螺旋階段を登りつめた先に、扉があった。
この奥が、玉座の間である。
「最後の扉」
ヒスイはふと、そう考えた。
もしかしたらこの扉は、自分にとって最後の扉になるかもしれない。
「ヒスイ」
エバがヒスイに呼び掛ける。逡巡しかけていたヒスイを奮い立たせる、強い眼差しがエバにはあった。
「分かってる。――三人で!」
扉に手をかけ、ヒスイはそれを押す。
決めた覚悟に比して、扉は軽く、あっけなく開いた。
暗く、広い室内が眼前に広がる。ヒスイたちの影が、真っ直ぐ深奥までたなびく。血なまぐさい臭いを覚悟したヒスイだったが、部屋からは何の臭いもしなかった。
そしてここの床だけは、なぜかくすんだ黄土色をしていて、小豆色ではなかった。
「あそこ!」
セフが小声で、しかしはっきりと指をさす。部屋の深奥、少し高くなった箇所で、サイファが椅子に座って息をついている。その脇にいる従者は、ヒスイたちに背中を向けていた。
サイファの後ろ、突き当りの壁伝いには、銀色の泥がビロウドのように垂れ下がっていた。
ヒスイは銃を構えようとする。しかしそのとき、明確な殺意を脇から感じとった。すぐさま身をよじると、ヒスイはそこへ照準を合わせる。
壁にこびりついていた銀色の泥が、突如として形を帯び、触手に変形していた。
触手は“鎌首”をもたげると、ヒスイへと肉薄する。
銃声! 触手の先端が弾けとび、花びらのように散華する。勢いを失った銀色の触手は、精気を失い、萎れた。
「ヒスイ、向こう!」
エバが叫んだ。サイファが三人に気づき、自らの従者へ指図する。
従者がヒスイたちを振り向いた。フードの奥に潜む目が光る。ローブから爪をはみ出させ、従者は咆哮を発した。
従者を狙い撃ち、一発。銃撃が届くよりも速く、従者が動き出す。残像を残すほどの速度で、従者は身をひるがえした。ヒスイの銃撃はことごとく虚空に散る。動くたび、空気は震え、従者の足下から小刻みな爆発が起きる。
従者の右脚がヒスイの左腕にかかる。銃はヒスイの手を離れ、衝撃に負けヒスイは転ぶ。氷霜剣を穿とうとしたセフも、振り向いた従者の右腕に弾かれ、エバに激突する。
無防備になったエバとセフに、従者が狙いを定める。ヒスイの側に銃が転がった。
とっさにヒスイは、自らの銃を従者めがけて蹴りあげる。音に気付き、従者は銃を掴もうとする。
ずば抜けた反射神経だったが、それが従者にとって裏目に出る。瞬間、強烈な稲妻が銃から解き放たれた。まばゆい光と、鼓膜を震わすほどの破砕音が室内を席巻する。
稲妻を喰らった従者は後方まで弾き飛ばされ、床に叩きつけられる。ローブの裾からは黒い煙が吹き出ていた。
左腕を伸ばし、宙を舞っていた銃を掴む。ヒスイの視界には、既にサイファが捉えられていた。
あと少し――。
そのとき、サイファが指を鳴らした。
「うっ?!」
乾いた音に、ヒスイが目をむく。
「うわあ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、っ?!」
ヒスイの喉から、かつてない悲痛な叫び声が上がった。バランスを崩し、ヒスイは後ろへ仰け反る。見えない何かに突き飛ばされたかのように、ヒスイはそのまま床へ転がりこんだ。
「ヒスイ?!」
ただならぬヒスイの様子に、エバもヒスイにとりすがる。頭を抱えたまま、ヒスイはもだえていた。
エバはすぐに、ヒスイの全身を見回す。が、外傷のようなものはない。
「ヒスイ?! くそっ、サイファ、何をしたんだ?!」
セフの声が、広い室内にこだました。
「ハァ――何もしちゃあいないさ」
サイファが椅子から立ち上がる。やや苦しそうだったが、サイファの声色は普通に戻っている。
「どうしても知りたいのなら、本人に直接訊けばいいだろう? もっとも、その様子じゃあしばらくは難しそうだがね。すこし予想外だ。そこまできつく反応するとは思わなかった」
「うっ……あ……ぁ」
苦しげにヒスイはうめく。エバは必死に、ヒスイの体を抱き起こそうとした。しかしそのたびに、ヒスイはエバの腕を離れ、床をのたうった。うつぶせになると、ヒスイは銃に覆いかぶさる。
「ヒスイ?! お願い、しっかりして!」
エバの頭の中が真っ白になる。心臓が飛び出してしまいそうだった。何をすればいいのか分からない。すかさずタクトを握り締めるが、ヒスイを庇いながらどうすればいいのだろう? どうすればいい? ヒスイだったら何をする? ――エバはヒスイの顔を覗き込んだ。
ヒスイは――笑っている?
「賢しらな娘だ、まったく。こちらも苦しい思いをした」
立ち上がった従者を見て、サイファがほくそ笑む。動けずにいる三人を見て、従者は勝ち誇ったように雄叫びを上げた。
「だがもう終わりだ。――殺れ!」
「くそっ!」
怒りに震える声で、セフが吐き捨てる。
(ダメだ)
来るべき運命を覚悟して、エバは目をつぶる。
(イェンさん、ごめん!)
……
……
まぶたの裏の暗がりの中で、銃声が響き渡った。
かつてなくけたたましい銃声が、エバのすぐ脇から吹き上がっている。
……
……
エバの鼻孔を紫煙がくすぐった。目頭から涙がこぼれそうになる。
殺されると思っていたエバは、謎の沈黙を気にして目を開ける。
三人とサイファの、ちょうど中間――従者が膝をつき、肩で息をしていた。眼窩と、喉の辺りから、黄色い血を滴らせている。立ち上がることもできず、従者はよろめき、無様に尻餅をついた。
銃が紫煙を噴き上げている。倒れる標的を、ヒスイの青い瞳が見据えている。うずくまり、脚を投げ出した、かなり無理な体勢のはずだ。
それにもかかわらず、ヒスイの銃撃は正確無比に炸裂した。
「ヒスイ……?」
でんぐり返すようにして、ヒスイは器用に立ち上がる。手を使わずに、膝と腰の柔らかさだけでバランスをとったのだ。銃を握る左腕は突き出したまま、けっしてサイファから照準を放すことはない。
「……目覚めはどうかね、竜の娘?」
険しい表情で、皮肉げにサイファが訊いた。
「清々しい朝よ、サイファ」
済ました口調で、ヒスイが口を開く。
「早上好……記憶が戻るって素敵ね。あなたにも味わってほしいぐらい」
……
……
「ヒスイ、ヒスイ、うそ……」
……
……
「もしかして、戻ってきたの?」
「えぇ、エバ」
ヒスイはエバを振り向いて、無邪気に微笑んだ。
「ただいま」
その言葉、その仕草、そのほほえみ。
すべてがかつての“ヒスイ”だった。
「うわぁっ……?!」
張りつめたものが途切れ、セフが隣で尻餅をつく。氷霜剣が床に落ち、硬く澄んだ音を立てた。
勇者の娘は生きている。
――……
「さぁ、サイファ。残りの記憶も返して」
わざとらしく、サイファが眉をひそめた。
「君に返した記憶はそれで全部だ」
「喫嘘 (ウソね)」
サイファの言葉を、ヒスイは一蹴する。
「私が記憶を失う前の一日が、全く思い出せないわ」
「それはマァ、不思議なことがあるものだ」
「とぼけるのも大概にしなさい。力ずくで奪うわよ」
強い語気、それでいて漂然とした物腰。
(ヒスイだ)
エバの知る、何よりもはっきりした証拠だ。
「“とぼける”?! この私が?! ハッ! ――」
そんなヒスイの態度が、サイファの癇に触ったらしい。
「たった一日分だけの記憶を、私が大事に取っておく理由は何だね、竜の娘?! それは無駄な勘繰りというものだ。君らしくもない!」
「それもそうね……?」
ヒスイの左腕が、別の生き物のように素早く動く。
視界の隅に動くものを、ヒスイが見つけたのだ。
標的は先ほどの従者だった。銃撃は容赦なく、素早く、豪快だった。竜の火炎放射もかくやというほどの勢いで、空間が明滅し、空気が震える。
ヒスイの銃撃は的確で、かつ速かった。エバとセフの目からは、もうほとんどヒスイの指の動きがわからない。とてつもない連射だったが、狙いはみな異なっている。喉、眼窩、股関節――鍛えようのない箇所に銃撃が炸裂し、肉をもぎ取る。
今までにないほど吹き上がった紫煙に、ヒスイの全身が飲み込まれる。煙がはれた頃、従者は崩れ落ち、しかばねと化していた。
「でも、あなたらしくもない返答ね、サイファ? 私が持っていない、あなたも持っていない記憶を、一体誰が持っていると言うのかしら?」
サイファが不愉快そうに鼻を鳴らした。その鼻息で、ガラスの内側が少しだけ曇る。
「私がこの事件の黒幕でないことぐらい、君にも解るはずだ」
エバとセフは、お互いに顔を見合わせる。
「サイファ、それってどういう――?」
口を開きかけたセフを、ヒスイが右手で制した。
「それが分かったから……何なのかしら? おいしいお米でも炊けるわけ?」
「君も私も踊らされているというわけさ」
うそぶくヒスイににニコリともせず、サイファが淡々と話を続ける。
「少なくとも、黒幕は私を踊らせている気になっているわけだ。だがもう踊る役にも飽きた。本来ならば君も、その黒幕もとっくに死んでいるはずだったのだが。マァ、偶然はどうしても厄介ごとをもたらすもののようだ」
ヒスイに背を向けると、サイファが腕を広げる。
「どうかね、ヒスイ。私と協力しないかね?」
息を殺して、エバは成り行きを見守る。
ヒスイは黙ったまま、サイファの後姿を見据えていた。
「無論、この世界の権利は君に返そう。私はただ、身柄さえ保護してくれれば構わない。私の技量と、君の才能が合わされば首尾よく――」
サイファが振り向いた。
銃撃が空間を震わせ、サイファの頭部を覆うガラスに突き当たる。サイファの声が、遅れてやってきた銃声に掻き消される。
ガラスが軋み、ひびが入る様子は、間抜けなぐらい長引いていた。
サイファが顔をしかめる――ガラスが白くくすみ、飛び散った。
破片の澄んだ音が、広間全体にこだます。
「お理」
ヒスイが発した、たった一言の言葉。
エバにとっても、セフにとっても、あまりにも劇的な瞬間だった。
ヒスイが主役であり、主役の行動は予想通りだった。
それなのになぜか、高揚感に満ちていた。
「……結構!」
サイファが顔を上げた。ガラスの破片に傷つけられ、顔のところどころから、蛍光色の血が染み出している。ガラス越しでないサイファの声は、これまでに知るどんな人間の声よりも低く聞こえた。
「……娘、炎のような死を望むか?」
ヒスイは、銃を構えなおした。
「――それは私のセリフよ」
「ハァ、意気軒昂!」
サイファが叫び、両手を打ち叩いた。
「――よろしい。お前の傍若無人ぶりに敬意を示して、私も本気で相手をしてやる!」
後ずさったサイファは、背中の後ろに手を回した。壁に張り付く銀色の泥に、サイファのもろ手が触れる。
サイファの腕が、泥の中に沈み込む。泥自身も、まるで意思を持っているかのように下へと垂れ、サイファの身体を呑みこんだ。新たな触手が出現し、泥全体が隆起を始める。
「エバ、セフ、行きましょう」
経過を呆然と見ていた二人を、ヒスイがけしかける。
「すこし様子を見ないと。他の人にも言わなきゃいけないし」
「えっ、でも、ヒスイ?!」
「いいから!」
しゃがみ込んだままのエバを、ヒスイがせきたてる。空間全体がどよめき、銀色の泥が濁流となって広間に満ち始める。
壁に満ちた泥の中央が、卵の形にまとまってゆく。それは赤くふくれあがり、明らかに異質だった。赤い卵を中心にすえ、周囲の泥も複雑な波紋を描き始める。またたくまにそれらの波紋は、人間の顔の形を作り始めた。――怒りに満ちた、サイファの表情だった。
――オイデ、竜ノ娘!
サイファの声が、泥のあちこちから響き渡る。この複雑怪奇な泥を、サイファ自身が乗っ取ったのだ。
サイファの声に押されるようにして、三人は広間の外へ逃げ出した。泥の中からは次々と、サイファをかたどった泥人形が作られ始めていた。