ロイが引き下がったことを確認すると、部屋に残った一同は改めて胸を撫で下ろした。
「アイツ……あのロイってヤツ」
憤怒が収まりきらないのか、書架に寄りかかるとセフが毒づいた。
「なんなんだあの態度……」
「まぁ、許してやってはくれんかの」
ロイの空けた席に、イェンが腰を下ろした。
「もとからああいう性格じゃ。変にひねくれているくせに、ここぞというときには無邪気で、頼りになる。仲間の信頼も厚いヤツでの、いちおう、妾も頼りにしておる」
「それにしても、ロイ殿は鋭いお方です」
深くため息をつき、ジスモンダは背もたれに寄りかかる。
自然なそぶりで、ジスモンダは何かを合図した。ヒスイはそれを見逃さない。ジスモンダの背後で彫像のように控えていた兵卒が、合図に呼応して突如動き出し、部屋を引き下がろうとする。まるでジスモンダの合図が、生気のない兵卒に魔法のごとく作用したかのようだった。
「――ヒスイ殿もそう思いませんか?」
兵卒の行き先を見極めようとしたヒスイだったが、ジスモンダに呼び止められる。
「え? えぇ……そう。そうかもしれませんね」
「洞察力だけで考えたら、ロイもヒスイも似たようなものかもしれんの」
腕を組んで、イェンは一人ごちる。再びヒスイが振り向いてみたときには、すでに兵卒の姿はなかった。
「しかしまぁ、今回はヒスイがやや軽率じゃったかの」
「ごめんなさい、イェンさん」
ヒスイは肩をすくめた。
「でも……たぶん、ああするしかなかった。私が銃を撃たなくとも、あの褒 (乳房)の怪物は私のことを喋っていただろうし――」
「まぁ、大した支障にはならないでしょう」
イェンの代わりに、ジスモンダが答える。
「こちらがロイ殿の動静に警戒しておけば、大きな心配は防げるはずです。見張って、遠ざけておけば問題はないはず」
近づいてきたエバと、ヒスイはお互いに顔を見合わせる。ジスモンダもロイも、同じ仲間であるはずだ。なのに、ジスモンダの今のセリフは猜疑心から発せられているかのようだった。
「まぁ、そこまでとげとげしくいる必要もないがの」
イェンは自分の角をさすっている。
「ええ、そうかもしれません」
そこまで話すと、ジスモンダは立ち上がった。
「皆さま、申し訳ありませんがいったん下がらせてください。ここの空気は身体に障るようなので」
「そうか、そうかの」
イェンも立ち上がると、ジスモンダに手を差し伸べた。ジスモンダは自らの右腕をその手に添え、奥に下がっていった。
「そんなに空気悪いかしら?」
何気なく、エバはセフに尋ねた。
「いや……」
と、セフは難しい表情を浮かべる。
「淀んでる、ってわけじゃないけど……なんか息苦しいっていうか、圧迫される、っていうか」
セフの意見にヒスイも同感だった。四方にうずたかく積まれた巻物から、かび臭い、凝り固まった大気がのしかかってくるようなのだ。
「そうだ……」
ややしばらくして、エバが口を開いた。
「姉さん――どこにいるんだろう?」
「おお、そうじゃ、リリスじゃ」
思い出したようにイェンが答える。
「『探りたいことがある』と言ったっきり地下にもぐりこんでおっての。まぁ、とりあえずは無事じゃ」
それを聞き、三人とも安堵のため息をついた。ヒスイたちに近しい人びとは、今のところ全員無事のようだった。
「なんじゃ、エバ? リリスが心配かの?」
「いいえ、ぜんぜん」
イェンの質問にエバは即答する。それを聞いて、セフが目を丸くした。
「――“ぜんぜん”?」
「ええ、うん。生きていることは心配してない」
真珠色の髪の毛を、エバは手で梳いた。
「たぶん、どっちかが死ぬことになったら、きざしがあると思うし。むしろ変なことやらかしてないかが心配なのよ。姉さん、クライン導師には容赦なかったし」
ヒスイには、状況がよく呑み込めなかった。
「でも、クライン導師はリリスさんの師匠でしょ?」
「そう。……そうなんだけどね」
そこで言葉を切ると、エバはやけに難しい表情になった。
「偉い人なんだけど……なんだか……天真爛漫っていうか……つまりその――」
「“スケベジジイ”ってことじゃろ?」
エバの代わりに、イェンがはっきりと答えた。
「スケベ――?」
セフが素っ頓狂な声を出した。
「いや、そういうわけじゃないのよ、ただ、その、あれよ、あれ――」
エバが泡を食って、イェンとセフの間に割って入る。クライン導師に対して、エバは一応敬意を払っているようだった。
「その、クライン導師ってのは、ちょっといろいろとだらしない人だったってことでしょ?」
「うん、そうそうそういうこと!」
ヒスイの出した助け舟に、すぐさまエバは飛びついた。
「いや、『ちょっと』どころじゃないじゃろ」
イェンがその助け舟の底に大穴を空ける。
「あのジジイはとんでもない奴じゃったぞ。抜け目ないくせに、肝心なときに間抜けなことばっかりしおるからの。金にはがめついし、ぶちのめしてやろうとすれば逃げ足は速いし。セコイ奴じゃったのー、ホント」
イェンは言い切ると鼻を鳴らした。公然と「ジジイ」呼ばわりするのだから、イェンも度々腹に据えかねる事態に出くわしたのだろう。
「勇者様一行にボウフラ入りの水を売りつけようとしたのが、アイツの運の尽きじゃな。それはもう見事にサン様が河津掛けを喰らわせてのう。以来キンギョのフンみたいに妾らにくっついてきおったわ」
万事休したのだろう。目の辺りを覆って、エバは天井を向いている。ヒスイはセフと一緒に苦笑を浮かべる。
「それで?」
「それでじゃな――」
イェンが再び口を開こうとする。その前に、
「聞こえたわよー?」
と、扉の裏手から声が聞こえてきた。リリスの声である。
「おう、リリスか。な、リリスも話してやればよかろう。クラインがとんでもないヤツじゃったということをな――」
「クラインおじいちゃんのことでしょー?」
リリスの言葉を聞いたセフが、口の端をゆがめて俯いた。自分の師匠を「おじいちゃん」扱いできるのは、おそらくリリスしかいないだろう。しかしリリスの口を通して聞くと、やけに間抜けな雰囲気が漂っていた。
着ている衣装のところどころには、煤がついていた。しかし、リリスは至って平然としている。隣では、ぼろきれに包まれた重たそうな荷物が“漂って”いた。リリスが魔法をかけ、持ち上げてきたのだろう。
「クラインおじいちゃんの話は後よ」
リリスが指を鳴らす。荷物は床に落ち、大きな音を立てた。音と共に、血生臭い臭いがかすかに漂ってくる。ヒスイたちは全員、身を硬くした。
「姉さん、これ何?」
顔をしかめながら、エバが恐る恐る尋ねる。質問に答える代わりに、リリスが再び指を鳴らした。誰も触れていないはずのぼろきれの包みが、ひとりでに開いてゆく。
「これは……」
ヒスイは息を呑んだ。ガラガラという音を立てた怪物が、一同の目の前に転がった。
ヒスイはしゃがんで、そのしかばねをよく確認してみる。傷口のようなものはどこにもない。ただ死んでいることだけは、誰の目から見てもはっきりと分かった。
「どうやって倒したんですか?」
「沸騰させたのよ、血を」
リリスは何気ないそぶりで答える。
「刀で切られても、矢が刺さっても構わず暴れているけど、血を操られるとどうしようもないみたいね、やっぱり」
微笑むリリスに、ヒスイもはにかんで返した。それでも、心中は穏やかでない。リリスが魔術を使う現場を、ヒスイも何度か見ている。しかしまざまざとその威力を思い知ったのは、ヒスイにとってこれが初めてだった。
「物騒な殺し方じゃの」
ヒスイの気持ちを代弁するかのようにイェンが呟いた。
「あら、そうかしら?」
リリスはとぼけると、髪を撫でた。
「金棒で叩き潰すイェンさんのほうが、私達みたいな非力な人間にとってはよっぽど怖いわよ?」
「リリスさんは、この怪物が何か分かりますか?」
「うーん、と、そうね、具体的に『何か』とは答えられないわ。ただ、サイファが作った新種なのだけは確かよ」
その答えに、ヒスイは押し黙った。自分がまごついているうちに、関係のない人間が次々と餌食になってゆく。「もどかしい」という気持ちと、「平静を保たねばならない」といういましめとが、ヒスイの心中でせめぎあった。
腰に巻きつけてあるポーチから、リリスが何かを取り出した。それは金属製の箸だった。その箸を、リリスは容赦なく怪物の頭につきたてる。
「うわっ……」
ヒスイの隣で、おぞましげな声をセフがあげた。ヒスイの見る前で、リリスは丁寧に怪物の頭をほぐしてゆく。頭頂部から首へと、リリスの振るう箸が進んでいった。青い塊は柔らかいようだ。事実、青い液体が傷口をつたってぼろきれへと染みこんでいく。手際よくリリスは箸を押し込んでいる。だが首もとまで差し掛かると、リリスは箸を離した。
怪物の頭が、花びらのように開いている。
「さぁ、ヒスイちゃん」
箸についた青い液体を、ぼろきれの端でリリスは拭く。
「何か分かることはない?」
青い液体に触れないよう注意しながら、ヒスイは怪物の頭を覗き込んだ。怪物の青い頭部は花びらのように開いていた。幾つもの層が、複雑に折りたたまれていたようだった。そんな怪物の頭部で、一箇所だけ赤い部分がある。ちょうど頭の、芯の部分にあたる箇所だった。芯は長く伸び、怪物の体に繫がっている様子だった。
「ここの赤い芯が体と繫がっている、ということですか?」
「そうそう、正解よ」
リリスはやけに嬉しそうな様子だった。
「単体だと、氓は動きが遅すぎる。翩は飛べるし凶暴だけど、目が見えなくなってしまう。――二つを上手く改良したのが、この怪物だと思うのよ。動きは俊敏で、その上凶暴な怪物よ。転日宮に陣取っているあの“黒トカゲ”は、人間の身体だけは残るよう、上手く工夫をしたのね」
ここでいったん、リリスは言葉を切った。イェンもふくめ、他の四人は何も言うことができなかった。サイファが沈黙していた真意、それは新しい怪物を次々と生み出すことにあったのだ。
「ぐずぐずなんてしてられない――」
怪物の側で屈みこんだまま、ヒスイが声を絞り出した。その声に、四人ともがヒスイを見つめた。
「そうね。……その通りよ」
箸をしまって、リリスが立ち上がる。
「ヒスイちゃん、ちょっとついてきて欲しいところがあるの。――もちろん、透明マントは被って、ね?」
「『行きましょう』って――」
姉に向かってエバが訊ねる。后来院は広く、入り組んでおり、雑然としていた。加えてあちこちに書架があり、巻物が積まれ、ちょっとした見本市のようだった。
「いったい、どこへ行くつもりなの?」
「すぐそこよ。――ほら?」
リリスが向こうを指さす。書架の合間に埋もれるようにして、廊下のつきあたりには扉があった。
「ここって――先生の錬庵じゃない!」
「そうよ、おじいちゃんのね」
リリスは振り向くと、後ろにいる一行を確認する。
「おじいちゃん、もといクライン導師の錬庵よ。基本的には出入り禁止なのだけれど、錬庵のわりには妙に魔法くさくないのよ」
「魔法くさくない、って、何じゃ?」
イェンの質問に、リリスも唇を曲げる。
「そうね、何て言うのかしら? ――実際に魔法が使われている感じがないというか」
「そういうことか――」
一人透明マントを被っていないセフが、ため息混じりに呟く。
「だから怪しいと思って調べてみたのよね。そしたら――ドンピシャだったのよ」
「何かがあったんですね?」
「その通り!」
ヒスイの質問に嬉しげに答えると、リリスはアトリエの重たい扉を開く。
ヒスイの想像に比して、アトリエはかなりこじんまりとした部屋だった。天井に達するほどの箪笥が三方の壁に設置されている以外は、特に見映えはしない。
「ここよ」
部屋の中央に立つと、リリスは左手を高くかかげ、静止した。左手の拳を強く握り、開く。今度は指を揃え、右から左へと水平に空を切る。ヒスイの耳元で、火のはぜるような音が一度、鳴り響いた。誰も声を発しない。
正面にある箪笥の引き出しが、ひとりでに一つ転がり落ちる。続けざまに二つ、それから三つと、引き出しは音を立てて床に転がってゆく。
最後の一つが床に落ちた。
「これは――」
ヒスイの隣で、セフが息を飲んでいる。
引き出しの向こう側には、空洞が広がっていた。后来院から、抜け道が続いていたようだ。
「こういうからくりか……!」
イェンが舌打ちする。
「じゃからあのジジイ、しょっちゅうここにおらんかったのじゃな」
「おじいちゃんの悪口はあとよ、イェンさん」
うず高く積まれた引き出しを、リリスは足で器用にどける。
「この隠れ道は、転日宮へ続いている」
洞窟で、風の音が渦を巻いている。ヒスイの目からは、暗闇しか認められない。すくむヒスイの足を奮い立たせるのは、「転日宮」という言葉だけだった。
「行かないと。……イェンさん」
透明マントを脱ぎ捨てて、いつしか、ヒスイは銃に手を掛けていた。
「私たちはここから行くわ」
「ヒスイ、まさか今行く先つもりか?!」
ヒスイの眼前に、イェンは回り込んだ。
「ならぬ、ヒスイ。こちらの準備がまだじゃ」
「確かに“軍の人は”まだよ」
ヒスイはかぶりを振る。
「でも、“私”なら大丈夫。先に転日宮へ入ってサイファを撹乱する。イェンさんたちは、あとから入ればいい。サイファもここの抜け道は知らないはず。……いつまでも準備していたら、みすみすサイファにやられるだけ」
「じゃが!」
「イェンさん、行かせて」
右手を伸ばすと、ヒスイはイェンの左手を掴んだ。互いの指と指とを、交互に絡ませる。胸のざわつきは更に増したが、それでもヒスイは自分の指に力を込めた。
「招待されたのよ、私? ……サイファにこれ以上、暇を潰させるわけにはいかないわ」
呆気にとられた表情で、イェンはヒスイを見つめていた。だが、引き止めるのは無駄と悟ったのだろう。手に力を込めて、
「必ず妾たちも征く、ヒスイ。死ぬな。死ぬでないぞ」
とだけ言った。緑青色のイェンの瞳は、凛々しく澄んでいた。
「エバ、来てくれる?」
「もちろん!」
勢い込んでエバは言った。ただ、その熱意が周囲と比べてあまりに強すぎたと感じたのか、控えめに「やってやるわ」と付け足した。
「セフも、来てくれるわよね?」
ヒスイは振り返る。言葉こそ発しなかったが、セフも力づよく頷いた。
「行っちゃったわね」
ヒスイたち三人は、もう暗闇の向こうに隠れて見えない。
「ヒスイちゃんってホント、一旦 極きめたら行動が早いわね。イェンさんの教育の成果かしら?」
微笑をもらすリリスに対して、イェンは押し黙ったままだった。
「リリスは、不安ではないかの?」
「あら、私が?」
「そうじゃ、エバのことがじゃ」
イェンは、やけにおどおどとしていた。
「イェンさん」
「な、なんじゃ?」
「イェンさんが子離れしないとダメよ。あの子たちは死なないわ。『どうしてそう言い切れるか』って? ――私達が殺させないから、でしょう?」
「そうじゃ――」
イェンは、頭を大きく二回振った。
「そうじゃ。サイファごとき殺させはせん。リリス、妾らもゆくぞ――」
「ええ、もちろん」
リリスは軽やかに頷いた。
「もちろん、そのつもりよ」