ロイの声に、ヒスイたち三人は身を硬くする。
くつろいだ姿勢を保ちながらも、ヒスイに隠れるようイェンは目配せした。
「誰じゃ?」
「督佐の陵雷でございます」
ロイの声が続く。口調は恭しかったが、卑屈な印象のない、明朗な声だった。
透明マントに身を包み、ヒスイは部屋の隅に隠れる。エバは何気ない風を装って、書架の脇に控えている。魔法使いの黌に魔法使いがいるわけだから、エバの姿は驚くほどすんなりと馴染んでいた。
セフはまったく隠れるそぶりがなかった。冷たいまなざしを、扉に向かって投げかけている。
「崔督撫のお申し立てにつき、こちらまで参上いたしました。海国従、尚書閣下にお伝えしたいことがございます」
「よろしい――入れ」
「入れ」とイェンが言うのと、扉が開け放たれるのはほとんど同時だった。
改めて見れば見るだけ、ロイは精悍さの目立つ偉丈夫だった。二重まぶたの目立つ眠そうな目つきだが、そこに潜む鳶色の瞳は、驚くほど澄んでいる。
堂々と大またで部屋に入り込んだロイは、後方にたたずんでいるセフを確認する。
ロイとセフの視線が互いに交錯した。――が、それだけだった。何事もなかったかのようにイェンに敬礼をすると、ロイは不穏げに辺りを見渡す。
「ロイ、とりあえず座れ」
言葉少なに、イェンは空いた籐椅子を示した。机に散らばった筆や紙を、器用に脇へと避ける。
「国従、ジスモンダはどこにいる?」
うって変わった口調で、ロイがぶしつけに尋ねる。
「“国璽尚書”はいま手が離せぬでの」
“国璽尚書”の語句をはっきりと発音して、イェンが応じた。
「妾が代わりに話を聞いておいてやる」
「……それはマジで言っているんですか?」
イェンの手の動きが止まった。
「なんじゃ? 妾が信用できぬか?」
「いや?」
籐椅子の背もたれに身体をあずけ、ロイはまじめくさった口調でそう答えた。
「ただ、ジスモンダは信用していない」
姿を見せないことに細心の注意を払っていたヒスイだったが、いつしかロイの話に聞き入っていた。ヒスイが遠慮して聞き出せなかったことを、ロイなら直截聞けるのかもしれない。
一瞬だけ、イェンは隣の部屋へ通じるドアを盗み見た。それから、ヒスイの隠れている辺りに視線を動かす。
「ロイ、なぜそう考えるのじゃ?」
ロイが国璽尚書を呼び捨てにすることを、特にイェンがとがめるそぶりは無かった。イェンとロイは、お互いに気質が近しいのかもしれない。
「夜襲のときに放たれた、敵方の報だ。国従も当然、ご存知かと思われる」
すぐには返事をせず、イェンは頬杖をついた。イェンの横顔は憂いを湛えているように、ヒスイには見えた。
「その質問に答えて何とする、ロイ? 妾は回りくどいのが嫌いじゃ」
「知っているのかいないのか、俺が国従に訊きたいのはそれだけだ」
ロイの物言いは大人しかったが、語気はイェンを圧倒していた。
イェンは目をつぶると、籐椅子の背もたれに身を縮こまらせる。ヒスイの目にも、イェンがロイの質問をうるさがっているのは明らかだった。
「知っておる。サイファからの言伝じゃろ?」
「なら、その名宛人は?」
イェンが口を開く前に、ロイが更にたたみ掛ける。
「サイファの言伝は、予章緋睡が名宛人だったぜ、国従」
イェンが鼻を鳴らした。
「ロイ、それはじゃな――」
「尚書閣下の話では、確か勇者の娘は死んだことになっている。サイファが送り込んだ刺客に殺害された、と。――ならどうして、言伝の名宛人が予章緋睡なんだ?」
「サイファの奴もまだ知らんのじゃろ」
「自分で刺客を送り込んでおきながら?」
あきれたと言わんばかりに、ロイが腕を投げ出した。
「だとしたら、サイファとか言う奴はとんでもない間抜けだ。無論、そいつに踊らされている俺らも相当な馬鹿だけどな」
「ロイ……」
イェンの表情が一段と険しくなる。そのとき、
「――お待ちください、御ふた方」
向かいにある扉が開け放たれ、ジスモンダがあらわれた。ジスモンダの隣には、兵卒が一人付き添っている。
ジスモンダに外傷はないようだった。しかし、おぼつかない歩きざまから、ジスモンダが消耗していることは明らかだった。
相変わらず笑う鬼のお面を被っているせいで、ジスモンダの表情は見えない。その分だけ、平然を装って歩くジスモンダの様子は痛々しかった。
手を添えようとする兵卒に、
「結構です、ありがとう」
とジスモンダは断りを告げる。その上でジスモンダは、イェンとロイのもとへやって来た。
見かねたイェンが、ジスモンダに手を差し伸べ、自分の椅子へと腰掛けさせた。座り込んだジスモンダは、そこで深く息をつく。
「ロイ殿、一部始終は隣の部屋からお聞きいたしました」
ジスモンダの言葉に、ロイはあまり良い表情をしなかった。
それでもジスモンダは話を続ける。
「今後の行動にしがらみが生じると厄介です。ロイ殿、何か思うことがおありですね? どうぞ私に、あなたの意見をお教えください」
「勇者の娘は生きている」
ロイははっきりとそう呟くと、身を乗り出して笑う鬼のお面を見つめた。誰からも反応はない。それでも、“勇者”の単語は場の空気を粛然とさせた。
「根拠はおありですか?」
ジスモンダが問い詰める。
「もちろん。……“銃”だ」
「……銃?」
「そうだ」
ロイはそこまで言葉をつなぐと、やにわに立ち上がった。
「先代の勇者が手にしていた、『矢より疾く矛より鋭い』という聖器。――俺は今までそんなしろものを信じてなかった。稲妻よりももっとすさまじい轟音と振動をともなった、強烈な力と速力を持つ武器だなんて、あまりにも馬鹿げているからな。幻だと思ってた」
「本当に幻かもしれんじゃろ」
「違うね」
イェンのぼやきを、ロイは即座に打ち消した。ロイは自分の目を指差す。
「確かに俺はこの目で見た――“何も見えなかった”ってのをな。音だけがして、それに続いてガラガラいってる化け物がはじけ飛んだ――でも、どうして化け物がはじけ飛んだのかは分からない。あれも聖器の能力だ」
ジスモンダに対して半身に構えると、ロイは左腕を前に突き出した。ヒスイが銃を構える際にとるポーズだ。体格のよいロイがやると、一層サマになる。
「射手はこんな立ち姿をしていた。女だった。そこにいるセフ、って子とさして変わんないぐらいだった。尚書、何か知ってるんだろ?」
「ロイ、そのくらいに――」
「……もし、いたとしたならば?」
イェンが会話へ割り込む前に、ジスモンダがロイに質問をした。
「もし、サイファの言っていることが本当で……サイファが血眼になって予章緋睡を捜しているのだとしたら。そして、私があなた方に黙って予章緋睡を匿かくまっていたとしたのなら――陵督佐、どうします?」
会話の成り行きを見守りつつ、ヒスイは唾を呑み込んだ。イェンは何かを言いあぐねて目を泳がせている。ジスモンダとロイを除いた四人の中で、張り詰めた緊迫感が共有される。
(ジスモンダは何を考えているのか?)
それが四人の総意だった。
「アンタをぶちのめす」
座りなおすと、ロイは言ってのけた。不遜極まりない言葉だったが、ロイが口にするのはなぜか自然なことのようだった。
「それから勇者の娘を引っ張り出して、問いつめるな。……何のために隠れているんだ、ってね」
ロイの言葉を最後にして、部屋が水を打ったように静まり返る。誰しもが、ジスモンダの次の言葉を待っていた。それはヒスイも例外ではなかった。
ジスモンダの背後に控える兵卒に、ふとヒスイは目をやる。その兵卒は顔色一つ変えず、それこそ亡霊のように佇んでいる。兵卒のうつろな瞳に、ヒスイは視線をそそぐ。兵卒の無機質な様子は、ヒスイの心を妙にざわつかせた。
「我々はヒスイに会えませんよ、陵督佐」
ジスモンダの一言が、兵卒に対するヒスイの関心を打ち壊した。ロイが眉をひそめる。
「……“会えない”?」
「そうです。死んでいるにしても、生きているにしても……」
ジスモンダは一旦深々と息をつくと、全身を籐椅子にあずけた。
「この騒動が始まっていちはやく、私と海国従は予章宮へ参りました。泰日楼がそうであったように、予章宮も既に異形の手に落ちておりました。……しかし」
さりげなく、ジスモンダはイェンに目配せした。
「肝心の、ヒスイ様の居室は真っ黒に焼け焦げており、ヒスイ様の姿は見当たりませんでした。――そうですよね、海国従?」
「そうじゃ、その通りじゃ」
いつになく瞬きをしながら、イェンが深々と頷き、ジスモンダと口裏を合わせる。
「部屋はひどい煤での。辺りには氓が山ほど黒焦げになっておった。じゃがヒスイはおらんかったの。どこかに逃げたのやもしれん」
「しかし――」
たまりかねた口調で、ロイが口を挟んだ。
「ならばどうして、勇者の娘は隠れたままなんだ?」
「ヒスイ様には、何かしら深い意図がおありなのでしょう」
ジスモンダはそう述べると、お面の下から覗く目を細める。ヒスイは揶揄された気がして、浮かない顔をした。
ロイはしばらく考え込むそぶりだったが、再びジスモンダを表面に捉えて見据える。
「じゃあ、アンタは信じるのか? 勇者の娘が生きている、って?」
「ええ……私はいつだって信じていますよ」
朗らかな口調で、ジスモンダは答える。
「それがこの国に携わる者の責務だと考えております。……ロイ殿、あなただってそうでしょう? ヒスイ様の真意は測りかねますが、もしあなたの言うとおり生きておられるのだとしたら、我々に同調してくれているのは間違いありません」
立ち上がると、やや芝居じみた動作で、ジスモンダはロイの右手を手繰り寄せた。
「そしてヒスイ様が隠れて行動するのも何か意図のあること。ならば我々もそれを尊重せねばなりますまい。うって出るにしろ、足並みを揃えるにしろ、――はたまたあなたが目にした勇者の娘が幻影であったにしろ、我々は最善を尽くさねばなりません」
ジスモンダは口をつぐんで、ロイの反応を待った。
ジスモンダの白くて細い指を、憮然とした表情でロイは見つめている。まだ、ロイは納得のいかない表情だった。それでもぎこちなく二三度頷くと、ロイは低い声で、
「分かった」
と告げた。ロイとジスモンダ、それぞれの視線が交錯するさまをヒスイは注視していた。事態を収束させようとする言葉とは裏腹に、不穏極まりない空気が二人の間に垂れ込めていた。