玄関を抜けたヒスイたちが初めに感知したのは、色の薄い青空と、赤黒く沈黙した地面だった。
すぐ脇へ目をやれば、転日京全体を囲う山並みも、昇りつつある太陽も拝めるはずだ。しかし水色と小豆色の二つの均質さは、他の概念が入り込む余地を妨げているようだった。水と小豆、その両者しかこの世界に存在しないのではないか? ややもすれば、そんな荒唐無稽な幻惑にとらわれそうだった。
「すごい……ううっ?」
隣でセフが呟き、苦しげにうめく。
「何だろう、ここ、すごく嫌だ。不安になる……はやく行こう!」
セフの言うとおりだった。このままここにいれば、小豆色の中に自分たちも埋没してしまいそうだった。
目を凝らし、ヒスイは正面を見据える。はるか遠くに正門の存在が確認できた。希善樹里と宮殿をつなぐ、唯一の結節点だ。
「箒があればな……」
エバが小さく舌打ちした。
「あそこまで一っ飛びだったのに」
そんなことをしたら翩に見つかってしまう――そうたしなめようとしたヒスイだったが、見れば上空に翩は一匹もいない。后来院へ向かう途中、隊伍を作って渦を巻いていた翩の群れたちはどこへ消えてしまったのだろうか。
「とりあえず行きましょう。何にも見つからないように」
周囲を見渡した後、ヒスイは二人に向かって囁く。ヒスイを先頭に、三人は転日宮の入り口から正門まで急ぐ。
山間からのぞく太陽はよどみなく昇り続け、三人に光を投げかけ始めた。陰影に乏しい転日宮の広場に、三人の影がたなびく。
「ねぇ、ヒスイ――」
隣を歩くエバが、ヒスイに呼びかける。
「何だかここって、すごい不気味じゃない? 妙にソワソワする、っていうか……隠れる場所とかもないし」
「色のせいかな? すっごくむずむずする」
エバの言葉に、セフも所在なさげだった。
「……もしかしたらここは“竜の島”でもない別世界で、私たちは迷い込んでしまった、ってところかしら?」
他愛ない心づもりでおどけたヒスイだったが、真顔に戻っているエバとセフを見て、何だか気まずくなる。
「その、何か、ごめんね? 二人とも」
「いや、別にそれはいいんだけど……ね? セフ」
「うん。何だか今の言葉、すごくヒスイっぽかった」
その言葉に、今度はヒスイが真顔になる。
「――私っぽい?」
「うん、そう。記憶をなくす前のヒスイも、よくそんな感じで喋っていたし」
「そうなんだ……」
それ以上の感想は、ヒスイの口をついて出てこない。記憶を失う前の自分と、今の自分が比較される――これにはもう、ヒスイも慣れていた。
ただ浴場での一件以来、その意味合いは少し違っていた。転日京へ向かうまでの行動は、すべてが新しいヒスイによるものだった。心の奥底で渦を巻いていた言葉が、口をついて出てくることはなかった。
「その調子ならあんまり心配しないでも、いつの間にか昔のヒスイに戻ってそうだね」
そう言って微笑むセフに、ヒスイも顔をほころばせる。しかしその一方で、ヒスイはエバの表情を盗み見ていた。
エバは笑ってなどいない。
歩き続けるうち、ふと赤黒い輪郭の縁から城壁が出現した。更に歩き続け、今度は城壁の内側から門が浮かび上がってくる。
質感に乏しいせいで、城壁や門があらわになる過程はちょっとした魔術だった。
程なくして、三人は正門の前まで辿り着く。
「その……エバ?」
先ほどの事を気にかけつつ、探り探りヒスイは尋ねてみる。
「ちなみに正門の向こう側はどうなっているの?」
「堀が広がっていたはずよ」
取り澄ました表情でエバが答えた。
「かなり深い堀で、一度落っこちたら登るのは難しいんじゃないかしら? ま、あたしは魔法使いだからやってやれないこともないけどね? ほら、あそこ――」
と、エバは正門を塞ぐ鉄扉を指差した。
「この扉、取っ手も閂も無いでしょう? 扉と跳ね橋の役割が同じなのよ」
「分かった」
ヒスイは首を縦に振った。相変わらず敵が一匹もいないことは不安だ。ただ陥穽にせよ何にせよ、チャンスは今しか無さそうだった。
一通り、ヒスイは正門一帯を見渡してみる。同じ色に塗られているとはいえ、跳ね橋の材質は石と鉄だ。重たい鉄扉を物理的にこじ開けるのは不可能のようだった。
「ヒスイ、あれを見て」
不意にセフが、門の右上方を指差した。
「あそこ、縄が縛ってある――」
うながされて視線を移したヒスイだったが、残念なことに見分けることはできなかった。エバと二人して肩をすくめる。目のさといセフだからこそ見えるのだろう。
「あー……ゴメン」
エバが言いづらそうに首を振る。
「あたし達にはよく分からないんだけど……何かが訳ありってことよね?」
「あれを切り離せば、橋が落ちるかもしれないわね」
なおも目を凝らしながら、ヒスイがその一画を見やった。よく見れば、確かに陰影の出来ぐあいが他の城壁と違って映った。
「やってやる……!」
はっきりと一声そう呟くと、セフは肩に回している紐をほどいて、長刀をエバに預けた。
「ちょっと、セフ! 何をするつもり?」
「わたしがあそこまで登って、綱を切ってみる」
氷霜剣のみをふところにしのばせ、セフはまとっている僧衣の袖をたくし上げる。
「ヒスイ、エバ、何かあったら私を援護して」
「だめよ、セフ。危険すぎる」
止めようとするヒスイを、セフは手で制した。
「大丈夫……何かあったら、すぐに降りてくるから」
「セフ、あなた一人が行く必要はないわ」
「行かせてよ、ヒスイ。サイファが……」
そこまで言うと、セフはばつ悪げに口をつぐんだ。
「サイファがまた、逃げるかもしれない」
セフの心せく様子に、ヒスイも言葉をのみ込むしかなかった。サイファから最もひどい仕打ちを受けたのは、他ならぬセフなのだから。
「――サイファは“私が”逃がさないわ」
自らに言い聞かせるように、ヒスイが呟いた。うつむき加減だったセフも、その言葉に顔を上げる。
「分かった。私とエバで何とかするから、セフは上へ登ってみて」
「うん、必ず上手くやる」
力強く頷くと、セフは城壁の隅へと駆け出していった。
脇にある階段を、セフは登ってゆく。ヒスイとエバはその様子を注視していた。用心のためにヒスイは銃を構え、エバはタクトを握り締める。
二人は中空を仰いだ。セフの黒髪と墨染めの僧衣が転日宮の赤黒さと混ざり、いったんセフの姿は豆粒のように小さくなる。そして正門の上へ近づくにつれ、セフは再び大きさを取り戻してゆく。
「着いたよ!」
周辺が無事なことを確かめると、セフが下にいる二人へ向かって呼びかけた。
「そっちは大丈夫?!」
「ぜーんぜん平気よ、セフ。退屈すぎて死にそうなぐらい!」
うそぶき、セフから預かった長刀をエバは振りかざしてみせる。
黙ったまま頷き返すと、セフは身をかがめて氷霜剣を抜き放った。東にそびえる山の頂いただきから、太陽が姿を見せ始める。陽光を受け、氷霜剣もまた冷たいきらめきを放った。寒々とした高地の気候を、改めて思い起こさせるような光り方だった。
「大丈夫、すぐ終わるから――?」
セフが言い終わらぬうちに、城壁の裏側から何かが飛び出してくる。目視するより早く、脊髄反射がヒスイにはたらきかける。瞬発的な一撃と、それに続く銃声――澄みきった朝の空気に、音は雷鳴のように響きわたる。紫煙は銃口から空へ上がり、翼をえぐられた翩ヘンが赤黒い広間へ叩きつけられる。血と骨のすりつぶされる湿った音。翩は動かなくなった。
「セフ、急いで!」
血相を変えると、エバが唐突に叫んだ。
「翩が来てる!」
エバの言うとおりだった。城壁の裏手から、幾匹もの翩たちが飛び出してくる。
「まずい――」
再びヒスイは引き金をひいた。銃声とともに、一匹の翩の脚がちぎれ飛ぶ。翩たちが一斉に奇声を発する。およそ二十匹はいるだろうか。翼のうなる音のわりに、数は少ないようだった。
それでも、自分達が窮地に立たされていることに変わりはない。目が潰れているにも関わらず、翩の飛ぶ様子は実に鮮やかだった。
「セフ、逃げて!」
「待って、もう大丈夫……ほら!」
セフが高々と氷霜剣を突き上げる。ほぼ同時に、張りつめた綱に切れる乾いた音が響いた。微動だにしなかった鉄扉が不意に揺らいだかと思うと、重苦しい音を立てながら前方へと倒れてゆく――
ヒスイの耳元で、翩の奇声がうなった。旋回してきた翩が、ヒスイの右腕を足のかぎ爪で鷲掴みにする。
「ヒスイ!」
隣でエバの声がした。鋭い顎を避けつつ、左手に握った銃の底でヒスイは翩を叩く。仰け反り、床に転がった翩にヒスイは銃撃を浴びせた。体液をまきちらしたあげく、翩の息の根が止まる。
自らのタクトで右の手のひらを叩いたあと、エバがそのタクトを上空へ振りかざす。水蒸気が噴き出すような音がヒスイの耳に届く。セフを狙っていた一匹翩が、突如としてもだえ苦しみ、墜落した。床に叩きつけられる瞬間、その体躯がガラス玉のように弾けた。
「セフ、跳んで!」
「“跳ぶ”――?」
「いいから、早く!」
目を丸くしているセフに対し、エバの表情は真剣そのものだった。左手でチョークを握ると、自らの右手に複雑な軌跡を描き始める。エバには何かしらの意図があるようだった。ヒスイも再び銃を構えなおすと、セフに飛び降りるようにうながした。
まごついていたセフも、意を決したらしい。奥歯を食いしばった表情で城壁から身を乗り出すと、つま先から風を切るようにして外へ飛び出した。
小柄なセフの体が、宙を舞う。ヒスイにとって、その落下はかなり長く感じられた。
ヒスイが手を差し伸べ、セフを受け止めようとする。ヒスイの指先を見つめていたセフが、ふと視線を脇へそらした。
セフの表情が凍りつく。
翼を拡げていた翩が、無防備なセフのもとへ肉薄している。鋭いかぎ爪が、セフの喉に突き立てられようとする。
次の瞬間――何が起こったか?!
「裁!」
その声は確かに、今しがた開いた正門の方角からした。よく通る、覇気のある男声だった。セフを狙っていた翩の体躯が、突如として弓なりに歪む。側面から大きな衝撃を受けたのだとヒスイが気付いたときには、既に翩は全身が分解して消し飛んでいた。転日宮の赤黒い床に、翩の肉塊がばら撒かれる。
「うわっ――!」
ふところに飛び込んできたセフを、ヒスイはやっとの思いで抱きかかえる。
「……はあっ!」
ヒスイが口を開く前に、エバが声を上げる。それに続いて、両手のひらを打ち鳴らす音もする。周囲の空気全体がどよめいたかと思うと、滑空する翩たちの動きが一斉に停止した。そのままなす術もなく、翩たちは慣性にしたがって墜落し、城壁に、床に叩きつけられた。
翩の襲撃は終わった――後に漂う沈黙が、そのことを雄弁に物語っていた。
「今のは――?」
抱き起こされたセフが、不思議そうに周囲を見渡し、当該のものを発見する。はじけ飛んだ翩の肉片に、矢が突き刺さっていた。
「好好――ずいぶん、首尾よくいったな」
正門の側から、明朗な青年の声がする。
そこに、ロイがいた。