第62話:飯

 おはよう、こんにちは。

 おはよう、こんにちは。

 さよならの入りこむ要素がない、それは

 おはよう、こんにちは。


 ヒスイ、目を覚ます。はじめに知覚したのは静寂。うずくまった格好で、石畳の上に寝そべっている。

 目を開ける。やや明るい。そして肌寒い。

ヒスイ:(ここは……?)

 ヒスイ、思考を巡らせる。目を覚ますことに対しての懐疑。

ヒスイ:(サイファを倒して――そうだ、その後に変な声がした。確か、「メメント・モリ」と叫んでいた)

ヒスイ:(アレは誰の声だったのだろう? というより、私は死んだはずじゃないのか?)

ヒスイ:(いや、本当に死んでいるのならば、今こうして物を考えるのさえ不自然だ。ならば今までのは長い夢か? ――それもおかしい。だって今の私には、失ったはずの記憶がある)

ヒスイ:(わからない、わからない)

 ヒスイ、ともかく立ち上がる。

ヒスイ:(ここは……!)

 ヒスイ、周囲を見渡して愕然とする。灰色の無機質な空に、同じく灰色の建造物で覆われた地平。ヒスイ、周囲の景色を下天と錯覚し、冷や汗をかく。今までのことがすべて夢だったかのような、重苦しい絶望感。

ヒスイ:(いや、違う。ここは……下天じゃない?)

 ヒスイ、空を見上げる。空は灰色にくすみ、色あせていたかのようだが、少なくとも土でできた天井は存在しない。

 ヒスイ、動いてフェンスの近くまで寄る。現在は建物の屋上。上には空、下には建物と道。建物には看板。ヒスイ、看板の文字に目を凝らす。

【ミズノ不動産】

ヒスイ:(三……ノ、不動《プゥダオ》 (動けない)……? ダメだ、分からない)

 ヒスイ、看板を解読するのを諦める。道路、下天でヒスイたちを邪魔した貨車。しかし下天ではない。

ヒスイ:(困った……)

 ヒスイ、自らが生きているのかどうか、どこにいるかも分からない。自らの持ち物を確認する。銃はある。よぎるエバとセフの面影。二人はここにいない。

ヒスイ:(とりあえず……下へ降りてみないと)

 周囲は閑散とし、敵は見当たらない様子。ヒスイ、フェンスから身を離すと、後ろを振り向く。ヒスイがいる場所の真向かい、一段下がった屋上の隅に扉。

ヒスイ:(あそこから出られるに違いない)

 ヒスイ、歩いて段差を下ろうとする。一段下のスペースへ到着する。

 中央には見慣れぬ、黒いオブジェ。

ヒスイ:(これは……?)

 オブジェにさわろうとするヒスイ。だが、得体の知れぬ不安。手を引っ込める。

 同時に、黒いオブジェから亀裂。敵だと直感するヒスイ。銃を構える。

 黒いオブジェは殻。突き破り、異形が露見。

 殻、乾いた音を立てて割れる。巨大な爪。

 異形、かつては女だった容貌。異形の左半身に黄土色の衣。長くのびた緑色の髪。右半身は異形の肉塊。

 ヒスイ、かつて人間であったことが判る異形の見た目に激しい嫌悪感。

 異形、右頬には四つの目。一斉に好奇の色を湛え、ヒスイを見る。よじれ、肥大化した女の右腕。黒ずみ、皹が入っている。

 右腕からせり出した指。やはり肥大化。親指の部分、一段と発達し、鎌に変化。

 異形の甲高い悲鳴。ヒスイの全身に走る戦慄。と同時に、頭痛。

ヒスイ:(ううっ?!)

 今までに感じたことのない、強烈な頭痛と吐き気。心臓がざわつくような、嫌な予感。

ヒスイ:(ダメだ、こんなときに……!)

 ヒスイ、肩で息をしながらも、体勢を整えなおす。振り下ろされる異形の鎌。石畳を転がり、それをかわすヒスイ。異形の鎌、石畳に深々と刺さり、抜くことができない。

ヒスイ:(今だ!)

 ヒスイ、転がり込んだまま銃を構え、異形の背中に二発。連射された弾、異形の左肩をえぐる。身悶える異形。赤い血。傷口からと突如として、黒く長い触手が出現する。

ヒスイ:あっ――

 黒い触手、ヒスイの右足を絡め取る。足を取られもたつくヒスイ。石畳から鎌を引き抜いた異形、振り向き、ヒスイに鎌を振り下ろそうとする。鎌の風をしなる音――。

 瞬間、ヒスイのすぐ側を飛来する“何か”。

 “何か”は異形の目に当たり、それを潰す。悲鳴を上げる異形。足を取った触手、勢いを失う。ヒスイ、それを払いのけると、異形の心臓部目がけて数発。銃撃を喰らうたび、仰け反る異形。段差に叩きつけられ、ついに動かなくなる。

 動かなくなった異形、黒い血が噴出し、全身が包まれる。新しい蛹が形成される。

ヒスイ:(今のは……?)

???:ごきげんよう、ヒスイちゃん。

 誰かの声。ヒスイ、声に驚き振り向く。

 そこには、少女の姿。

 背はヒスイより少し低い。黒い短めの髪に、墨色の瞳。理知的な顔立ちで鋭い目つき。紺色の服に袖を通している。それはセーラー服。だがヒスイは「セーラー服」なるものを知らない。

 少女、頭の脇に、青いお面をつけている。それは怒る鬼のお面。また少女、左手にスリングショットを握っている。

???:どう、私の腕前は? 少しは役に立ったかしら?

ヒスイ:腕前……?

???:ええ。といっても、パチンコ玉だけど。

 少女、腰に巻いたポーチから無数のパチンコ玉を見せる。先ほど飛んだ“何か”は、このパチンコ玉。

 ヒスイ、少女に対する警戒を怠らない。

ヒスイ:ありがとう。とても助かったわ。――ところであなた、名前はなんていうの?

???:うーん、と。そうね……?

 少女、意味深げに微笑んでみせる。ヒスイ、もどかしかったが、腕を組んで少女の返答を待つ。

???:そうね、“ケメコ”なんてどうかしら?

ヒスイ:ケメコ?

ケメコ?:ええ。どうかしら?

 ヒスイ、「どうかしら」などという少女の態度をいぶかしむ。

ケメコ:そう、ケメコ。――いんじゃない? 私は気に入ったけど、ヒスイちゃん、あなたはどうかしら?

 ヒスイ、ケメコの言葉に身構える。

ヒスイ:それ……どういうこと? なんで私の名前を知っているの?

ケメコ:フフフ……それはね、ヒスイちゃんのことをずっと見てきたからよ。

ヒスイ、眉をひそめて:「ずっと見てきた」?

ケメコ:ええ、ずっとね。

 ケメコ、肩をすくめる。

ケメコ:まぁ、有り体に言ってしまえばヒスイちゃんのフアン (追っかけ)ってところかしら? とはいっても、私はフアン第一号じゃないのよね。一・五号ぐらいかしら? 私より、もっとヒスイちゃんのフアンの人がいるから。ホント、ヒスイちゃんてもったいないわよね。向こうの世界であなたを無条件に好きになってくれる人なんていないし――

ヒスイ:待って、まって――

 ヒスイ、ケメコの言葉を制す。

ヒスイ:ねぇ、順番を追って話してくれないかしら。ここは……ここは“竜の島”じゃないの?

ケメコ:ええ、そうよ。まさか気づいていなかったわけじゃないでしょう?

ヒスイ:だとしたら、どうして私はここにいるの?

ケメコ:ヒスイちゃんが殺されたからよ。

 ヒスイ、今までの冒険がすべてまやかしではなかったことに安堵すると同時に、自分が殺されてしまったことに不安を覚える。

ヒスイ、動揺して:じゃあ……何? ここは死者の国とでもいうの?

ケメコ:それはちょっと違うかしら。ここは地Qチキュウという名前の別世界よ。

 “地球”の語を聞き、ヒスイの思考が一段とせわしくなる。ヒスイ、同じ“地球”の言葉をフスの口からも聞いたことを思い出す。

ヒスイ:そうか、ここが、ここが地球なのか……

ケメコ:フスちゃんの言葉を思い出していたんでしょ?

ヒスイ、目を丸くして:どうしてそのことを……?

ケメコ、肩をすくめて:だから、ヒスイちゃんのことをずっと見ていたからよ。

 ケメコ、唇の端をゆがめるようにして微笑む。ヒスイ、その微笑に心をざわつかせる。

ヒスイ:(ダメだ、信用できない)

ケメコ、ヒスイを気にせず:フスちゃんの世界と、ここの世界はちょっと違うわよ。フスちゃんが昔住んでいたのは地球。でもここは地”Q”なの。

ヒスイ、顔をしかめて:……どう違うのか、いまいち分からないわ。

ケメコ:フフフ……すぐに分かるときがくるわ。とにかく、今はこの場を離れましょう。

 ケメコ、壁の隅にうずくまる異形を一瞥する。ヒスイ、つられて視線を移す。異形、完全に黒い蛹に覆われ、不気味な脈動を続けている。

ケメコ:またこいつが目を覚ますのなんてゴメンよ。いつ会ってもグロテスクだし。

ヒスイ:(“いつ会っても”?)

 ヒスイ、ケメコの言葉の裏に隠された意味を探ろうとする。どうやらケメコ、この異形とはなじみがあるらしい。

ケメコ、ヒスイの心を読んだように:あら? ヒスイちゃんだって面識があるはずよ、こいつと。

ヒスイ:私が?

ケメコ:ええ。でも、まぁまだ完全に記憶が戻っているわけじゃないのよね、気にしなくていいと思うわ。異形なんて、掃いて捨てるほどいるものね。

 自分しか知らないはずのことを次々と言い当てるケメコに、不信感を募らせるヒスイ。ケメコ、ヒスイ以上にヒスイの事情を知っている。ヒスイ、元々は人間だったはずの“異形”をけなすような発言をするケメコに嫌悪の感情を抱く。

ヒスイ:(アイツと同じだ)

 ヒスイの脳裏をよぎる、ジスモンダの仮面。

ヒスイ:(やっぱり、信用できない!)

ケメコ、ヒスイを気にせず:まぁいいわ、とりあえず下へ降りましょう。あぁそうだ、忘れてたわ。一つヒスイちゃんに言いたいことがあるのよ。

ヒスイ:私に言いたいこと?

ケメコ:ええ。

 ケメコ、ヒスイの方を振り向き、両手を広げる。

ケメコ、高らかな口調で:ヒスイちゃん、歓迎ようこそ地Qへ!

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