「ハァ、ハァ――」
荒い息を何とか鎮めると、ガラガラ音の怪物の喉から、ロイは矢を引き抜く。
列柱廊において、立っているのはロイだけだった。
「ウ、ァ、ァ、っ!」
ロイは伸びをすると、吐息を噛み潰し、額の傷口を手拭で押さえる。白い手拭が血を吸い、赤くほころんだ。
取り落としてしまった弓をつま先で蹴り上げ、ロイは器用に掴み取る。
休んでいる暇はない。とにかく今は、先に進んだ三人に加勢しないといけない。
ロイの耳に、湿った音が届く。
「え……あれ?」
そちらの方角へ目をやれば、鬼のお面が転がっていた。
いや、違う。確かに角こそ生えているが、顔全体が鱗に覆われているし、何より血生臭い。まぎれもなく竜の生首だった。
(ということは――)
イェン国従が、どうやら竜を“殺った”らしい。
「ロイ!」
列柱廊の入り口から、女のよく通る声がした。イェン当人の声である。
「ロイ、ロイじゃな! ヒスイはどこにおるのじゃ!」
「先に行かせたぜ」
「なんじゃと?!」
駆け足の一跳びで、ロイのすぐ側までイェンはやってくる。着地の際の衝撃で、小豆色をした床に亀裂が走った。
「ロイ、何ゆえおぬし、そこで油を売っておる?!」
「遊んでいる」呼ばわりされたことは、ロイにとって不服だった。鼻を鳴らしつつも、イェンへ上手く切り返そうと言葉を探す。
「それがな――」
だがイェンの鼻を明かす前に、列柱廊全体がどよめいた。
「今度はなんじゃ?!」
イェンが悪態をつき終わる前に、列柱廊の天井から銀色の泥が溢れてきた。
泥の動きは緩慢だったが、動き方は不可解だった。まるで泥のものが意識を持って転日宮全体を侵そうとしているかのようだった。
ロイの背後で、扉が音を立てて開く。押し寄せる泥を覚悟して構えたロイだったが、飛び出してきたのは三人の少女だった。
「ヒスイ!」
中央にいる青い瞳の少女に、ロイが声を掛ける。無事戻ってきた三人に、イェンも目を輝かせる。
「おおっ……うぷっ?!」
イェンが三人をねぎらう前に、ヒスイが飛び出してイェンに抱きついた。両足をイェンの腰に回し、まるでしがみついているかのような体勢だった。むろんこの程度でイェンはたじろがない。
「やっ、ちょっと、ヒスイ?!」
だが金色の瞳をせわしなくさせ、エバはヒスイに黄色い声をあげた。
顔を近づけ、ヒスイはイェンに口付けをしていたのだ。
「――ぷはぁっ」
満足げに息を吐くと、ようやくヒスイは唇をイェンから離した。
「ただいま、イェンさん」
「あぁ――ヒスイ?」
抱きついたまま無邪気に笑う“生徒”を、“傅育掛”は呆然とした表情で見つめた。
「まさか、ヒスイ――もしや――?!」
「えぇ、戻ってきたわ」
「……なぁ、セフ」
やり取りを眺めていたロイは、事態がよく分からず、屈んでセフに尋ねた。
「何がどうなっているんだ?」
「その、ごめん、話すと長くなるから――」
セフは困りきった表情で、天井を見上げている。
「いや、それよりもサイファじゃ!」
頭を激しく横に振ると、いっこうに自分から離れようとしないヒスイにイェンは口を開く。
「あやつはいったい――」
「イェンさん、そのまま!」
イェンの背中に手を回したまま、ヒスイは左手で銃を掴み、即座にイェンの後方へ向かい引き金を引いた。銀色の泥に被われた竜の生首に、銃撃が炸裂する。
その瞬間、列柱廊に竜の絶叫が響き渡った。
「何っ?!」
浮き足立ったエバが声をあげる。その間にもヒスイの銃撃は止まない。生首に張り付いた竜の鱗が乱れ飛び、頭蓋の形が銃撃で歪む。
顎が完全にちぎれとび、今度こそ断末魔が途絶えた。
「イェンさん、リリスさんはどこにいる?」
ようやくイェンの身体を離れると、ヒスイは灰色の泥に沈み込みかけた竜の肉片を踏み潰した。
「リリスなら広間におる!」
泥の流れに目をやりながら、イェンが答えた。
「それより、今のは――」
「この泥は“竜の胚”よ」
靴で泥を掻き分けながら、ヒスイが答える。
「僧正を異形にしてしまった元凶。この様子だと、死んでしまった生き物にも効くようね」
その言葉に、イェンも事態の深刻さに気づく。
「外にある竜の胴体……」
「そうよ。あれにこの泥が触れたらまずい。それこそ無限に、泥が尽きるまで竜と戦うことになる」
床に視線を落としていたヒスイが、唐突に銃を構えなおした。
ヒスイが照準を向けた先、泥が盛り上がり、サイファの似姿を形づくろうとする。ヒスイは冷静に銃撃を叩き込み、サイファの似姿を泥に還かえす。
「私はサイファの本体を叩く。イェンさんとロイは、竜の胴体を何とかして処分して」
「一人で何とかするつもりかよ?」
「一人じゃない。エバと、セフと、私」
ロイの背後で、セフが息を呑んだ。エバも真剣に、ヒスイの視線を追う。
「もちろん、イェンさんも、ロイもね?」
「ヒスイ、何か作戦はあるのかの?」
指を鳴らしながら、イェンが訊ねる。
「ええ、あるわ――」
落ち着いた口調で、ヒスイが答える。
「サイファを消したら、種明かしは全部してみせる。それまでは――」
――アァ、ア、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ……
列柱廊の天井から、サイファのだみ声が大音量でこだました。天井を包みつつある銀色の泥が形を帯び、無数の口を形成する。すべての口が、笑みに歪んでいた。
「くそっ、サイファめ……」
「国従、時間がないぜ」
ロイがせきたてる合間にも、銀色の泥がガラガラ音の怪物たちを呑みこむ。遺骸だったはずの怪物が一匹、やにわに起き上がった。
「ええい、わかっとるわ」
すかさず、イェンが拳を叩き込んだ。怪物は泥を散らし、一本の列柱を巻き添えにしながら吹っ飛び、潰れる。
「イェンさん、じゃあ私たち、行くね――」
「死ぬでないぞ、ヒスイ!」
駆け出す三人の後ろで、イェンの声が響いた。その脇から、銀色の泥を享けた怪物の死骸たちが、音もなく立ち上がり始めている。
「ヒスイ――」
ヒスイを先頭にして、三人はもと来た道を舞い戻る。はなからヒスイは、イェンやロイの無事を確かめることが目的だったらしい。
「本当にもう大丈夫なの? 信じて、いいんだよね?」
「えぇ、もちろん――」
サイファの似姿が泥の中から浮上し、三人の行く手を塞ぐ。ヒスイは似姿の口の部分へ銃口を突っ込むと、引き金を引いた。豪快な一撃である。こだました銃声とともに、泥でできた似姿は内側から弾け飛んで消滅する。
「完全ではないけれど、ね?」
(記憶を失う前の一日――)
無邪気に微笑むヒスイを尻目に、エバは自らの記憶を反芻していた。
(なら、大丈夫。まだ、なにもバレてない)
エバが隠し続けている秘密。それは今のヒスイも気付いていないようだった。
「ヒスイ、こんなに進んで大丈夫なの?」
颯爽と駆け出した三人だったが、床を埋め尽くしつつある泥に、いつしか足を取られまいと必死だった。
「それに、何かすごい硬いんだけど――」
セフの言うとおり、奥へ進むにつれ泥は固くなってゆく。まるで、粘土が水気を失っているかのようだった。
「硬いほうがいいわ。銃で砕けやすいし」
サイファと出会う前の地点に、ヒスイたちは到達した。“最後の扉”は泥に覆われ、凝結してしまっている。
「エバ、いけそう?」
扉に触れたヒスイが、エバを振り向いて訊ねる。
「――やってみる!」
エバは扉に手を触れると、再びチョークを取り出して魔法陣を描き始めた。窓が泥に覆われ、周囲は次第に暗くなってゆく。
「ねぇ、ヒスイ、一つだけ教えてくれないかな?」
「何、セフ?」
「さっき言ってた、『種明かし』ってこと……」
セフの問いに、ヒスイは唇を噛み締め、すぐには答えようとしなかった。扉に二色の法陣を描いていたエバも、ヒスイの沈黙に不安を掻きたてられる。
「あの、ゴメン、ヒスイ。答えるのがアレだったら、無理に訊かないけど」
「一人いるの」
たじろぐセフに対して、ようやくヒスイは答えた。
「サイファを叩いたら、ある一人にいろいろ訊かなきゃいけないの――それこそ、たくさんのことを」
「訊くって――何を?」
「分からない。もしかしたら勢いあまって殺しちゃうかも。もしそんな気配があったらね、セフ、私のことを止めてくれない?」
「う……ん、分かった」
おどけるヒスイに生返事を返したセフだった。けれどいつになく、ヒスイの声が殺気立っているようにセフには聞こえた。
「その“一人”とは誰なのか?」
セフにはとても気になったが、そう尋ねる勇気はなかった。
「まぁ、まだ私の憶測だけどね?」
「――できた!」
セフが言葉を継ぐ前に、エバが声を発した。振り向いてみれば、硬くなった泥に左右非対称の文様が描かれている。
「開けるね――」
エバは一息つくと、肩の力を抜く。気持ちを静め、そっと文様に両手を添えた。エバは魔力を解き放ち、扉へと、法陣へと魔力を注ぎ込む。
背中から針金を差し込まれたような鋭い倦怠感がエバを襲う。エバが魔法を使うといつもこうなるのだ。
それでも、エバは諦めない。
扉全体が、銅鑼のような低い音をたてる。音は途切れることなくこだまし続け、振動で硬くなった泥が剥がれ落ちてゆく。
「まだまだ!」
添えた手のひらに、力がこもる。音は大きくなり、ついに耳をふさいでも聞こえてくるくらいけたたましくなる。
音が最高潮に達したそのとき、文様から火花がはぜ、亀裂が扉を割った。
「できたわ……」
扉から離れ、エバは肩で息をする。額から、玉のような汗が滴っている。
「ゴメンね、エバ。……ありがとう」
しぼり出すような声でエバをねぎらうと、ヒスイは距離を取り、強烈な回し蹴りを扉へ喰らわせる。脆くなった扉は、それこそ卵の殻のように弾けた。
扉の向こう。
「ヒスイ!」
セフが叫ぶ。扉を開けたまさにその瞬間、ヒスイ目がけて極太の触手が迫ってくる。触手の先端は二本に分かれ、隙間から尖った細かい歯が垣間見られる。
だがヒスイはひるまない。体重を支えていた左脚を軸に、ヒスイは屈みこんで後ろ側を向く。関節の軟らかさと際立った平衡感覚のなせるわざだった。左手にはもう、銃が構えられている。
銃口から発せられる火炎。続けざまに起こる銃声。牙を剥いた触手に銃撃が炸裂し、無数の孔が開く。この間はわずか数刻。それでもセフが聞いた銃撃の音は、確実に指で数えられる限界を超えていた。
蛍光色の血で全身を染めながら、目のない、歯だけの触手が苦しげに息を吐いた。はるか後方で、肉の噛み千切られる音がする。触手のうめきが、突如として断末魔に変わる。
「何、あれ……?」
おぞましげな表情をして、エバが目を細める。
視線の先、広間の中央では、灰色の太い触手がひしめいていた。触手どうしは複雑に絡み合って、あたかも全体が一つの鳥の巣を形成しているようだった。
“竜の巣”――そんな言葉が三人の頭をよぎる。絡み合った触手の中央から、巨大な目玉が浮かび上がる。間違うことなどない、サイファの黒い目だった。
――ヨク戻ッテ来タ。
暗くなった広間全体が、サイファの声にどよめく。絡み合った触手たちが、嬉しそうに身をよじらせる。触手と触手の隙間から、蛇のようなものが飛び出してきた。目のない、牙だけの触手――ヒスイを襲ったのと同種だった。イソギンチャクのように、“竜の巣”から生えているのだ。
「えぇ、当たり前でしょ?」
ヒスイは決然と言い放ち、黒い眼球に銃を構える。
「死んでもらいたいのよ、あなたに」