第66話:アートマン

 風呂場にて。

 ヒスイ、浴槽に身を沈めながら考え事をする。

ヒスイ:(キスイ……)

 浴槽の中で、身じろぎ一つせず思案を続けるヒスイ。眉に寄るしわ。波立たぬ水面に浮かぶ、自らの苦悶の表情。

ヒスイ:(イスイが還ってくるのは分かった。ジスモンダが地球で言うところの“予章ヨショウ 姫睡キスイ”で、しかも同時に私のフアン、それも分かっている――)

 うずくまったまま、お湯の中へ口を付けるヒスイ。意識までもが、熱い湯の中へと溶け出してしまいそうな錯覚。

ヒスイ:(じゃあ、キスイとイスイはどう連関するの? ……いや、いや、違う。キスイという子も、同じ予章の名だ。しかもあの子は、私とそっくりの顔立ちをしているし、年齢もほとんど同じくらいだろう)

ヒスイ:(だとするならば、キスイとイスイを考えるよりも、私とキスイを考えなければならない。そしておそらく、私とキスイって子は、イスイから生まれた娘――きっと姉妹!)

 自らが下した結論におののくヒスイ。

ヒスイ:(怖ろしい……私と同じ運命を辿らざるを得ない人が、まだ他にもいたなんて)

ヒスイ:(いや、もしかしたらもっといるのかもしれない。このキスイという子以外にも、イスイの子供達がたくさん――)

ヒスイ:(いや、今は不確かなことは考えないようにしよう。イスイがいて、イスイの娘として、私と、それからキスイがいる)

ヒスイ:(これが確実に分かっていることだ。そして分からないことが一つある。私とキスイとが、どのように関わっているのか――それはつまり、)

ヒスイ:(なぜ私が“竜の島”に生み落とされ、キスイが“地球”に生み落とされたのか?)

ケメコ:ヒスイちゃん、タオル持ってきたわよ。

 風呂場の向こうから聞こえる、ケメコの声。

ヒスイ:あ、ありがとう……

ケメコ:それにしても、ヒスイちゃんってずいぶんお風呂好きね? 「すぐにあがる」みたいなことを言ってから、もう大分経つけど?

ヒスイ:そうね、そろそろ出るわ。……今まで少し、考え事をしていたのよ?

ケメコ:「フアン第一号」さんのことについてかしら?

 ヒスイ、あえてすぐに答えず、目を細める。

ヒスイ:ええ、“ヨショウキスイ”のことよ。ケメコ、あなたはそれを分かっていて、あえてあの部屋に通したのよね。目的は何なのかしら? 私を殺すよう、その子に命じられたわけ?

ケメコ、おどけた口調で:あら、フフフ……。そうね、じゃあ、そういうことにしておきましょうか? 今からお風呂場に踏み入って、パチンコ玉でヒスイちゃんに穴を空けるのよ。

ヒスイ、肩をすくめて:ほんとう? それは残念。でもあなたが私に穴を空けるのは、私があなたに穴を空けた後よ?

 ヒスイ、流しに置いてある銃を確認する。見えない弾を放つ銃、それでいて弾数も減らず、いくらでも連射できる銃、水の中でも撃てる銃――。

ケメコ、ため息をついて:ずば抜けた人間不信ね、ヒスイちゃんって。私はあなたを殺しなどしないわ。それにヒスイちゃんだって、銃を素手で掴むことには抵抗があるはずよ?

 ヒスイ、ケメコの言葉は図星なので、それ以上は答えようとしない。ケメコ、おもむろに風呂場の扉を開け、中へ侵入する。ヒスイ、困った表情で湯船から立ち上がる。

ヒスイ:ちょっと……。

ケメコ:あら、もしかして照れているの? いいじゃない。裸ぐらい拝ませてよ。それに、背中に入っているタトゥーが見たかったのよね。

 ヒスイ、身震いしそうになる。

ヒスイ:私の刺青を見たわけ?

ケメコ:いいえ。私は見たことなんかないわ。一号ちゃんはずっと見ていたようだけど。

「それはフアンではなくて印魚迷ストーカーだ」

 と、ヒスイは口に出しかけてやめる。自分の一挙手一投足が、自分とまったく近しい似姿によって、ありがたがられたり拝まれたりするのは気味の悪い感触だった。ケメコ、ヒスイのまずそうな顔には目もくれず、ヒスイの背中に視線を走らせる。

ケメコ:峰下竜血樹バオシャリウジエジュだっけ? ずいぶん立派なタトゥーね? 肌が綺麗だから、刺青もとても映えて見えるわね。

 ヒスイ、似たようなセリフをエバから聞いたのを思い出し、やるせない思いに駆られる。

ケメコ、怪訝そうに:どうしたのよ、ヒスイちゃん? 私がせっかく褒めてあげてるっていうのに?

ヒスイ:……なんだか、ケメコに言われてもそんなに嬉しくないわ。

ケメコ:ウフフ……。ヒスイちゃんって、そういうところだけは素直よね。

 ケメコ、ヒスイにタオルを差し出す。受け取って顔を拭くヒスイ。今までになく柔らかいタオルの生地と、鼻孔をくすぐる洗剤の清潔そうな匂い。

 ケメコ、ヒスイが身体を拭く様子を興味深げに眺めている。ヒスイ、ケメコに視姦されているようで、気が気ではない。

ヒスイ:ねぇ、ケメコ。どうして私のことを「ヒスイちゃん」なんて呼ぶの? 普通に「ヒスイ」とか、「あなた」とかでいいわよ?

ケメコ:ええ、もちろん分かっているわ。でも私にとって、ヒスイちゃんは、“ヒスイちゃん”って感じなのよ。子ども扱いしているわけじゃないのよ。嫌だって思うのなら、なるべく私も別の呼び方をしてみるわよ、“ヒスイちゃん”?

 ヒスイ、特に悪気の無さそうなケメコの様子を見て、それ以上とやかく言うのをやめる。ヒスイ、風呂場を抜け出すと、籠の中にしまわれていた自らの衣装を着はじめる。相変わらずケメコが興味深げにヒスイを見つめてくるため、必死にヒスイも話題をそらすよう心がける。

ヒスイ:ねぇ、その……キスイって子は、どんな人なのか分かる?

ケメコ:ええ、もちろん。ヒスイちゃんのことを私に教えてくれたのは、他ならぬキスイちゃんですもの。

ヒスイ:(キスイにも“ちゃん”付けか)

ケメコ:すごいのよ、キスイちゃんって。成績は優秀でスポーツも万能。きりりとした二重だし、おまけに鼻筋の通った嫌味のない顔をしてるじゃない?

 ヒスイ、容貌が似姿と酷似している以上、最後の言葉にはあえて頷かない。

ケメコ、気にせず:だから、学校の中でもすごい人気があったのよ。男子で彼女に憧れない人はいないし、性格が良すぎて女子からも妬まれなかったわ。

 ヒスイ、上衣を着て、ベルトを締める。グローブを左手に嵌めると、ホルダーに銃をしまう。

ヒスイ:そんな優等生さんが、どうして私に興味を抱くわけ?

ケメコ:キスイちゃんは、あなたが羨ましいそうよ。

ヒスイ:私が?

ケメコ:ええ。たぶんだけど、キスイちゃんは自分のことを、あなた自身に重ね合わせてみていたのかもしれないわね。

 ヒスイ、無表情を装ってケメコに向き直るが、心の中でさまざまな思いを巡らせる。キスイはヒスイに憧れている、正真正銘の飯フアンのようだ。にもかかわらず、彼女がジスモンダとしてヒスイにやっていること。――それはヒスイが守るべき“竜の島”を、自ら破壊していることに他ならない。

 羨ましいがゆえに破壊するのか? だとしたら、どうして自ら手を下さずに、サイファを操るなどというまだるっこしいことをしたのだろう。サイファがたやすく誰かの言いなりにならないことなど、すぐに分かりそうなものを。

 ならば、キスイはほんとうに、ヒスイにとって代わろうとしているのか? キスイならばきっとできるだろう。声音や髪色は違えど、容貌はヒスイと瓜二つなのである。島の人びとを丸め込んで、ヒスイのふりをすることなどたやすいだろう。

ヒスイ:(そうなったら、私は完全に孤立する)

 ヒスイ、「孤立」という言葉の重みの前に、立ちすくみかける。「孤独」が「孤立」へと移行しつつあることを恐れ、また同時に怖れている自分自身に対して怒りを覚える。

ケメコ、不思議そうに:どうしたの、ヒスイちゃん?

ヒスイ:いえ……ちょっと考え事をしていただけよ。――そろそろ行きましょう? 大賢者様を待ちぼうけさせるわけにはいかないわ。

ケメコ:ええ、そうね。それがいいわね。

 ヒスイ、ケメコ、脱衣所を抜け、部屋の外へ出ようとする。

 ヒスイ、キスイのことに専念するあまり、大切な質問が残存していることに気づかぬままでいる。その質問は、

「キスイは、誰かと一緒には暮らしていないの?」。

 仮にその質問をしたとき、おそらくケメコは

「キスイちゃんは、お母さんと一緒よ」

 と答えるはずだった。

 しかしそれは、運命が許さない。


 ケメコ、ヒスイ、マンションの外へ出る。

ケメコ、首をかしげて:あら?

 ヒスイ、ケメコが不思議がる理由を察知する。マンションの外に広がるのは、さっきとは別の光景。今度はもっと高い、塔の頂上付近の層にいる。太陽はまだ地平線の中空を漂うばかり。おそらくは朝。

ヒスイ:さっきと出てきたところと、場所が違うわね。

ケメコ:ええ。でもおかしいわね? これじゃあ、次の目的地まで歩かなきゃいけなくなるわ。

ヒスイ:距離はどのくらいあるの?

ケメコ:ここからだったら、大したことはないけれども……

???:行ってきまーす!

 ヒスイとケメコの後ろから、誰かの声。ランドセルを背負い、飴色の制服に身を包んだ少女の姿。長い黒髪と丸帽子のせいで、表情は分からない。

 「行ってらっしゃい」という、扉の向こう側からの声。おそらくは少女の母親。

 ヒスイの方へ振り向く少女、

ス。

た、

姿

た。

 ヒスイ、今度こそ立ちすくんで、“フス”を凝視する。(め、めめん、めめん。)天地が裏返り、ヒスイを世界から弾き飛ばしてしまいそうな衝撃。(め、めめん、めめん。)“フス”、ヒスイと目を合わせる。(め、めめん、めめん。)高鳴るヒスイの鼓動。

“フス”、小声で:こんにちはー。

 ケメコ、ヒスイの隣で「えっ?」と声を洩らす。“フス”、ヒスイとケメコを避けるように、そのまま慌しく通路の奥へ去ってゆく。

ヒスイ、動揺を隠せないまま:ケメコ、今の子は……どういうこと?

ケメコ:あの子? あの子が? それは分からないわ。でもとにかく――

ヒスイ:あの子はフスだわ。いや……こっちの世界では何て呼ばれているか分からないけど、あの子、生まれ変わる前のフスだわ。追いかけましょう。

ケメコ:いえ、それは危険だわ。

ヒスイ:どうして?

ケメコ:あの子、あからさまにヒスイちゃんに挨拶したわよね。おかしいと思わない? 地Qに移りこむのは、あくまで地球の残像なのよ?

 ヒスイ、ケメコの言葉に合点がいく。地球の残像が地Qに移りこむがゆえに、ヒスイはキスイを発見し……キスイに話しかけることができずにいる。

 にもかかわらず、先ほどの少女“フス”、ヒスイに挨拶を交わした。

ヒスイ:おかしいわ。だけど、おかしいことをおかしいまま放っておいたらダメでしょう?

ケメコ:関わりのないおかしさは、放っておいた方が吉よ。

ヒスイ:あら、分からず屋ね? あなたは私のフアンでしょう? 私がやりたいことを追っかけようっていう、フアンらしい気概は無いわけ?

ケメコ:――ははん?

 ケメコ、ヒスイの語気に唇をゆがめて笑う。

ケメコ:そうね、それもそうよ。――まったく、フアンをこんなにどぎまぎさせるなんて、ヒスイちゃんたらずるいわよ? ……そうね、じゃあひとまず、あの子を追いかけましょう?

ヒスイ:ええ、そうしましょう!

 ヒスイとケメコ、“フス”の後ろを追いかける。

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