第63話:ケメコ

 ヒスイ、ケメコ、連れ立って屋上を抜け出す。屋上から垂れる長い階段を、ひとしきり降りようとする。

ヒスイ:ねぇ、ケメコ、教えてくれないかしら?

ケメコ:ええ、いいわよ。何でも訊いてちょうだい? 私はあなたのフアンですもの、答えられる範囲で何でも答えるつもりよ。

ヒスイ:じゃあ……どうやったら地Qを抜け出せるわけ?

ケメコ:フフフ……そのために私はあなたと一緒にいるのよ。

 意味深な微笑みをするケメコ。更に問い質そうとするヒスイ。だがその前に階段を下りきる二人。目の前には扉。

 ケメコ、扉を開ける。

ケメコ:さぁヒスイちゃん、どうぞ?

 ヒスイ、ケメコに勧められて扉の奥へ進む。扉の奥もまた部屋。

ヒスイ:(待って……どうなっている?)

 ヒスイ、愕然とする。ヒスイの認知する範囲では、扉の向こうは外に繫がるはず。しかし今、ヒスイの眼前には別の通路。それも右へ九十度、空間が完全にねじれ、壁と床があべこべになっている。

ヒスイ:(まさか……騙された?!)

 全身に鳥肌が立つヒスイ。とっさに振り向く。後ろ手で扉を閉めるケメコ。

 ケメコに銃を向けるヒスイ。

ケメコ、目を丸くして:おっと?! どうしたの、ヒスイちゃん?

ヒスイ、銃を構えたまま:この部屋……どういうつもり?

ケメコ、目を細めて:……ははーん、さては私のトラップだったとでも思ったのかしら?

ヒスイ、確信を失って:……違うの?

ケメコ:ええ。別にこの部屋だけがねじれているわけじゃないのよ。――ほら!

 ケメコ、先ほどくぐり抜けたはずの扉を、再度開いてヒスイに見せる。扉の向こう、先ほど二人が通り抜けたのとは別の部屋になっている。机を横一列にした、学堂のような部屋。おまけに部屋は上下が反転している。

ケメコ:ね、見た通りよ。この世界はぐちゃぐちゃで、得体の知れない世界なのよ。この世界には、「今この場所」しかないの。私たちがいなくなったら、空間は完全に入れ違っちゃうわけ。

 ヒスイ、銃を降ろす。途方もない話に気が滅入りそうになる。

ヒスイ、目を伏せて:――その、ごめんなさい。

ケメコ:「ごめんなさい」?

ヒスイ:ええ。……あなたに銃を向けたから。

ケメコ、おどけながら:でもヒスイちゃん、本当は謝ろうなんて思ってもいないんでしょ?

 ヒスイ、ケメコに答えない。お互いに数秒、見つめあう。ケメコは好奇をたたえた視線で、ヒスイは険しい視線で。

ケメコ:まあ、いいのよ。仮にヒスイちゃんが私のことを殺しても。だってもし私を殺したら、ヒスイちゃんは出られなくなっちゃうもの。

ヒスイ:ええ……それもそうね? じゃあ、あなたを殺さなければ私の道案内でもしてくれるのかしら?

ケメコ:ええ。はじめからそのつもりよ。だって私はあなたのフアンですもの。

 ヒスイ、たびたび利用されるフアンの言葉に、なぜか胸のざわつきを押さえられない。

 ケメコ、そんなヒスイの様子を気にも留めず、さも楽しげにヒスイの前方へと躍り出る。

ケメコ:さぁ、こんなところで油を売っていないで、早く先へ進みましょうよ。“竜の島”にいるエバちゃんたちも、あなたのことを待ってくれているはずよ。

 ヒスイ、「エバ」という単語に反応する。

ヒスイ:そうだ……エバたちは? 二人は無事なの?

ケメコ、肩をすくめて:おそらくは無事よ。だからあとは私たち次第だわ。

ヒスイ、眉をひそめて:……「私たち次第」?

ケメコ:ええ。私たち、とりわけヒスイちゃんがこの地Qを抜け出せるかどうかに掛かっているわ。ヒスイちゃんが死んでしまったら、“竜の島”が“竜の島”である意義がなくなってしまいますもの。勇者不在のおとぎ話なんて、醒めたものよ?

ヒスイ:抜け出す、って……方法はあるの?

ケメコ:あるわよヒスイちゃん。ヒスイちゃんは、夏瓊カケイ様をご存知?

 ヒスイ、「カケイ」の名に目をむく。“竜の島”から暗黒竜を平定した三人の一人、“大賢者”夏瓊。しかしヒスイ、カケイという人物を、詳細には知らない。

ヒスイ:知っているも何も……母とは切っても切れない人よ。その人がどうしたわけ?

ケメコ:今から私が、その人のところまでヒスイちゃんを連れてゆくとしたら?

ヒスイ、失笑気味に:いえ、待って、まって――

 ヒスイ、ケメコの話を遮ろうとして、思い直す。

ヒスイ:(「カケイ」って言う人は、私の母と同じで、七十年も昔の人だ。その人がまだ生きていて、しかも私がその人のところまで連れて行かれる?)

ヒスイ:カケイさんに会って、それから私はどうなるわけ?

ケメコ、建物の天井を見上げて:そしたら、ヒスイちゃんは“竜の島”へ帰れる、ってわけ。ヒスイちゃんを見届けてから、私も元の世界へ帰るのよ。

ヒスイ:元の世界?

ケメコ:地球よ。正真正銘のね。

ヒスイ、いぶかしげな目つきで:――じゃあ、あなたはどうしてこの地Qにいるわけ?

ケメコ、微笑んで:そうね……ペナルティ、ってところかしら。言うなれば罰則に引っ掛かった、ってところよ。まぁ、おかげでヒスイちゃんの水先案内人をする栄誉を勝ち取れたわけだから、願ってもない幸運というべきかしら?

 ケメコ、ヒスイに微笑む。

 ヒスイ、「罰則」とは何か訊ねようとするが、結局やめる。混沌とした思考を反芻するヒスイ。分からないことが多すぎる。先ほど襲われた怪物、地Q、ケメコの意図と正体、大賢者の消息――。

 ようやく記憶を取り戻せて早々、ふたたび見知らぬ世界へと投げ出されてしまったことへ、強い不満感を抱くヒスイ。

ケメコ:さぁ、行きましょう。いつまでも無駄話をしているわけにはいかないわ。

 ケメコ、ヒスイをリードするようにして先へ進む。ヒスイ、しぶしぶケメコの後を追う。


 ややしばらく後。二人、黙々と歩きつづける。ケメコが先導をし、ヒスイがその後を続く構図。扉をくぐるたびに新しい部屋へと躍り出る二人、相変わらず部屋同士は奇妙に捻じ曲がり、味気ない。

 ヒスイ、先を進むケメコへ呼びかける。

ヒスイ:ねぇ、ケメコ。いったい私たちはどこへ向かっているというの?

ケメコ:最終目標は大賢者様のところ、かしら。でもねヒスイちゃん、その前に見せたいところがあるのよ。

ヒスイ、渋い表情をして:――私、あまり寄り道している暇はないのよ?

ケメコ:ええ、そんなことは分かっているわよ。でも私無しでどうやって大賢者様のところまで辿り着くわけ?

 ケメコの言うことは妥当なため、ヒスイは押し黙る。常にヒスイの先手をとるケメコ。もどかしい思いをますます強くするヒスイ。

 厨房と思しき部屋を抜ける二人。ケメコ、前方にある扉を押しのける。

ケメコ、嬉しそうに:あらー、こんなところに出るなんて。

 ケメコ、ヒスイを手招きして呼び寄せる。呼び寄せられたヒスイ、厨房の扉をくぐる。

 そこは公園。一面の芝生にこぎれいな街路、整然と並べられた街路樹は、葉を青々とみなぎらせている。先ほどまでとはうって変わって、晴れ渡った青い空。相変わらず人はいない。遠くに立ち並ぶビルの群れ。陽を受けて燦然と輝く噴水、湖面を差し渡す丸木の足場。

 ヒスイ、光景の荘重さに胸を打たれて、しばし呆然とする。

ケメコ:どうしたの、ヒスイちゃん?

ヒスイ:いや……こんな場所、私の住む世界にはないから――

ケメコ:フフフ……そういえばそうかもね。井の頭公園っていうのよ、ここ。少しはヒスイちゃんのお気に召したかしら?

 ヒスイ、ケメコには答えず、手摺の側まで近づく。水面に移る自分の顔を見るヒスイ。その後、手近にあるベンチまで足を運び、そこへ腰を下ろす。

 ヒスイ、ベンチに座ったまま、一人黙想をする。

 突然、頬に何かを押し付けられる。

ヒスイ:(冷たい!)

 ヒスイ、閉じていた目を開けてそちらの方角を見やる。そこにはケメコの姿。ケメコ、緑色の液体が詰まった、透明の水筒を手に握っている。

ケメコ:ちょっと外れたところに自動販売機があったの。地Qでも自販機は何とかなるのね。

ヒスイ:ジドウ……ジハン?

ケメコ:ウフフ、何でもないわ。ほら、ヒスイちゃんにあげる。お茶ならば飲めるでしょう?

 ケメコ、ヒスイにお茶の入った容器を渡す。それはペットボトル。ペットボトルを知らぬヒスイ、容器の軽さに驚き、蓋の開け方が分からずにたじろぐ。

ケメコ:貸して、私が空けてあげるわ。

 ケメコ、お茶を受け取ると蓋をひねって開ける。

ケメコ、お茶を手渡して:大変よね。ひねる物といったら、石弓ボウガンのネジくらいしかないんですものね、ヒスイちゃんの世界には。

 ヒスイ、渡されたお茶を飲まず、その開け口をじっと眺める。それを興味深げに見つめるケメコ。

ケメコ:どうしたの、ヒスイちゃん? 飲んでしまっていいのよ、私の奢りだもの。

 沈黙。

ケメコ、何気ない風体で:毒なんか入っていないわよ、“人間嫌い”。

ヒスイ、身体を震わせて:えっ……?!

 ケメコ、ヒスイからお茶を掴み取ると、そのまま飲みだす。ある程度飲んだ後で口をはなし、肩をすくめてみせるケメコ。ヒスイ、ケメコから視線をそらし、ふたたびそれを受け取る。ようやくお茶に口をつけるヒスイ。口に広がる苦みばしった味。鼻に抜けるほの甘い臭い。

 ふたたび沈黙。

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