何かの割れる音が、ヒスイの耳に響く。
続けざまに
「起きて!」
と、エバの悲鳴が届いた。第六感が冴え渡り、ヒスイに窮地を知らせてくる。
戦慄に突き動かされ、ヒスイは飛び起きた。身体にかけていた透明マントを脱ぎ捨て、ヒスイは立ち上がろうとする。
「エバ――」
暗闇の中でそう呼びかけた直後、上半身に強い衝撃を受け、ヒスイは弾き飛ばされる。なす術も無いまま、ヒスイはしたたかと籐製の台に頭を打ちつけた。
めまいを覚えている暇さえない。足を踏みつけにしながら、何者かがヒスイの上にのしかかる。
荒く息を吐きながら、何者かは両手を広げ、ヒスイの喉元に爪をたてようとする。必死にそいつの手首を掴みながら、即座に脚を折りたたむと、ヒスイは膝で何者かの顎を打った。
何者かがひるんだ隙に、ヒスイは同じ脚で相手の頭を鋭く蹴り上げる。大げさに相手はよろめき、後ずさる。
立ち上がったヒスイの側に、吊るされていたランタンが落ちてくる。ガラスの割れる音がして、周囲に熱と、光が瞬いた。
何者かの姿が、暗闇の中であらわになる。
そいつは、氓ではなかった。着ている衣や、腰に巻いている帯は、そいつがかつて人間だったということを、惨酷にも証明していた。
頭部が着いているはずの部分は無残にも裂けている。氓のサナギと同じ青い塊が、頭の代わりを占めて陣取っていた。
怪物の頭が歪に膨らみ、光る。幼児の玩具に近い、ガラガラという音がけたたましく鳴り響いた。
ヒスイは即座に銃を掴むと、一発放つ。なおもヒスイに掴みかかろうとしていた怪物は、避けようがなかった。銃声と共に吹き飛び、怪物は動かなくなる。
ガラガラというけたたましい音が、再び鳴り響く。振り向けば、支離滅裂な歩きざまで別の化け物が迫っている。
「させるか――!」
ヒスイが銃を構えるより早く、セフが怪物の前に躍り出た。長刀を振りかぶり、怪物の喉に一閃させる。青白く刃が光った。
化け物は頭を失い、二、三よろめいてから倒れ伏した。
「ヒスイ、大丈夫?!」
「ええ、なんとか。セフ、ありがとう」
息を弾ませながら、ヒスイは答える。
「そうだ、エバは?!」
「大丈夫……ここよ」
声のする方を振り向いてみると、エバが唐突に姿を現した。最後まで透明マントを被っていたらしい。
「何がどうなってるの?」
「分からない、こっちだって訊きたいよ」
ヒスイの質問に、セフはいらだたしげに答える。火事だぁ、という声が奥から響いてくる。窓の向こう側が一瞬だけほの白くなり、怒号が建物全体を揺さぶった。
「敵襲!」
鋭い、しかし搾り出すような声が廊下に響きわたる。続けざまに、物の割れる音、切り裂かれる音、湿った音、ガラガラという不気味な音があちこちから聞こえ始めた。
「ここを出ないと――」
ポーチからタクトを取り出して、エバが構えてみせる。
「火の手が上がってるのなら、ヒスイ、ヤバイよここ」
その危険性はヒスイにもよくわかっていた。今、ヒスイたちは督撫邸の二階にいる。火の手がどこから上がったにせよ、ここでまごついている暇はない。
「后来院へ――」
声が、再び廊下に響き渡った。記憶に間違いがなければ、今の声は正午に出会った幹部の兵士だろう。
「后来院へ退却、総員急げ!」
「后来院?!」
声を抑えながら、セフがエバに訊く。
「后来院ってあの――」
「知ってるの、エバ?」
「魔術学校のことよ」
化け物の死骸を確認しながら、エバが答える。
「后来院っていうの。クライン導師様の居宅なんだけどね。広いから、大勢の人たちが魔法を学んでいるの」
「エバ、案内してくれる?」
ヒスイの言葉に、エバは黙って頷いた。
――……
廊下へ飛び出した三人は、窓から中庭を見下ろした。
中庭はすでに、惨劇の後だった。草木は血にまみれ、そこかしこに化け物と、兵士が折り重なって倒れている。
その様子は、泰日楼で見た寺院の様子に重なった。ヒスイはそっと、セフの顔を盗み見る。セフは奥歯を噛み締めているのみで、平静を装っていた。焦げ臭い臭いは、二階にいるヒスイたちのところにも漂ってきそうだった。
怪物の気配はない。しかし、人の気配もなかった。
みんなどうしたのだろう。置いてきぼりを喰わされ、ヒスイは不安だった。イェンたちは無事なのだろうか。
歩き出そうとしたヒスイは、何かに足を取られる。薄暗がりの中で目を凝らして見ると、それは化け物の死骸だった。先ほどヒスイを襲った化け物と同じく、頭部が裂け、青いみどろに塗りつぶされていた。
「気持ち悪い……」
顔をしかめ、セフが唸った。
「これも、サイファが――」
「エバ、この化け物は何なの?」
ヒスイの質問に、エバはかぶりを振った。
「分からない。こんな化け物、どこの文献にも載ってないし。……サイファが作ったのかも」
「“作った”、って」
やり場のない怒りを込め、セフが呟いた。
「こんな気持ち悪いヤツに改造されてたまるか」
「そう……ね」
エバも一段と、強く頷いた。
「行かないと!」
「――しっ!」
二人に先んじて歩いていたヒスイは、廊下の曲がり角から何者かの気配を感じた。エバとセフに手で合図し、ヒスイ自身も突き当たりの角にある小部屋に身を潜めた。ヒスイ、エバとセフ、三人は身を寄せ合って事の成り行きを見守る。
足音を立てながら、何者かは少しずつヒスイたちのほうへ近づいてくる。よく耳を澄ませば、声が聞こえてきた。
「ねぇ、声がしない?」
耳のさといセフが、声を小さくしてヒスイに尋ねた。その頃には、ヒスイも聞き取れるようになっている。
「……からの伝言です。『|予章緋睡、私は……ている』」
声の主はそう言っていた。ぶつ切りでよく聞き取れないが、ヒスイを探しているようだった。
「――誰か呼んでる!」
微かな期待を込め、エバが言った。
「出ても大丈夫かな?」
(いや、おかしい!)
ヒスイは思った。必死に首を横に振り、エバの言葉を打ち消す。リリスの言うことが本当なら、ヒスイたち三人の行動は完全に隠密のはずだ。なのに、どうして誰かが伝言を、他ならぬヒスイ本人に頼んだりなどするのだろうか。
声の主は通り過ぎ、遠ざかってゆく。ヒスイは銃を構え、音を忍ばせつつ部屋を抜け出した。エバとセフもそれぞれ、ヒスイの後ろに続く。
「……からの伝言です、」
声の主は、一定の口調で言葉を発し続ける。
「『予章緋睡、私はハ……でお前を待っている』」
抑揚のない言葉に、ヒスイたち三人は言いようのない恐怖にとらわれた。
人語を語る声の主は、明らかに人間ではない。
意を決し、ヒスイは曲がり角に飛び出す。左腕を一直線に伸ばし、声の主に照準を合わせる。
それは人間――ではなかった。いや、辛うじて脚だけは人間としての原型を保っている。
異常なのは上半身だった。上半身は赤くいびつに膨れ上がり、ぬめりけのある光沢を放っている。その表皮の上には、無数の白いイボがびっしりと並んでいた。
イボの形に目を凝らしたヒスイは、その正体に気付く。おぞましいという気持ちが、全身を駆け巡った。
表皮に思えた赤い部分は、すべて歯茎なのだ。白いものは、その歯茎を埋め尽くすようにして生えている、無数の歯だった。
まったく同じことに気付いたのか、後ろにいたエバとセフも声をあげた。ただしその声は、恐怖の気持ちからではなく、おぞましさから発せられた声だった。
「サイファ国従からの伝言です、」
怪物が“振り向き”、言葉を発した。歪に膨れ上がった体躯の、いったいどこから声が出てくるというのか。それは分からないけれども、怪物の声は明朗で、奇妙さがきわだつ。
「『予章緋睡、私は転日宮でお前を待っている』。サイファ国従からの伝言です、『予章緋睡、私は転日宮でお前を待っている』。サイファ国従からの……」