。イェンの通り道にいたセフも、ぎこちなく端へ寄った。イェンは泣いてなどいない。いなかったがしかし、緑青色の瞳からは精気が薄れているようだった。
「セフ殿」
何をするでもなく、放心状態だったセフに声をかけたのはジスモンダだった。転日宮の広場で見て以来の再会だった。本来ならお互いの無事を喜ぶべきだったのだろうか、とてもそんな空気にはなれなかった。
「ジスモンダ様……」
「ヒスイ殿のことは残念です」
声を詰まらせながら、ジスモンダが答える。笑う鬼のお面からのぞくジスモンダの瞳からは、哀愁が漂っていた。
「いまはヒスイ殿を殺した謀反者を部下に探させているところです」
「謀反者……?!」
セフもそこまで聞きつけて、事態の重大さを知った。何の理由も無しに、ヒスイが死ぬことなどありえない。当たり前のことなのに、「ヒスイの死」という事実が大きすぎて気づけなかった。ヒスイと、サイファが話をつけていたとき、どこかでヒスイを殺そうと企てていた人間がいたはずなのだ。
――言ったろう? 私は黒幕ではないと――
サイファが最期に放った言葉は、そういう意味が込められていたのだ。
「セフ殿」
ジスモンダが手を差し伸べ、セフの手を握り締める。
「ヒスイ殿があなたのことを大変信頼していた、ということをリリス殿から伺いました」
(ヒスイが――?)
“信頼”という言葉にセフは反応した。ヒスイに助けられているのは、いつも自分の方ばかりだった。それでもヒスイは、自分のことを信頼してくれていたようだ。
「そこで私からも、セフ殿にお願いしたいことがあるのです」
「それは、どのようなことですか?」
添えられたジスモンダの手を、セフも握り返す。
「お話ください。私もジスモンダ様をお助けします」
「ありがとうございます、セフ殿。ここでは話すことが憚られますので、どうぞ私のあとに続いて来てください」
ジスモンダは周囲を警戒しながらそう言うと、セフについてくるよう合図した。エバを取り残すことはやや気がかりだったが、それでもセフはジスモンダのあとへと続いた。
「事態は、かなり厄介なところまで進んでいます」
后来院の一画に、ジスモンダとセフは辿り着いた。ジスモンダは、ここを作戦本部として利用しているのだろう。元来あったはずの書架はみな、脇へと避けられている。
ジスモンダとセフは、中央にある椅子の二つに腰を下ろした。
「本来ならばサイファを倒せば、それで総てが終わるはずだった。ただ事態は逆です。サイファを倒したのとほぼ同時に、ヒスイ殿が命を落とす羽目になった。……『サイファの死』という出来事にかこつけて、ヒスイ殿を狙っていた人物がいるのです」
「それは、そうですね。わかります」
セフが異論を差し挟む余地はなかった。
「それに、サイファ自身が死ぬ間際に言ってました『黒幕は私じゃない』って」
「“黒幕”……?」
お面の奥にあるジスモンダの瞳が、猜疑のために細められる。
「それは本当ですか、セフ殿?」
「はい、本当です」
「ですが……鵜呑みにするわけにはいけません」
お面の顎に相当する部分を、ジスモンダは神経質そうに撫でる。
「サイファが苦し紛れに、口からの出まかせを言って我々を攪乱しているのかもしれない……でも、だとしたらヒスイ殿を殺した人間の説明がつかない……」
ジスモンダの発言の後半は、彼女自身の独り言と化してしまった。所在無く視線を動かしていたセフだったが、ふと
イスイ
の語を思い出した。
「そうだ……サイファは“イスイ”って言っていました」
ジスモンダはすぐに答えない。もしヒスイならば、ジスモンダの右手、薬指の付け根がわずかに動いたのを見逃さなかっただろう。しかし五感が鋭いとはいえ、セフにはそこまでの観察力がなかった。
「――イスイ、ですか。先代の勇者にして、ヒスイ様の母君に当たる方ですね?」
「ご存知ですか?!」
「ええ、もちろん」
ジスモンダの目が、笑みのために細まる。
「これでも国璽尚書ですから。ところで……サイファはどのような文脈でその言葉を用いたのでしょう?」
「いや……どう、と言われても」
セフはたじたじになる。
「最期はヘンな言葉を口走るだけで、“イスイ”という言葉もそのときサイファが言っただけです……すみません、お力になれなくて」
「いえ、構いません」
謝るセフを、ジスモンダはねぎらう。
「それより、ヒスイ殿はその言葉を聞いて、どう反応しましたか?」
「それが……何と言うか、落ち着かない感じでした。それで、そうだ、『会わなければならない』って言ってました」
「会う? 誰と……いや、何を目的にして?」
「それは……分かりません」
残念そうに、セフは首を振った。
「ただ、ヒスイはすごく切羽詰っていた感じでした」
「そうですか――」
ジスモンダは椅子の背もたれに身体を埋めた。
「でも、セフ殿。少しは謀反者の目安もつきそうですよ」
セフは目を瞠った。
「本当ですか?」
「ええ。――『会わなければならない』とヒスイ殿が言っている以上、謀反者はヒスイ殿の交友関係の範疇にいる人物になるはずです。それに、“イスイ”という言葉。この言葉にヒスイ殿が反応したというのは、すなわち“イスイ”という言葉を共通点としてヒスイ殿と結びついている人物のはずです」
「そうか……そうか……なるほど」
セフが聞いても、ジスモンダの推論は的を射ているようだった。
「すごいです、ジスモンダ様。もうそこまでお考えになられるとは。まるで……なんというか」
そう、ヒスイみたいだ。
「いいえ、大したことではありません」
ジスモンダはそう口にすると、立ち上がって後ろへ向かった。
「本来ならば、ヒスイ殿が自らを殺した犯人を見つけてくれれば、簡単に解決するのですが。マァ、そうでない以上は我々が知恵を絞らなくてはなりません」
ジスモンダは、書架の一角に置かれていた、一振りの太刀を握り締める。
「セフ殿――もし私の推測が正しいとしたならば、おそらくは私が犯人を探るよりも、セフ殿がお探しになられたほうが、より精確であるはず」
「私が、ですか?」
「そうです。ヒスイ殿とセフ殿の交際範囲は、おそらく近しいものであると思われますので」
それもそうだった。セフが知っている人間から片っ端に調べれば、犯人も早く見つかるだろう。
「セフ殿、あなたにこれをお授けします」
と、ジスモンダは右手に掴んだ太刀を、セフの前に掲げた。
「えっ?! こ、これを私に?」
セフは受け取ると、恐る恐る太刀の鞘を見回してみる。重厚な黒塗りで、細工は少ない。重々しい見た目に比して、太刀はかなり軽かった。
ジスモンダに失礼して、セフはそっと太刀を抜き放ってみる。氷霜剣が冷気を放つような鋭い光なら、こちらの太刀は迂闊に触れたものをも容赦なく射抜くような、きめ細かい光だった。セフはおろか、おそらく泰日楼の高僧であっても、こんな太刀を目にする機会はなかなかないだろう。
「すごい……でも、これを私に、ですか?!」
「そうです、セフ殿。何でも“吹毛刀”と呼ばれる名刀だとか。――私は刀剣に疎いため真価は計りかねますが、おそらくセフ殿ならば大丈夫でしょう」
同じような状況は、だいぶ前にもあった。イェンから氷霜剣を渡されたときだ。あのとき、
「物を使いこなすのは持ち主だ」
とイェンは言っていた。
はじめはたじろいでいたセフだったが、いつしか自分が氷霜剣を使いこなしているという実感を、セフは何となく獲得していた。
(これだけの名刀を自分は使いこなせるか?)
やはり一抹の不安はある。だが今、自分は信頼され、期待されているのだ。それだけは裏切りたくない。ちゃんと応えてみせたい――。
「謹んでお受けいたします、尚書閣下」
セフは吹毛刀を受け取ると、恭しく拝礼した。
「確かにお授けいたしました、セフ殿、それから――」
ジスモンダは朗らかに言ってのけると、懐から何かを取り出した。セフが見たところ、それはきらびやかな青い繍 (ワッペン)だった。
「これは……?」
「セフ殿が判断して、謀反者、あるいはそれに加担する人間ではないと思う人物にこの繍をお授けください。何か問われた場合には『国璽尚書からの命令だ』とおっしゃれば問題はないはずです」
「はい、わかりました」
繍を受け取り、再度礼をすると、セフは颯爽と部屋を後にした。ジスモンダはそんなセフの背中に、ずっと視線を注いでいる。