騒々しかった建物に、再び黙が戻ってくる。リリスの放った極炎はなりを潜め、瓦礫の隅にほのめいているだけだった。
リリスの箒から身をひるがえすと、ヒスイは抜け落ちた“底”の中央へ歩み寄った。
「ヒスイ!」
エバとセフ、それにロイが、ヒスイのもとまで駆け寄った。
「大丈夫なの?! ヒスイ?! もう、もう終わったの?!」
「えぇ」
ヒスイは小声で答え、しかし視線を広間の中心へ投げた。
「ただ、もうちょっとかかるわね」
「この建物――」
ヒスイの隣、ロイが周囲をくまなく見回して呟いた。
「こんな風になっていたのか。まるで……下天みたいだな」
その言葉に、ヒスイはやや身を震わせる。ただ、建物自体の構造はロイの言うとおりだった。元からあった建物の上に、上から新しく建物を重ねたような構造。下の建物は、壁や床がだいぶ崩れ落ちているが、まだ建造物としての体裁を保っていた。
「おうい!」
上方から、誰かの声がする。后来院で出会った兵卒が数人、ロイに向かって手を振っていた。
「ロイ、――いや、リリス道士も一緒か、手伝ってくれ! 干からびた泥が門を塞いでてよ」
「クソっ、何だよ良いときに……」
ロイはもどかしげに悪態をついてから、ヒスイに向き直る。
「悪いな、ヒスイ。野暮用だ。先にいなくなるぜ」
「分かった、ロイ。その……ありがとう」
気にすんな、とロイは手で合図すると、瓦礫の脇を縫うように登り始める。
「それじゃ、私もね。ヒスイちゃん、あとは任せたわよー」
相変わらずののんきな調子で、リリスがのたまう。
「はい、リリスさん。ありがとうございます」
「フフフ、気にしないでね――」
リリスは箒に乗り、軽やかに上昇を始めた。
「サイファ」
中央に辿り着いたヒスイは、床に崩れ落ちた銀色の泥に向かって声をかける。「悪いけど、私の勝ちよ。『傷口に塩を塗る』ようなことはしたくないけど、今どんな気分?」
「ハァ、ハァ……」
床を転がる銀色の泥に、サイファは埋もれていた。泥と半ば一体化していたが、それでもサイファの面影は存在した。
サイファの心臓部は、既にヒスイの銃撃で射抜かれていた。それでもサイファが死なないのは、“竜の胚”の生命力によるものだった。
「ハァ、ハハハ! ……それで勝ったつもりかね、ガンスリンガー?」
苦しげに息を吐きながらも、サイファは嘲笑を止めなかった。
「言ったろう? 私は黒幕ではないと。私を苦しめているつもりかね? ガンスリンガー! 貴様は……貴様はその数倍も苦しむことになるぞ」
「もう苦しんだわ」
ヒスイの脳裏に、一瞬だけフ
フス
フフフ、フ
スの笑顔がよ
よみよ
よみ
よみがえった。
「少なくとも、今のあなたぐらいはね。エバは故郷を失って、セフは老師を失ったのよ? これからあなたは命を失うの。どう、立派な対価を払ったことになるじゃない?」
「ウ、フ、フ……ア、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ……!」
サイファの甲高い笑いが、広間全体にこだました。ヒスイに向けて、憎悪と嘲笑が一斉に注がれる。
「笑うな――笑うなよ!」
耐え切れずに、セフがサイファに怒号を発する。それでもなお笑い続けていたサイファだったが、口から血を噴き、咳き込んだ。
「ハァ、ハァ……まぁいい……知らないことは平和だな、竜の娘? ……イスイが……」
“イスイ”――その単語に、ヒスイの顔色が変わる。
「イスイが……どうしたの?」
「ウフフ、フフフ……」
「答えなさい」
「――ヒスイ?」
ヒスイの動揺に気付いたのは、エバだった。“イスイ”の語を聞いた途端、ヒスイから漂ってくる“空気”が急速に凝り固まったようだった。
「逃げ足は速い……よく考えたものだ、『私という親にして、あなたという子供』……覚えておけ、竜の娘……還ってくる……!」
それが、サイファの発した最期の言葉だった。再び口から血を吐き出すと、サイファの瞳が濁った。サイファは息絶えたのだ。
「終わった?」
血溜まりに浮かぶサイファの死体を眺め、エバが呟いた。動乱は、その首謀者の死を以って終結したはず。
そして終わらせたのは勇者の娘・予章緋睡である。エバはそれを確かめたかった。だからヒスイに「終わったか」と訊ねたのだ。
「まだよ」
だが、ヒスイが返した言葉はエバの予想外だった。ヒスイの顔は蒼白で、表情はいつになく険しかった。
「まだ……?」
そんなヒスイの様子を心配して、セフもヒスイの顔を覗き込んだ。
「ヒスイ、どういうこと?」
「何も終わってない……早く会わないと」
(会う?)
エバの頭を、疑問が渦巻き始める。
(会うって、誰と?)
「まだ何も……」
「ねぇ、ヒスイ」
もどかしげに、エバはヒスイに訊ねた。おそらく、ヒスイの頭の中では何もかもが繫がっているのだろう。だがエバにとっては舌足らずな印象しか残らなかった。
「何が終わってないの? それと、誰と会うつもり?」
「それは――」
そ、
それ、
それは、
ま、
まだ、
まだはじまっちゃいない、
まだ、はじまっちゃ、いない。
いない、ない。
いない、いない、ない。
いない、いない、ない。
なぜならそれは、なぜならそれは、なぜなら?
なぜならそれは、なぜなら?
なぜなら、なぜ?
め、めめん、めめん、めめん。
め、めめん、めめん、めめん。
人の死を思え、人の死を思え、人の死を思え。
自らの生を生き、自らの生を生きて、自らの生を生き、
自らの生を生きるのだ。
自らの死を死に、自らの死を死んで、自らの死を死に、
自らの死
を
死ね。
め、めめん、めめん、めめん。
め、めめん、めめん、めめん。
死ぬにはまだ足りないのかい? でも
生きるにしては余っているだろう。
ひ、ひく、ひかり。
ひ、ひく、ひかり。
ひ、ひじゅ、ひじゅ、
ひじゅく、比佳理。
ら、らららら、らららら。
ら、らららら、らららら。
め、めめん、めめん、めめん。
め、めめん、めめん、めめん。
さらば、
さらば勇者
の娘。そして
竜の娘、戻ってこい。
竜の娘、戻ってこい。
エバ、どうしちゃったんだろうね?
セフ、どうしちゃったんだろうね?
私、どどううっしししちゃったんだろう?
め、めめん、めめん、めめん。
め、めめん、めめん、めめん。
いけない、いけない――
いけない。
ヒスイの本能が、
あまりにも巨大すぎる、
自らの死を知った。
……
……
メメント・モリ!
誰かしらの、誰か知らない、何の言葉かも分からない、深い絶叫が、ヒスイの脳内にこだました。それは時の垣間、宇宙の渚、その他諸々であり、逆もまた然り。今この瞬間、今この瞬間こそが、死へと赴こうとする、総てへのダイナミクス。今以外の総ての瞬間こそが、生へと導こうとする、ある一転というパラダイム。
わからない、
わからない。
分からなくたって、いい。
ヒスイは、意識を失った。
エバは見た。
悩ましげな表情をしていたヒスイの瞳が泳ぎ、その頭部が一瞬にして花開くのを。
ヒスイの頭はくしゃくしゃになり、赤いものが弾け、周囲に飛び散った。エバの赤い服に、セフの墨色の服に、ヒスイの頭の中身が飛び散って、染みを作った。
頭を失ったヒスイの胴体は、糸の切れた操り人形のように、両腕をだらしなく開いたまま、衝撃に崩れ落ちる。生あるものが、一瞬にして生を失う瞬間を、エバは改めて目の当たりにした。ヒスイの胸元から縦に、裂け目は広がる。再び飛び散る赤いもの。
ヒスイ“だったもの”から、血はずっと染み出している。
「誰かに狙われている」――そんな考えは、エバにもセフにも浮かばなかった。
震え、叫ぶ声と、すさまじい絶叫が広場に混じってこだまする。一方はセフの声だった。そしてもう一方は自分の喉から発せられているのだと、エバは叫びながら気付いた。
勇者の娘が死んだ。