脚に羽が生えたかのような速さ。ヒスイ、恐怖に駆られつつも、何とか扉をくぐる。ケメコ、後方を注視しながら、扉を閉ざす。
今しがた掻い潜ってきた光景。石でできた床から、無数に生える右足。金切り声を上げる男たちの虚像。わずかに人間の面影があるせいで、よりグロテスクに見える。
ヒスイ:ハァ、ハァ――
ケメコ、額の汗を拭いながら:やれやれ、間一髪ってところかしら?
ヒスイ:ケメコ、説明して。今のはいったい何だったの?
ケメコ、上方を見つめながら:ええっと、そうねぇ……なんて言えばいいのかしら? ――“地Q人”ってところかしら。もっとも、「生きている」とは言いがたいんだけど。
ヒスイ:じゃあ、何? 死人の癖に歩き回っている、とでも言いたいわけ?
ケメコ:まさか! 生きていないのに、死ぬことなんてできっこないわ。そうでしょう?
ヒスイ:(それもそうだ)
ヒスイ、腰に手を当てたまま黙り込む。目を閉じるヒスイ。まぶたの裏に焼きついた残像を、必死に脳裏から追いやろうとする。
ケメコ:そうね、そうねぇ。地Qの一部分、って考えたほうがいいのかしら。
ヒスイ:あの“地Q人”たちが?
ケメコ:そうよ。「人の狂気は天の正気」、……言いえて妙よね? ヒスイちゃんだって、そんな思いをしたことが一度あるはずよ。
ヒスイ、目を細めて:……下天のことを言ってるのかしら?
ケメコ:ええ、もちろん。
ヒスイ、ケメコの有する自身の情報量に舌を巻く。
ケメコ:あの下天だってそうだったでしょう? あそこにいる人間達の多くは、歪で、おかしな人たちばかりじゃない? でもアレは環境のせいなんかじゃないのよ? 普通の人間が、異常な環境で育ったわけじゃないの。異常な環境が、異常な人間を生み出したのよ。
ヒスイ、皮肉げに:……ずいぶん詳しいのね。まるで下天へ言ったことがあるような言い草じゃない。
ケメコ、あえてすぐに答えず、唇の端をゆがめて笑う。身体のあちこちを眺め、支障がないことを確認するヒスイ。ゆえにヒスイ、ケメコの不敵な笑みを気づかない。
ヒスイ、沈黙を不思議に思い:どうかしたの?
ケメコ:フフフ……今のは私の意見じゃないのよ。
ヒスイ:じゃあ、誰の意見だっていうのよ?
ケメコ:あなたの飯の意見よ。
ヒスイ、怪訝な顔をして言い返そうとするが、そのときになってケメコの「飯第一号」という言葉を思い出す。
ヒスイ:それって、もう一人の飯フアンのこと?
ケメコ:ええ、そうよ。――あなたに会えることを楽しみにしていたわ。
ヒスイ、言い草を気にして:――“していた”?
ケメコ、目を伏せて:ええ、過去の話よ。その子、今はここにいないんですもの。
ヒスイ:……こんなところにいるほうがおかしいんじゃないかしら?
ケメコ、おどけて:あら、ヒスイちゃん? 自分が変人であることを認めるわけ?
ヒスイ、涼しい顔をして:「おかしな世界」にいることが“おかしい”のよ。
ケメコ:ウフフ……そうね、そうかもしれないわね。
ケメコ、歩み寄り、ヒスイの前へでる。
ケメコ:さぁ、ツアーを続行しましょう。
ヒスイ:でも、ここって……?
ヒスイ、今自分のいるところを確認する。四方を建物に囲まれた四角い中庭、その中央。四角く切り取られた青空。中庭には芝生。よく分からないおもちゃが散乱。シーソー台、滑り台。建物は四階建て。同じ間隔で張り巡らされた扉。
ケメコ:“マンション”よ。
ヒスイ:マンション……
ケメコの言葉を繰り返したヒスイ、あることに気づく。
ヒスイ:地球でも、私たちの言葉は使えるの?
ケメコ:いいえ。使える人間などいやしないわ。まぁ、なんとかあなたたちと意思疎通できる人たちはいるだろうけど。
ヒスイ:……あなたもその中の一人だったわけ?
ケメコ、肩をすくめて:ええ、まぁ、そんなところかしら?
ヒスイ:そう。で、このマア……マアンションが何なの?
ケメコ、指で示して:マンション、ね。あそこよ、
ケメコ、指の先、“マンション”の一角、扉。
ケメコ:あそこまで行くつもりよ。そこまでゆけば、少しはヒスイちゃんのことをもてなせるから。
ヒスイ:――別にもてなしてくれなくたっていいわ。大賢者様に会うんでしょう? だったら急がないと……
ケメコ:ええ。でも、少しぐらい寄り道したって、罰は当たらないはずでしょ。
ヒスイ、不服げな声で:そうだけど――
ケメコ:じゃあ、決まりね? 地球人の生活に、興味ぐらいあるでしょ?
ケメコの案内で、ヒスイ、玄関を潜り抜ける。いたって普通の間取り。ヒスイ、特に感慨はない。
ケメコ:今からお風呂をたくからね。
ヒスイ、いぶかしんで:――なんで?
ケメコ:いいじゃない。少しぐらいリラックスしましょうよ。
ケメコ、風呂場までヒスイを案内する。
ヒスイ、浴場を見て:(ちょっと狭いかな)
ヒスイ:(でも、……清潔そうだ)
ヒスイ、フスの「チキュウは清潔」という言葉を思い出す。
ヒスイ:(フスの言ったとおりだ)
ケメコ、蛇口をひねってお湯を出す。“水道”を知らないヒスイ、その現象に面食らうも、つとめて動揺を隠そうとする。
ヒスイ:……水はどうやって引っ張ってくるの?
ケメコ、愉快そうに:フフ、ヒスイちゃん、興味があるのかしら?
ヒスイ、視線をそらして:いや……別に。
両者押し黙ったまま、浴槽に注ぎ込まれる水を見やる。
ケメコ:さぁ、このままじゃ退屈だから、部屋まで戻りましょう?
ケメコにしたがって、お湯が溜まるまで待つことにする両者。
ヒスイ、浴場を抜ける。そのとき、何者かの影、ヒスイの視界を横切る。
ヒスイ、銃を構え:誰っ?
ケメコ、そんなヒスイを興味深げに見守る。
何者かの影、後姿。装束はケメコと同じ、黒いセーラー服。同じく黒い髪色。ただし髪は長い。ヒスイには正面が見えない。
ケメコ:心配しなくていいわよ、ヒスイちゃん。それはただの残像なんだから。
ケメコのくつろいだ様子を見て、ヒスイもようやく銃を降ろす。
振り返る影。ヒスイ、影の顔を見る。
そこには自らと同じ形相。
ヒスイ、凍りつく。
ケメコ:フフフ……
ヒスイ、ケメコの微笑さえ耳に入らない。残像と鉢合わせたあげく、ヒスイ、残像と目が合う。高鳴る鼓動。頭の中で組み合わさり、ほどけてゆく謎。
ヒスイ:そうか……!
最後に残った二つの破片。一方は仮面の国璽尚書、もう一方はこの残像。
ヒスイ:こいつが……この娘がジスモンダ……!
ケメコ:ええ、そうよ。そしてその娘が、あなたの飯フアン第一号。
稲妻を喰らったかのように、身体を震わせるヒスイ。知らなくていいことを知ってしまったかのような、良心と罪悪感の倒錯。自らとこの“似姿”との酷似に、ヒスイは狼狽する。
似姿、鞄をソファに投げ出すと、小型で光沢のある端末をいじる。それは“スマートフォン”。だが、当然ヒスイは知らない。ヒスイ、似姿の挙措に釘付け。ケメコ、何も言わず腕を組む。似姿、しばらくしてから歩き出す。
ヒスイ、似姿の残像を追いかける。廊下を通り抜け、ある部屋へと赴く似姿。ヒスイ、続けてその部屋へと入る。
似姿の部屋。部屋の壁、さまざまな額。机にも、本棚にも、大量の書籍。年頃の女子にしては、あまりにも殺風景な部屋。
似姿、机にあるメモ帳にしきりに何かを書き込む。その最中、似姿の残像が消える。
ヒスイ、ケメコの方を振り向いて:今のはいったい、どういうこと? あなたさっき、飯第一号はここにいない、って言ったはずよね?
ケメコ:ええ、言ったわよ。少なくとも、地Qには存在しないわ。
ヒスイ、考え込んでから:――地Qには居ないけど、地球にはいる、ってことね? 地球にいるあの子の残像が、こっちの世界にも移りこんでいる、ってこと?
ケメコ、嬉しそうに:ええ、そうね、鋭いわね。……その通りよ。
ヒスイ、似姿の手がかりを掴むべく、机にある本を手に取る。見慣れない文様に顔をしかめるも、辛うじて少し読めるところを拾い読む。
背表紙には“国家”と書いてある。
ヒスイ:国家?
ケメコ:ええ、そうよ。
ヒスイ:どんな話なの?
ケメコ:そうねぇ……理想的な国家に課される王者の条件、みたいなところかしら? もっとも、「正義とは何か?」を語ることの例として、国づくりが話題になっているだけだけれど。
ヒスイ、ケメコの切り詰めた説明を、目を閉じて咀嚼する。国璽尚書の行為と、今の説明との結節――
ヒスイ:あの娘は――私の飯第一号って子は、私に取って代わろうとしているの?
ケメコ:そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。
ヒスイ、険しい目つきで:ケメコ、あなたはそれを止めようとは思わなかったわけ?
ケメコ、肩をすくめて:一度決心をつけてしまった人の心を、変えることなど出来るかしら?
ヒスイ:何ですって……?
ケメコ:思い出してごらんなさい、勇者の娘。飯の影像に妨げられることなく、それよりももっと、見なくてはならぬ真実在があるはずよ?
ケメコの言葉を受け、ヒスイ、目を閉じる。識域下にたゆたう、実体を持たぬ影像。暗いまぶたの内に佇む、ほの白く冷たい蛍光。それは色あせた光、つまりは単純な光、青い光。ヒスイ、決心をつけてその光をこじ開ける。悲鳴を上げる光、それに続く拡大。
孟然努羚が啼いた。
一面の白さ。ヒスイの心の中、恐怖心が連打される。
白さの一点、渦を巻く真実在。
それはアプラクサスと呼ばれる。大きさ歳星のごとし――そして燃える人、または「さらば」と言う人、または「メメント・モリ」と言える人。千の中の一、しかもまた同時に、欠かすことの出来ない千の中の一。
ヒスイ:イスイ……
ケメコ、ヒスイの呟きに身じろぎしない。
ヒスイ:イスイが……還ってくる……! いや、もう竜の島に――。
ケメコ:結論が出たようね?
ヒスイ、口元を覆って:まずい――でも、何のために?
ヒスイの頭の中。似姿・ジスモンダと、先代勇者・イスイとの連関がつかない。
ケメコ:そこまでは分からないわ。私はしがない飯の一人ですもの。あなたのことに詳しくても、他の人の考えはよく分からないわ。でも、人間なんて皆、そんなものでしょう?
ヒスイ、動揺を抑えつつ:ええ……。そうね、その気持ちは分かるわ。
ヒスイ、腕を組みなおし、ケメコと正面から対峙する。
ヒスイ:もう一度、これっきりだから、一つ訊かせて?
ケメコ:ええ、いいわよ?
ヒスイ:あなたは私の味方なの?
ケメコ:いいえ。
ケメコ、微笑んで:私は、あなたの飯よ。
ケメコ、それ以上答えない。ヒスイ、それ以上答えさせない。殺伐とした、無機質な沈黙。
ケメコ、ヒスイに近寄って:さ、難しい話はここで終わりよ。そろそろお湯が溜まっただろうから、お風呂に入るといいわ。
ケメコ、そのままヒスイの脇を潜り抜けると、廊下を渡り風呂場へと消える。ヒスイ以外は誰もいない、似姿の居室。ヒスイ、最も手近にある額縁を見つめる。
それは何かの賞状。
賞状
予章 姫睡 殿