第61話:memento mori

 騒々しかった建物に、再びしじまが戻ってくる。リリスの放った極炎はなりを潜め、瓦礫の隅にほのめいているだけだった。

 リリスの箒から身をひるがえすと、ヒスイは抜け落ちた“底”の中央へ歩み寄った。

「ヒスイ!」

 エバとセフ、それにロイが、ヒスイのもとまで駆け寄った。

「大丈夫なの?! ヒスイ?! もう、もう終わったの?!」

「えぇ」

 ヒスイは小声で答え、しかし視線を広間の中心へ投げた。

「ただ、もうちょっとかかるわね」

「この建物――」

 ヒスイの隣、ロイが周囲をくまなく見回して呟いた。

「こんな風になっていたのか。まるで……下天みたいだな」

 その言葉に、ヒスイはやや身を震わせる。ただ、建物自体の構造はロイの言うとおりだった。元からあった建物の上に、上から新しく建物を重ねたような構造。下の建物は、壁や床がだいぶ崩れ落ちているが、まだ建造物としての体裁を保っていた。

「おうい!」

 上方から、誰かの声がする。后来院で出会った兵卒が数人、ロイに向かって手を振っていた。

「ロイ、――いや、リリス道士ダオシュも一緒か、手伝ってくれ! 干からびた泥が門を塞いでてよ」

「クソっ、何だよ良いときに……」

 ロイはもどかしげに悪態をついてから、ヒスイに向き直る。

「悪いな、ヒスイ。野暮用だ。先にいなくなるぜ」

「分かった、ロイ。その……ありがとう」

 気にすんな、とロイは手で合図すると、瓦礫の脇を縫うように登り始める。

「それじゃ、私もね。ヒスイちゃん、あとは任せたわよー」

 相変わらずののんきな調子で、リリスがのたまう。

「はい、リリスさん。ありがとうございます」

「フフフ、気にしないでね――」

 リリスは箒に乗り、軽やかに上昇を始めた。


「サイファ」

 中央に辿り着いたヒスイは、床に崩れ落ちた銀色の泥に向かって声をかける。「悪いけど、私の勝ちよ。『傷口に塩を塗る』ようなことはしたくないけど、今どんな気分?」

「ハァ、ハァ……」

 床を転がる銀色の泥に、サイファは埋もれていた。泥と半ば一体化していたが、それでもサイファの面影は存在した。

 サイファの心臓部は、既にヒスイの銃撃で射抜かれていた。それでもサイファが死なないのは、“竜の胚”の生命力によるものだった。

「ハァ、ハハハ! ……それで勝ったつもりかね、ガンスリンガー?」

 苦しげに息を吐きながらも、サイファは嘲笑を止めなかった。

「言ったろう? 私は黒幕ではないと。私を苦しめているつもりかね? ガンスリンガー! 貴様は……貴様はその数倍も苦しむことになるぞ」

「もう苦しんだわ」

 ヒスイの脳裏に、一瞬だけフ

 フス

 フフフ、フ

 スの笑顔がよ

 よみよ

 よみ

 よみがえった。

「少なくとも、今のあなたぐらいはね。エバは故郷を失って、セフは老師ラォシを失ったのよ? これからあなたは命を失うの。どう、立派な対価を払ったことになるじゃない?」

「ウ、フ、フ……ア、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ……!」

 サイファの甲高い笑いが、広間全体にこだました。ヒスイに向けて、憎悪と嘲笑が一斉に注がれる。

「笑うな――笑うなよ!」

 耐え切れずに、セフがサイファに怒号を発する。それでもなお笑い続けていたサイファだったが、口から血を噴き、咳き込んだ。

「ハァ、ハァ……まぁいい……知らないことは平和だな、竜の娘? ……イスイが……」

 “イスイ”――その単語に、ヒスイの顔色が変わる。

「イスイが……どうしたの?」

「ウフフ、フフフ……」

「答えなさい」

「――ヒスイ?」

 ヒスイの動揺に気付いたのは、エバだった。“イスイ”の語を聞いた途端、ヒスイから漂ってくる“空気”が急速に凝り固まったようだった。

「逃げ足は速い……よく考えたものだ、『私という親にして、あなたという子供』……覚えておけ、竜の娘……還ってくる……!」

 それが、サイファの発した最期の言葉だった。再び口から血を吐き出すと、サイファの瞳が濁った。サイファは息絶えたのだ。


「終わった?」

 血溜まりに浮かぶサイファの死体を眺め、エバが呟いた。動乱は、その首謀者の死を以って終結したはず。

 そして終わらせたのは勇者の娘・予章緋睡ヨショウヒスイである。エバはそれを確かめたかった。だからヒスイに「終わったか」と訊ねたのだ。

「まだよ」

 だが、ヒスイが返した言葉はエバの予想外だった。ヒスイの顔は蒼白で、表情はいつになく険しかった。

「まだ……?」

 そんなヒスイの様子を心配して、セフもヒスイの顔を覗き込んだ。

「ヒスイ、どういうこと?」

「何も終わってない……早く会わないと」

(会う?)

 エバの頭を、疑問が渦巻き始める。

(会うって、誰と?)

「まだ何も……」

「ねぇ、ヒスイ」

 もどかしげに、エバはヒスイに訊ねた。おそらく、ヒスイの頭の中では何もかもが繫がっているのだろう。だがエバにとっては舌足らずな印象しか残らなかった。

「何が終わってないの? それと、誰と会うつもり?」

「それは――」

 そ、

 それ、

 それは、

 ま、

 まだ、

 まだはじまっちゃいない、

 まだ、はじまっちゃ、いない。

 いない、ない。

 いない、いない、ない。

 いない、いない、ない。

 なぜならそれは、なぜならそれは、なぜなら?

 なぜならそれは、なぜなら?

 なぜなら、なぜ?

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 人の死を思え、人の死を思え、人の死を思え。

 自らの生を生き、自らの生を生きて、自らの生を生き、

 自らの生を生きるのだ。

 自らの死を死に、自らの死を死んで、自らの死を死に、

 自らの死

 を

 死ね。

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 死ぬにはまだ足りないのかい? でも

 生きるにしては余っているだろう。

 ひ、ひく、ひかり。

 ひ、ひく、ひかり。

 ひ、ひじゅ、ひじゅ、

 ひじゅく、比佳理ひかり

 ら、らららら、らららら。

 ら、らららら、らららら。

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 さらば、

 さらば勇者

 の娘。そして

 竜の娘、戻ってこい。

 竜の娘、戻ってこい。

 エバ、どうしちゃったんだろうね?

 セフ、どうしちゃったんだろうね?

 私、どどううっしししちゃったんだろう?

 め、めめん、めめん、めめん。

 め、めめん、めめん、めめん。

 いけない、いけない――

 いけない。

 ヒスイの本能が、

 あまりにも巨大すぎる、

 自らの死を知った。

……

……

 メメント・モリ!

 誰かしらの、誰か知らない、何の言葉かも分からない、深い絶叫が、ヒスイの脳内にこだました。それは時の垣間、宇宙の渚、その他諸々であり、逆もまた然りヴァイス・ヴァアサ。今この瞬間、今この瞬間こそが、死へと赴こうとする、総てへのダイナミクス。今以外の総ての瞬間こそが、生へと導こうとする、ある一転というパラダイム。

 わからない、

 わからない。

 分からなくたって、いい。

 ヒスイは、意識を失った。


 エバは見た。

 悩ましげな表情をしていたヒスイの瞳が泳ぎ、その頭部が一瞬にして花開くのを。

 ヒスイの頭はくしゃくしゃになり、赤いものが弾け、周囲に飛び散った。エバの赤い服に、セフの墨色の服に、ヒスイの頭の中身が飛び散って、染みを作った。

 頭を失ったヒスイの胴体は、糸の切れた操り人形のように、両腕をだらしなく開いたまま、衝撃に崩れ落ちる。生あるものが、一瞬にして生を失う瞬間を、エバは改めて目の当たりにした。ヒスイの胸元から縦に、裂け目は広がる。再び飛び散る赤いもの。

 ヒスイ“だったもの”から、血はずっと染み出している。

 「誰かに狙われている」――そんな考えは、エバにもセフにも浮かばなかった。

 震え、叫ぶ声と、すさまじい絶叫が広場に混じってこだまする。一方はセフの声だった。そしてもう一方は自分の喉から発せられているのだと、エバは叫びながら気付いた。

 勇者の娘が死んだ。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『竜の娘は生きている』に戻る

▶ 連載小説一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする