躊躇うことなく、ヒスイは引き金を引いた。手袋グローブごしに、銃撃の手ごたえが伝わってくる。見えることのない銃弾、しかしヒスイは、それが“竜の巣”の巨大な目玉へ吸い込まれてゆくことを確信する。
黒い目玉に光る、黄金の瞳孔が形をゆがめた。確かに的中したのだ。
――イ、イ、イ、イ、イ！
聞きなれた怪物の叫び声を、“竜の巣”も発した。まぶたのない目玉は閉じられることがない。しかし、ヒスイにそそがれていた邪悪な視線が、確かに反れる。
「向こう――！」
ヒスイの隣で、セフが声をあげる。“竜の巣”を構成している一本一本の触手がわななき、震える。その隙間から飛び出した一本の触手が、ヒスイ目がけて跳びかかる。
「――はっ！」
ヒスイの放つ銃撃と、それにやや遅れて続くエバの掛け声。掛け声から一刻遅れ、触手を魔力が侵す。触手の口が音を立てて裂け、内側が完全に捲れ上がる。まるで、見えない刃に口から切り裂かれたかのようだった。
「どう？ いいんじゃない、なかなか――」
頬を上気させつつも、エバが軽口を叩いた。
――マダダ！
再び、サイファの声がどよめいた。床一面を覆い、硬質化していた銀の泥が、小波を立て、動き始める。
「何よ、うっ――？！」
「ちょっと、ヒスイ？！」
銀色の泥が意思を持ったかのように、ヒスイの足を絡め取る。ヒスイが振りほどこうとする前に、銀色の泥はヒスイを引きずり、動かし始めた。エバとセフ、二人から引き離そうとしているのだ。
「ヒスイ！」
セフが伸ばした腕を、とっさにヒスイが掴む。だが、それも無駄な抵抗だった。セフもろとも泥に絡め取られ、ヒスイとセフは“竜の巣”の根元まで引き寄せられる。
「くそっ、近いな――」
セフが悪態をつき、壁面にそびえる“竜の巣”を見据える。距離を置こうとしたヒスイも、しなる無数の触手を前にして、サイファと正面から対決することを覚悟する。
「エバ！ そこから援護して！」
薄暗がりの中、エバが手を振ってヒスイに応える。
「やるしかないわね、セフ。覚悟はできた？」
ヒスイは銃を掲げてセフに問うた。心なしか嬉しそうなヒスイの様子に、セフも状況を忘れてはにかんだ。
「――やってやる！」
氷霜剣を逆手に握り、セフも構えなおす。
床を這う泥があぶくをたて、所々で盛り上がり始める。盛り上がった泥は形を整え、サイファの似姿を形づくる。サイファの似姿は敏捷な動きで、足を取られたままのヒスイに肉薄する。
「任せて――！」
足を取られていないセフが、似姿の懐に入りこんでは氷霜剣を突き立てる。流れるような剣捌きで、似姿達は次々と狩られてゆく。剣の切れ味もさることながら、セフ自身の力量もなかなかのものだった。乳醤を針で刺すように、似姿たちは簡単に切り取られていく。
“竜の巣”本体は触手をくねらせ、ヒスイのことを食い千切ろうと隙をうかがっていた。だがそれを、ヒスイ自身の銃撃と、エバの発する稲妻が許さない。銃撃は即座に触手の口へ叩き込まれ、牙を、舌をもぐ。ヒスイが討ち洩らした触手は、エバの稲妻に全身を貫かれ、水ぶくれを弾けさせる。
恐怖も、疲れも、何一つ感じない。三人が三人の無事を、本心から信じていた。ヒスイは自らの無心を知り、エバはヒスイの無心を悟り、セフもまたヒスイの無心を感じた。
「どうしたの？」
最後の一匹にとどめの一撃を放つと、ヒスイは再度“竜の巣”を睨んだ。「もうこれで終わりかしら？」
“竜の巣”から声はしない。巨大な瞳が怒りの炎をたぎらせているだけだった。
（ならばこちらの番）
身体をよじり、ヒスイは引き金を引いた。銃声は鋭く、しかしどこまでも軽やかに、異形に満ちた広間を駆ける。
――イ、イ、イ、イ、イ！
再び、“竜の巣”が絶叫した。だがその声は先ほどまでと違う、痛切な響きを帯びていた。
「見て！」
セフが声を発し、眼球の頂点を指差す。その途端、湿った音とともに、眼球が縦に裂けた。ありもしない光景に、三人は息を呑む。
鳳仙花の房のように、“竜の巣”の眼球が“花開いた”。
その中央には、サイファがいる。銀色の泥と足が完全に繫がっているが、サイファがこの“竜の巣”の心臓と化しているのは明らかだった。
「あそこか！」
再度銃を掲げようとするヒスイを、サイファの視線が捉える。瞬間、割れるような地鳴りとともに、再び銀の泥がうごめき始める。サイファを狙い澄ましたヒスイの銃撃は、サイファの脇をわずかに逸れる。
“竜の巣”を覆っていた触手が、一斉に解き放たれる。銀の泥は渦を巻き、まだらな光沢を帯びながら泡を立てはじめる。
「ヒスイ、まずい……！」
セフの言うとおりだった。だが足をとられている以上、ヒスイにはなす術がない。銃を握るグローブの裏側が、手の汗で湿る。
床の周縁部から、乾いた音がこだます。壁を覆う銀色の泥が、外側からの衝撃で跳ねた。
“竜の巣”が何をするのか――。その意図をヒスイは了解した。
「セフ、逃げ――」
ヒスイは、最後まで言い切ることが出来ない。ヒスイが言葉を発したタイミングと、床がくり抜かれたタイミングはほぼ同時だった。足を取られたままのヒスイだけが、周囲から取り残される。驚愕に見開かれたセフの瞳と、ヒスイの視線が交錯する。今度はヒスイが手を差し伸べる。その指先はわずかに届かない。エバの悲鳴が遠くから漏れた。
二、三階分の高さまで、床は落下したらしい。銀色の泥は本来の床の残骸や土砂と混じり、まだら模様になる。エバとセフは無事だろうか？ ヒスイの心臓が高鳴った。
――サァ、オ前ダケダナ。
周囲から、サイファの声が沸き起こる。語尾は不協和音のように積み重なり、空虚になった広間を埋め尽くした。ヒスイの足場は、硬質化した銀色のか細い泥だけ。サイファがその気になれば、いつだってヒスイを叩きつけることが可能だ。
――弔辞デモ述ベテヤロウカ？
“竜の巣”の触手が、嬉しそうに身をくねらせている。ヒスイを正面に固定し、今度こそ殺すつもりなのだ。
周囲を渦巻く触手に、全神経を集中させる。ヒスイの速射と触手の一閃、いずれが速いかの勝負だ。
負ける気などさらさらない。
銃の引き金に、ヒスイの指がかかる。
――終ワリダ！
荒ぶるサイファの声が、広間に響き渡った。
そのとき、
「裁！」
よく通る男性の声が、触手のうなりを掻き消した。触手がヒスイを絡めとり、握りつぶすより前に、ヒスイの脚が解き放たれ、自由になる。ヒスイの頭上を、間一髪で触手が空振る。即座にヒスイは銃を構える。だが既に、サイファは極太の触手で壁を作っていた。
落ちる――この言葉が意識に上る前に、ヒスイの身体は反応していた。身をよじり、落下の衝撃を最小限に和らげようとして――、
ヒスイは見た、
極熱の炎にたぎる、奈落を。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
め、めめん、めめん。
ヒスイの頭が事態を呑みこむ前に、体が突如として落下をやめた。叩きつけられたわけでもなく、ごく自然に、誰かの腕の中へと抱きかかえられる。
「おまたせー」
この場に似つかわしくない悠長な声を、抱きかかえた当人が発する。リリスだ。金属製のいかめしい箒を足で操りつつ、落下していたヒスイを捕らえたのだ。
「リリスさん――？！」
目を白黒とさせながらも、ヒスイは間近に起きていることを即座に了解した。リリスが操る箒の後ろから、強烈な炎が渦を巻いている。リリスの、すさまじい魔法に違いなかった。烈火に舐められ、銀色の泥や触手は黒ずみ、瘡蓋のように縮れあがっている。
「エバは？！」
「向こうよ」
リリスが顎で示す先、エバとセフが安全地帯にいた。疲労困憊と言った有様だったが、それでも強い視線がヒスイにそそがれている。
その脇には、ロイがいる。ヒスイの足場を射抜いたのも、ロイの矢なのだ。
この場に居ないが、きっとイェンは竜の胴体を始末することに成功したのだろう。
「ヒスイちゃん、行くわよ――」
リリスが声をかけた。
行き先は決まっている。炎は赤く、白く渦を描きながら、ヒスイを乗せた箒を支援する。手を伸ばせば届きそうなほど近いのに、炎からは熱気がまったく感じられない。
急激な上昇をともない、ヒスイは“竜の巣”に肉薄する。炎に巻かれ、触手たちはかつてないほど暴れ、のたうっていた。
熱にうめきながらも、サイファがヒスイを見つめる。
憎悪にたぎる瞳。ヒスイは銃を構えた。
サイファ、お前は終わりだ。
「さらば！」
銃声。