“鱗の壁”を剥がすと、三人は背後に潜む扉を開けた。
扉の奥に、巨大な空間が広がっていた。一階から三階までが吹き抜けになっている。
この広間もやはり、窓以外はすべて赤黒く塗装されていた。床も、手摺も、階段も、支柱も、みな赤黒く均質に塗られ、天井にぶら下がる照明も、それを支える鎖までも赤黒く塗られていた。
今ヒスイたちは、そんな建物の二階にいる。
ふと手元を確認したヒスイは、さっきよりも視界がはっきりしているのに気付いた。三階の窓から見える空が、ほんのりと明るくなっている。
転日京ハルムイールが新しい一日を迎えつつあるのだ。
「ちょっと待っててね――」
ヒスイとセフに囁きかけると、エバは床にしゃがんで魔法陣を描き始めた。同じ水色のチョークを使っていたが、書いている模様はさっきと異なっている。
「これでよし、と……」
程なくして、エバは魔法陣を完成させてしまう。今度は円形の、見た目は変哲なところのない魔法陣だった。かなりの速さで書き上げているというのに、円の丸みは極めて精密である。改めて魔法陣の生成過程を見たら、さぞかし面白いだろう。
あいにく今、その時間は無いのだが。
「エバ、大丈夫?」
しかし、ヒスイにはエバの体力が心配だった。
「今からそんなに頑張っていたら、体力が持たないんじゃない?」
「ううん、ヒスイ。平気よ?」
背筋を伸ばし、エバはそう答える。
「魔法陣ってのは書くときに魔力を使うだけで、あとはほったらかしで大丈夫なの。書くのに時間は掛かるけど、一度書いたら消えないかぎりずっと使えるし。ほら、あたしってそんなに魔力がないから、魔法陣使ってるほうがいいのよね」
「でも、その魔法陣って――」
セフが魔法陣を指差す。
「ワナとして使っているんだよね? 私達が引っ掛かったりしないの?」
「それは心配要らないわ。だってこのチョーク……」
エバはポーチから、先ほどまで使っていたチョークを取り出す。大きな魔法陣を二度描いたというのに、チョークはそれほど磨耗していないようだった。
「このチョーク、トカゲのかぎ爪とウルシの樹液を混ぜ合わせたものなのよ。……って、分かんないよね?」
お互いに顔を見合わせているヒスイとセフを見て、エバも肩をすくめる。
「ごめん、分からないわ。つまり――?」
「うん。つまりね、皮膚が直接このチョークに触れると魔法が発動するのよ。でも、あたし達は靴を穿いてるでしょう? だから大丈夫、ってわけ」
「なるほど……」
感心したようにセフが呟いた。仕組みは分からないが、かなり優れたワナであることには間違いない。
「魔法陣を作る時間を稼がないといけないわね」
確認するように呟くと、ヒスイは手摺に手をかけ、もう一度室内を見渡してみる。光が窓から投げかけられ、転日宮の内部に陰影を作り上げていた。
ヒスイたちがいるところの真向かい、一階に両開きの扉が見える。あそこを潜れば、転日宮と希善樹里チウゼンジュリをつなぐ正門まで辿り着けるのだろう。
(一階まで降りるとしたら――)
周辺を見渡して、ヒスイは舌打ちする。二階と一階を橋渡ししている階段には、“竜の鱗”が泥のようにこびりつき、固まっている。あそこを剥がしながら進むのは相当骨の折れる作業に違いない。正門を開け放つ作業がある以上、無駄に時間をとられるわけにはいかなかった。
「セフ、あそこまで見える?」
ヒスイは指で、一階にある扉を示した。
「うん、大丈夫。けど……どうするつもり?」
「私が先に下へ降りて、安全かどうか確認してみるわ。大丈夫だったらを合図するから、そしたら二人とも降りてきて欲しいの」
「分かったわ」
「うん、分かった」
二人の返事を聞くと、ヒスイは手摺に跨り、足をかける。下が安全なことを確かめ、ヒスイはそのまま飛び降りる。
一階の床にヒスイが降り立つ。靴が音を立てた。
けたたましい音が、突如として広間を響き渡る。薄暗がりの中から、ガラガラ音の化け物が飛び出してきた。
「危ない!」
二階からセフの声が聞こえた。とっさにヒスイは横へ転がり込む。化け物の尖った爪は空を切り、ヒスイが今いた床に皹ひびを入れる。
抜き足で逃げ出すと、ヒスイは柱の隅へ隠れる。破裂するのではないかと思うくらい、ヒスイの心臓は高鳴っている。ガラガラ音の化け物は、なおも爪を振り乱していた。しかしヒスイの方面に近寄ってくることはない。
この化け物も翩と同様、目が見えないようだ。
柱の裏手で、ヒスイは銃を構える。そのとき、
「サイファ国従からの伝言です――」
という、あの聞きなれた言葉が広間を響き渡った。
「『予章緋睡、私は――『ようこそ“竜の娘”! 今こそ君も世界の敵だ!』」
(竜の娘?)
今までになかった伝言に、ヒスイは顔をしかめる。それまでの伝言に、強引に上書きされたかのようなセリフだ。
化け物たちに神経を尖らせながらも、ヒスイは伝言に耳を澄ませた。
「『そこは賢い君のことだ、ガンスリンガー』――」
怪物の言葉は続く。
「『既にこの建物のどこかにいるのだろう? さぁ、おいで。今の私は相当不機嫌だが、お前達の相手くらいはしてやれる』。サイファ国従からの――」
怪物の言葉は、ここで巻き戻る。この前に出くわしたときに比べ、サイファの言葉はかなり感情的だった。なにかサイファの腹に据えかねる事態があったのだろう。おそらくサイファは、転日京へ来る前にヒスイを抹殺する予定だったのだ。ヒスイたちが下天を通るなど、サイファには予想外だったに違いない。
それにしても“竜の娘”とはいったいどんな意味なのだろう? ヒスイにはそれが気がかりだった。サイファはわざと言い間違えたのか? ――しかし伝言では“竜の娘”をことさら強調している。
いずれにせよ、サイファに会って問い質すのが一番だろう。しかし今の伝言はあからさまな挑発だ。口車に乗ってはいけない以上、やはり正門を開けるのが最優先だった。
「イイイイイイ!」
ヒスイの思考を、怪物の絶叫が遮った。
(気付かれたか?!)
とっさに銃を構え、ヒスイは柱から様子をうかがった。ガラガラ音を立てる化け物の奥で、伝言をする怪物の全貌が見える。
この怪物も、ぶどうの房から脚が生えたような、ひょうきんな格好をしている。そんな葡萄の房には、たわわに実った目玉が取り付いていた。
目玉“達”は、まるで別の生き物のように動き回っている。ある程度の怖気をもよおす容貌は覚悟できていたヒスイも、こみ上げてくる吐き気だけはどうしようもなかった。
それでも歯を食いしばり、目玉に気付かれぬようヒスイは様子を見守る。
「イイイイイイイ!」
怪物の絶叫は長く続いた。ヒスイの見るかぎり、目玉の怪人は負傷していないようだった。
何のために金切り声を上げているのか? ――その理由は程なくして分かる。広間の隅に身を潜めていたガラガラ怪人たちが、目玉の怪人の絶叫に引き寄せられ、群れ始めたのだ。あっという間に、目玉の怪人を中心に据えた、化け物たちの集団コロニーが形成される。
「いいじゃない、気が利いてるわね」
そう毒づくと、ヒスイは二階へと目をやる。エバとセフの姿は、もう見えなくなっている。化け物たちに感付かれないよう、どこかへ迂回したのだろう。
(どうする――?)
銃を左手に構え、ヒスイは再び周囲を探った。化け者たちは声一つあげないまま、依然として同じ場所を行き来している。目玉の怪人の上には、照明が陣取っていた。
寺院でおこなったことと、同じ手法をヒスイは画策した。照明を支える鎖を狙い澄まし、ヒスイは銃弾を浴びせる。乾いた銃声が広間に叩きつけられる。ガラガラ怪物たちが反応するより早く、照明は静かに落下し、目玉の怪人の上にのしかかった。
「イイイ――!」
絶叫さえ満足に上げられず、目玉の怪人は重い照明の下敷きになる。金属音が床を震わせ、肉の弾ける音が広間を飛び散る。銃声とは比べ物にならないほどの大きな音だった。ガラガラ怪物たちは音に反応して、いっせいに群がる。ガラガラ怪物たちのかぎ爪が、容赦なく怪人の目玉を潰していった。
「イイイ、イイイ、サイファ――サイ――イイイイイイ!」
怪人の体が、断末魔と共に一気にふくれあがる。ヒスイが柱に身を隠すと同時に、怪人は爆発して跡形もなくなった。ガラガラ音の化け物たちも爆風に吹き飛ばされ、叩きつけられ、それっきり動かなくなる。
「二人とも、大丈夫?!」
安全を確認すると、ヒスイは二階にいたはずのエバとセフへ声をかける。
「うん、大丈夫!」
初めに顔を出したのはセフだった。
「さすがね、ヒスイ」
程なくして、エバも顔を出した。
「どうなることかと思ったけど、何とかなるものね。にしても、不気味ね。あんな化け物を考えつくなんて、サイファもいい趣味してるわ」
二人は手摺から身を乗り出すと、一階へと降り立った。
「にしても……あれはどういう意味?」
ヒスイに支えられて一階へ降りたエバが、唐突に尋ねた。
「『どういう意味』って、あの怪物のこと?」
「そうよ。“竜の娘”とか、“世界の敵”とか……やけに気が立っているようだったじゃない?」
「あの言葉って全部、ヒスイのことを言っているのかな?」
セフが心配そうにヒスイを見つめる。
「……分からないけれど、たぶんそうよ。アイツは絶対、私のことで躍起になっているのよ」
「でも、それって何だか変だよね?」
セフが自信なさげに言葉をつぐ。
「ほら、下天に入る前にイェンさんが、『サイファは街をほったらかしにしている』って言っていたと思うんだ。これって『ヒスイを捕まえることに興味が無い』ってことと同じじゃないかな? なのにヒスイが転日京に近づくと、今度は必死になってヒスイを見つけ出そうとしているし……」
「行動に一貫性がない、ってこと?」
「そう、それそれ」
言われてみればその通りだ。転日京へ来る前に、ヒスイを殺しておけばそれに越したことはないはずだ。
なのに今頃になってサイファは慌てふためいている。本心からそうしているのか、あるいは何かの策略なのか、ヒスイにはそこが分かりかねた。
「……まぁ、今は考えても仕方がないんじゃない?」
能天気にエバが声を発する。
「あたし達が三人で忍び込んだ目的、ヒスイだって忘れちゃったわけじゃないでしょ?」
「そうね、とにかく……」
ヒスイは正面にある扉を見つめた。ここを抜ければ正門までは近い。朝は間断なく迫りつつあった。
「とにかく今は、行かないと」