「起きなさい、ヒスイ」
目を開けるより早く、ヒスイの耳に声が届いた。それに続き、背中に衝撃が走る。
痛む背中を押さえ、ヒスイは立ち上がる。ヒスイのすぐ側に、声の主が立っていた。その人物は右足のかかとを立たせ、靴の底をヒスイに見せ付けている。どうやら寝ているヒスイを、容赦なく蹴り飛ばしたようだ。
「……また、私の夢の中へ入ってきたのね」
暗闇の中で背筋を伸ばし、ヒスイは声の主を睨んだ。二人の周囲だけがほの白いおかげで、お互いがお互いの様子を理解できた。
(それにしても、いつ眠ってしまったのだろう?)
ヒスイは記憶を反芻してみる。ジスモンダやイェンとの協議の結果、転日京への攻勢は明後日の未明に行うと決定した。そのあと「今のうちに仮眠を取るのじゃ」とイェンに言われたのだ。ならば、今は仮眠の最中だろう。
痛む頭を押さえつつ、ようやくあることにヒスイは気がついた。
目の前に立っている相手は、これまでの夢に登場してきた似姿とは違っていた。お面を被っている点は一緒だ。しかしそのお面の柄からして、そもそも違っている。それはとりどりの寒色が施された、怒る鬼のお面だった。
「そうか……」
ヒスイの頭の中で、夢と現とが全て繫がった。
「あの似姿――もしかして……」
「ええ、“ご明察”」
何者かが答える。この人物もやはり少女だ。ただ、幾分か大人びた雰囲気のある声だった。肩の位置からして、ヒスイより背は少し低い。ヒスイが今までに見たこともない、なんとも形容のしがたい衣服を身に纏っていた。
この場にもしフスが立っているとしたならば、その服が何かをすぐに答えられただろう。それは濃紺色のセーラー服である。
だが、残念ながらヒスイは知らない。
お面の少女は言葉を続ける。
「あなたの思っている通りよ。でも残念ね? 夢の中での記憶は、現実には引き継げないもの」
その言葉に、ヒスイは身構える。
「……どうしてあなたがそのことを知っているの?」
言い終わらぬうちに、ヒスイは酷い頭痛に襲われる。
「うっ……?!」
今までの夢の中では、こんな現象はなかった。
「あらあら」
苦痛にうめくヒスイを尻目に、お面の少女は肩をすくめた。
「いいのよ。あなたの夢なのだから。我慢せずとも、好きなだけ夢の中でもだえればいい」
その言い方が、ヒスイのしゃくに障った。
「――質問に答えなさい」
「知っていちゃダメかしら?」
そっけない返事をすると、その場で踊るようにお面の少女は一回転した。スカートの裾が、花びらのようにひらめく。
なけなしの記憶を手繰り寄せ、お面の少女の言葉をヒスイは推理する。
「あの娘が――似姿が言っていたわ、『私の夢の中へ“誰か”に連れてこられる』って」
「うんうん、それで?」
やけに軽いお面の少女の相槌に、ヒスイは面食らう。
「……それで、あなたがその“誰か”なのでしょう?」
「あら、凡庸ねぇ?!」
お面の少女は指を鳴らすと、心底嬉しそうにヒスイに応じる。そのセリフから皮肉めいた印象をうけ、ヒスイはむっとする。
「凡庸ですって?」
「ええ。だってそうじゃない? “勇者の娘”なんていう非凡な肩書きを貰っているくせに、そんな誰でも考えられそうな推理をするなんて。これがあなたのセリフだから好いものの、私みたいな凡人が言ったら地獄行きよ?」
「どうしてアンタが――」
それ以上のことを言いかけ、ヒスイは口をつぐんだ。ここが自分の夢の中であるということ以外、状況はまったく把握できない。第一、どうしてヒスイにしか知りえないようなことを、この少女は全て知っているのだろうか。
「どれ、答えてあげましょうか?」
押し黙ったままのヒスイに、少女がとつぜん口を開いた。
「――えっ?」
「凡人の私が、非凡なあなたを推理してあげるのよ」
腕を後ろに組むと、わざとらしく肩をいからせ、お面の少女はヒスイの周りを円を描くように歩き始める。
「うーんと、そうですねぇ。ヒスイ、あなたは今、『どうしてコイツは私のことをこんなに知っているのだろう』とか考えていたでしょう?」
それはヒスイにとって、真っ当な推理だった。
「どうして――」
「『どうして――』」
ヒスイの言葉を遮り、お面の少女は言葉を続ける。
「『どうして、私の考えていることが分かるの?』かしら、次の質問は?」
お面の少女の言い草は、いちいちヒスイをいら立たせた。それでも言っていることは的確だったので、ヒスイは黙りこくるしかない。
「そうね、そのとおりよ」
しぶしぶヒスイは答える。お面の少女は再び指を鳴らした。
――そういう率直な物言いは私の愛するところだ
サイファのだみ声が、暗闇全体を揺らした。
「今の私も、ちょうど同じ気持ちよ。どうかしら? フフン、陳腐な言い回しね、このサイファって女も」
それだけ口にすると、お面の少女はヒスイに背を向ける。お面の少女が何者かは結局分からない。それでもやり口だけは似姿と同じだった。
「――私の夢にやって来た目的は何?」
ヒスイは口にせずにはいられなかった。
「うーん、そうねぇ? 答えてあげるのも好いんだけどねぇ」
ヒスイを振り返ることもせず、お面の少女は大げさに首を傾げてみせる。お面の少女の仕草は、暇つぶしに相手をいじって楽しんでいるようだった。
苛立ちはあったが、黙ってヒスイは見守ることにする。
なおも考えあぐねている様子だったが、お面の少女は唐突に振り向くと、
「ねぇアナタ」
とヒスイに訊いてきた。
「死ぬのは怖いかしら?」
ヒスイは眉をひそめた。
「死ぬ? 私が?」
「そうよ。あなたはどう答えるのかしら?」
言葉を口にしかけたヒスイだったが、あることをふと思い立った。
「ねぇ……非凡な推理ができるのだったら、どう? 私の頭の中を読んでみない?」
「あら」
お面の向こう側にある、少女の表情はヒスイに分からない。しかしいくらか、このやり取りを少女は楽しんでいるようだった。
「いいわね、気が利いているじゃない。どれ……読んであげましょうか?」
近づいてくると、お面の少女は怒りの面相をヒスイに寄せてくる。怒りをかたどった青いお面を、済ました表情でヒスイは見つめた。
「――『どう答えれば正解か?』ね……」
ヒスイから距離をとると、たどたどしい口調で、お面の少女は答えた。
「質問に質問で返すのは禁忌よ。でも私は『そうするな』とは言わなかった」
辺りを歩き回りながら、教え諭すような調子で、お面の少女は言葉を継ぐ。
「そうね、『怖くない』なんて答えるのは最低かしら。とはいえ、『怖い』と答えるのもどうかしら? ――もっとも、怖気づいているアナタを見るのは、そそられるでしょうけれど……」
「死なないわ」
「――え?」
ヒスイの言葉は、お面の少女にとっては不意打ちだったらしい。踵を返し、お面の少女はヒスイの方を見やった。
「死ねないもの、私。死んでいる暇なんてないわ。サイファを討つ、今はそれだけよ」
「フスって子供が死んだのに?」
「死も人生の裡よ――」
言いおえてから、驚きのあまりヒスイは口をつぐんだ。次の言葉を続けることはできなかった。今の言葉は、限りなく正しいものだとヒスイは直観した。同時に、フスの存在が自分の深奥にぴったりと寄り添っている気がして、ヒスイは妙なこそばゆさも覚えた。
「フフフ――」
自分自身の答えにヒスイがまごついていると、お面の少女が唐突に笑い出した。お面の少女は肩を震わせ、俯きがちに笑っている。怒りのお面を被った人物が笑っているさまは、滑稽な印象をヒスイに与えた。
「好いわね、好い答えよ。死生を超越した唯物的な答えね。好きよ、私、そういうの。でも――」
少女の声に、初めて逡巡の色が混じった。
「なぜだろう? 同じ答えを昔、違う人間から聞いた気がする――?」
「あら、じゃあ今の答えも陳腐だったかしら?」
ヒスイの応答に答える代わりに、浅く息をつきながら、お面の少女は言葉を続けた。
「好かったわね、ヒスイ。その答えは永久にアナタの答えよ。それこそ死んでいるうちにも、生きているうちにもね」
ヒスイに背中を向け、暗闇の向こうへお面の少女は歩み去ろうとする。
思わず、その背中へヒスイは問いかける。
「私は死ぬの?」
「えぇ、じきにね」
お面の少女の答えは、天気を予想するかのように気楽な口調だった。
「ねぇアナタ、死んでから始まる物語だってあるのよ」
「それってどういう――」
しかし、それ以上をヒスイは言えなかった。お面の少女に歩み寄ろうとしたヒスイの足は、地面を踏むことがない。
(まただ)
そう思ったときにはもう、ヒスイの意識は夢から現実へと、果てしない落下を試みている最中だった。