第52話:鱗の壁

「待って」

 指先に、エバが火をもした。暗かった抜け道が、温かな光に包まれる。

 この通路は、頻繁に使われていたのだろう。単調で殺風景だったが、埃をか被っている箇所は見当たらなかった。

「どこまで繫がっているんだろう?」

 奥まで続く暗闇を、セフが凝視する。

「イェンさんから転日宮ハルムイールの地図でも貰うべきだったかも」

「いいえ、意味がないわ」

 指先に揺れる火を掲げ、エバが先頭を進む。

「『意味がない』?」

 壁を手でなぞりながら、ヒスイがエバに尋ねる。三人のほかに、生き物の気配はない。やはりサイファも、この通路だけは見逃していたようだ。

「転日宮って、建物の構造はすごく単純なのよ。クライン導師に聞いたから、間違いないわ。だけど――」

 エバは言葉を続ける。

「だけど、建物は赤に塗りつぶされてる」

 赤に? そうヒスイが尋ねようとした矢先、エバが立ち止まる。

「見て――!」

 エバに促され、ヒスイとセフが足元を見やった。先の道は階段になっている。このまま転日宮のどこかへ通じているのだろう。

 ただの抜け道に過ぎないというのに、その階段は赤黒く塗りたくられていた。

 段差を数えようと、暗闇の中でヒスイは目を凝らす。しかし、色が均質に塗られているせいで、階段の段差は見分けがつかなかった。深い赤色の前に、階段の輪郭は完全に消滅してしまっている。

「これが――」

 暗がりの中に、セフはしゃがみ込んだ。

「だ、段差が分からない……」

「段差だけじゃないわよ」

 エバが、探るようにして一歩を踏み出した。

「建物全体が、輪郭が見分けられないように赤く塗られているんだって、壁も、柱も、調度も全部! 『国師ってとんでもない変人なんだなァ』って思っていたけど、今なら分かるわ。この赤色、全部小豆の赤なのよ」

 確かにその通りだった。赤と呼ぶには黒く、やけにくすんだ赤色、これは小豆の色と同じだ。国師・サンは敵を寄せ付けぬためにそのような配色にしたのだろうか。それとも、自分の異常な性向のためなのか。

 いずれにせよ、サンの施した細工は、次世代にとって重い足かせとなっている。

 壁に手を添えつつ、三人は階段を登りきった。エバの放つともし火から、その場所が小部屋であることが辛うじて分かる。

「ここだ」

 手探りで、ヒスイは扉を探った。取っ手に手をかける前に、ヒスイはふと思いついて、右手を銃に添える。

――戦場! 戦場!

 銃の声が、ヒスイを押し潰しそうになる。

「大丈夫、ヒスイ?」

 うつむくヒスイの表情を、エバが心配そうに覗き込む。

「ええ、平気よ」

 ヒスイは右手を離すと、今度こそ取っ手を握り締める。

「行こう!」

 エバとセフが頷く。ヒスイは扉を開け放った。


 薄暗い廊下。どこかから絶叫が響く。聞き違えがなければ、おそらくはボウの悲鳴だ。

「エバ、火を消して」

 エバの火は急速に弱くなり、しぼんだ。三人は息を殺す。張り詰めた、冷たい空気が流れていた。血の臭いと、腐った臭いが空気に混じっている。視覚が利きかないせいで、耳と鼻がより敏感になる。人の気配はなかった。

「ヒスイ、見て」

 ヒスイの袖を、セフが掴んで引き止める。ヒスイはその方向へ近づいた。足に硬いものが当たる。よく見れば、それは氓を包んでいた青い泥――“竜の鱗”だった。

「全部孵化した、ってこと?」

「ちがう、」

 セフが、頭を振った。

「サイファは、この道を塞ぎたかったんだ」

 言われてみれば、青い泥が天井までを完全に塞いでいた。“竜の鱗”を利用して、即席の壁を作り上げたのだ。

「人間を固めて作ったってわけね……!」

 憤るエバの隣で、セフが氷霜剣を抜き放った。

「こんなもの――!」

 氷霜剣を両手に構えると、セフが切っ先を泥の壁に突き立てた。卵の殻が割れるような、乾いた音が響く。セフはそのまま、体重をかけて壁を縦に切り裂く。漆喰のように凝り固まった青い泥が、大粒のかけらとなって周囲にこぼれ落ちる。

 えぐられた壁に手をかけ、ヒスイも剥がすのを手伝う。人一人が通れるほどの隙間を作るのに、そう時間はかからなかった。

「それほど手間じゃないわね」

 エバはそう言って唇をかんだ。

「でも、箒を持ってくるべきだったかしら?」

「飛ぶのは危険よ」

 身体を横にして、ヒスイが穴を通り抜ける。

「とにかく……正門まで行かないと」

「そうね。分かった」

 エバも頷き、差し出されたヒスイの手を受け取る。遅れて、セフも壁に空いた穴を通り抜けた。

「向こうへ――」

「……しっ!」

 エバが言い終わらないうちに、セフが口許へ指を添える。やや遅れて、甲高いうなり声が廊下を響きわたった。氓の集団が、どこかにたむろしているらしい。

「どこにいるのかしら?」

 小声で、ヒスイがセフに訊ねる。

「たぶん、正門に近い側だと思う」

「何よ。氓を集めて、また壁でも作るつもり?」

 あざけるようにしてエバが言った。それに上手く返事が出来ず、ヒスイもセフも押し黙る。

「あー……、あたしが言いたいことは――」

「大丈夫、大丈夫」

 ばつ悪げなエバの言葉を、セフは身振りで打ち消した。

「とにかく、目先のことに集中しないと」

 足音を立てないよう細心の注意を払い、三人は壁際まで近づく。壁からそっと身を乗り出すと、ヒスイは様子を探った。

 行く手には、ボウの集団が立ちはだかっている。何をすることもなく、氓たちはおぼつかない足取りで右往左往し、通路を塞いでいた。薄暗い廊下の奥で、氓の丸い瞳だけが、人魂のごとく烱烱けいけいと光っていた。

「どうする、ヒスイ?」

 エバが、ヒスイの側まで寄ってくる。表情こそ変えていないが、エバの声色はさっきよりも硬い。予章宮で氓の集団に襲われたことを、エバは思い返しているのだろう。

「回り込んでみない?」

 ヒスイは、あることを閃いた。

「ねぇ、エバ――」

 後ろを振り向いて、先ほど通り抜けた“鱗の壁”をヒスイは指で示した。

「あの壁に、火をつけられる?」

「おびき寄せる、ってこと?」

 セフの声に、黙ってヒスイは頷いた。集団になると氓は凶暴になり、明かりに群がるようになる。群れている隙に扉へ辿り着けば、余計な心配もせず正門まで逃げきれる――これがヒスイの算段だった。

「オッケー。大丈夫よ」

 タクトを取り出すと、 エバは 姿勢を低くしたまま、壁際からにじり出る。廊下の脇には、壺の置物が展示していた台座があった。暗がりの中、これも全部小豆色のせいで見えづらい。エバはその台座の足元にうずくまる。赤い装束を着ているせいで、エバは実によく背景に紛れ込んでいた。

(いくね!)

 暗闇に慣れはじめたヒスイとセフに、エバが身振りで合図した。タクトが風を切る、か細い音がする。ヒスイとセフの側を風が通り抜け、一気に空気が冷える。思わず吐いたセフの息が白い。

 遠くにある“鱗の壁”をヒスイは見つめる。先ほど通り抜けた穴の輪郭が歪み、わずかに光る。光は炎へと姿を変じ、一瞬にして壁全体を呑み込んだ。業火は音もなく、ただ光だけを発している。

 身の毛もよだつ絶叫を、一匹のボウが上げる。それに呼応するかように、氓の集団は一斉に駆け出した。さっきまでの腑抜けた足取りが嘘のようだった。タイルを散らしながら、氓たちは火に飛び込んでゆく。身体に炎をまとっては、火の粉を散らして暴れている。

 何を目的に氓が火へ飛び込むのかは分からない。分からないがゆえに、三人は得体の知れない恐怖をより深く感じ取っていた。

「行こう、行こう――」

 ヒスイの呼びかけに応じて、三人は扉まで駆け出した。近づくにつれて、扉の様子も鮮明になってくる。

「まずい!」

 真っ先に駆けつけたセフが吐き捨てる。この扉もまた、“鱗の壁”に覆われていた。

「急がないと!」

 “鱗の壁”に、セフは氷霜剣を突き立てる。いったんはヒスイも銃把を握り締めた。しかしきっと氓は音に反応するだろう。やむなく手を伸ばして、ヒスイも“鱗の壁”剥がしに参加する。

「エバも!」

「……待って!」

 ヒスイの呼び掛けに、エバはすぐには答えなかった。通路の中央にしゃがみこんで、何かを書き付けている。

「エバ、二人じゃきついよ」

 両腕で柄を握り、縦に刃を傾けながら、セフがエバに言う。切羽詰まった口調だったが、エバはこちらを振り向かない。エバの握り締める水色のチョークが、更にはげしく軌跡を描く。

「エバ!」

「待って!」

 氓の群れは、待ってくれなかった。火の粉を振り払うと、ただれた皮膚から煙を放ちつつ、一匹の氓が悲鳴を上げる。いままでの悲鳴と違い、野太い、耳障りな声だった。

(鬨の声だ)

 ヒスイは直感した。“鱗の壁”から離れ、後ろを振り向く。

「エバ、しゃがんでて――!」

 声を上げたときには、既に引き金に指を添えていた。確かな手応えと、腕にはしる衝撃――銃声! 稲妻のような咆哮と共に、見えない弾は空を切り裂いて氓の額に飛び込む。先頭をはしる一匹の氓が、頭を散らして吹き飛び、倒れる。その残骸を蹴りつけるようにして、後から後から他の氓たちが連なる。

 暗闇に目を凝らし、ヒスイはもう一発。一匹の氓の右脚が、根元からもげる。弾けた肉塊は周辺に飛び散って、転日宮の赤黒い通路をけがす。どこからか吹いてきた風が、焼け爛れた氓たちの臭いをヒスイに届ける。肉の焼ける香ばしい臭いは、却ってヒスイを戦慄させた。脚を失って倒れこんだ氓は、仲間達に踏みつけにされる。狂信的な何かを感じ取り、ヒスイもひるみそうになる。

「だめだ、まずい!」

 氷霜剣を“鱗の壁”に突き立てたまま、セフが長刀を抜き放ち、駆け出す。

「待って――!」

 それを止めたのは、エバだった。駆けだすセフの側に立ちはだかると、エバは強引につかみかかって、セフを押し倒す。

「エバ?!」

「ヒスイも伏せて!」

 ヒスイの声よりも、エバの声のほうが遥かに鋭かった。声に導かれるようにして、ヒスイも膝を曲げて姿勢を落とす。エバのすぐ側で、床がきらめいた。何かの魔法陣――それだけはヒスイにも分かった。

 先頭を走っていた氓が、牙をむき、しゃがみ込むエバとセフに踊りかかる。蹄ひづめの生えた脚が魔法陣に触れる。

 次の瞬間、魔法陣が眩い光を放った。炎よりも明るく、しかし冷たい光だった。ヒスイも耐え切れずに目をつぶる。氓たちの絶叫と、それを上回る破砕音が、ヒスイの耳に響く。

 ヒスイは再び顔を上げる。氓の姿はない。切り刻まれた氓の肉片が、周囲で渦を巻くように散らばっているだけだった。

「ハァ、ハァ――」

 浅い息をつきながら、セフがエバを抱き起こした。

「エバ、今のは何?」

「稲妻を発する魔法陣よ。あの中へ踏み込むと、足から頭の先まで稲妻が流れるの――」

 立ち上がると、エバは指先に火を点した。通路は明るく照らされ、魔法陣の全体像も垣間見れる。通路を埋め尽くすように書きめぐらされた魔法陣は、実に幾何的で、複雑な文様を描いていた。

「方角がぴったりだから、使えるんじゃないかと思ってね。バッチリだったわ。さすがはあたし、でしょ?」

「失敗したら、どうするつもりだったの?」

 軽口を叩くエバに、不安げにセフが尋ねた。

「失敗なんかしない」

 エバはにべもなく言い放った。

「あたしの勘だけど、ね?」

「……行きましょう、二人とも」

 銃をホルダーに仕舞うと、ヒスイもようやく一息ついた。

 “鱗の壁”を剥がしきると、三人は奥へと進む。

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