第45話:すれちがう心

 長いこと湯船に浸かっていたヒスイだったが、次第にいたたまれなくなってくる。結局一番早く、ヒスイは風呂から引き揚げてしまった。

 服を着直し、濡れそぼった髪の毛を備え付けのタオルで拭き、ヒスイは廊下を引き返した。頭の中で、先ほどのエバの言動や、セフの仕草が渦を巻いていた。

 断崖をくり抜いて作られた窓から、日差しが差し込んでまぶしい。うつむきがちに、ヒスイは部屋まで戻る。

「お帰りなさい、ヒスイ様」

 戻ってみれば、ジスモンダはまだいる。

「いかがでしたか?」

「え?」

「温泉のことです」

 あぁ、と今更のようにヒスイは返事をした。二人の様子が気になって、お湯を楽しむどころではなかった。

「どうやら、上の空といった感じですね?」

 痛いところを突かれ、ヒスイも苦笑を返すしかなかった。その様子に、笑う鬼のお面の下から目を細め、ジスモンダも微笑みを返す。

 “ジスモンダと自分はさして年が変わらない”という事実を、その目線はヒスイに思い起こさせた。

 近くにある椅子へ、ヒスイは腰を下ろす。それからふと、ジスモンダが自分を見つめ続けていることにヒスイは気付いた。

「どうかしました?」

「いえ。――ただヒスイ様は記憶を喪っている、とイェン国従から伺ったもので」

 理由を述べたジスモンダに、ヒスイはやるせないため息で答えた。

「今は無くて困り果てています」

 これは本心からだった。しかしジスモンダは首を振る。

「それにしては大層落ち着いていらっしゃる」

(傍からはそう見えるのか?)

 ジスモンダが自分を揶揄しているのではないか、とヒスイは訝しんだ。しかしジスモンダの言葉にはそれ以上の意味は無いようだった。何より表情が読めない以上、ジスモンダに対してはヒスイの洞察力も取り付く島がなかった。

「ジスモンダ、その……どこかで私たちは会ったことがありますか?」

「えぇ。おそらくは一度ならず二度ほど」

 ジスモンダは、目を細めて笑う。

「ただ“会った”と言うよりかはむしろ“同じ場所に偶然居合わせた”と言ったほうが適切かもしれません」

 その物言いが妙に引っかかったが、ヒスイは追及しなかった。ジスモンダの話しぶりは、極端にまでヒスイと距離を取っていた。居心地の悪さをヒスイは感じ始めていた。

 ジスモンダは言葉を続ける。

「何しろヒスイ様は、予章宮におられることが常でしたから。エバ殿やセフ殿ほどにはお目にかかる機会は乏しかったように思われます。ただし――」

 一瞬逡巡し、それからジスモンダは付け加える。

「何かお役に立てることがあるならば、是非とも私にお申し付けください。勇者の娘はあなたしかおられませんので」

 うやうやしくジスモンダは礼をしてくる。それに対し、ヒスイは曖昧に頷くしかなかった。そっと自分の顔をタオルで覆い隠すと、ヒスイは唇をかんだ。ジスモンダの誠実さが、今のヒスイには苦しかった。

――……

「ハァ……」

 ジスモンダとの会話で、ヒスイが葛藤していたその頃。

 絞った自分の衣を、セフはもう一度着なおしていた。身体を良く洗ったあとに自分の服を着てみると、その生臭さに辟易としてくる。

 ヒスイが飛び出していった後も、エバとセフは湯船に浸かっていた。

 本当は、エバよりも長く湯船に浸かっているつもりだった。しかしあまりの熱さに耐え切れず、ついに先に風呂から上がってしまった。

「エバ、大丈夫かなァ?」

 セフはそうひとりごちると、長刀と氷霜剣をそれぞれ抜き放ち、刃についた余計な水分をぬぐう。“我慢”も大切な修行の一環だったから、セフはエバより先に浴槽を抜け出したときに「負けた」と思ってしまった。

 負けてしまうとくやしい。だがあれだけ熱いお湯に長く浸かれるエバは、いったいどんな神経をしているのだろう?

 氷霜剣の透き通ったきらめきが、セフの慰めになるはずだった。

 それでもセフの心は晴れない。

 あのときのエバの仕草が、セフの心にも圧し掛かってきた。

(いけない!)

 氷霜剣の光沢に映し出される自分の浮かない表情を見て、セフは首を振った。くだらない情念に惑わされている様子が、自分の顔にはっきりと現れていた。

(思えば“あのとき”も、エバに負けたのかな?)

 ヒスイもエバも知らないことを、セフは知っている。

「おお、ここに居ったか」

「イェンさん? ――」

 身体をかがめ、イェンが更衣室の入り口をくぐる。セフが来ているのと同じ黒い僧衣が、右手に握られていた。

「何じゃ、同じ服に着替えよったか。それは乾いておらぬじゃろ? ほれ」

 と、イェンはその僧衣をセフに差し出した。

「ありがとうございます。でも……」

 襦袢と帯を受け取ると、セフは首を傾げた。「この服、いったいどこで……?」

「この街の僧都から貰ったに決まっておろうが」

 イェンは答え、腕を組んだ。

泰日楼テイロスセフといったら、僧都もすぐに思い出しよったぞ」

「そうだ――」

 襦袢を穿きなおしていたセフは、そこでようやく大事なことを思い出した。

師範ダォシは? 師範はこちらにおられぬのですか?」

 イェンは表情を硬くすると、俯きがちに首を横に振った。

 期待していなかったとはいえ、改めて否定されればセフも胸が痛い。

あれも方々で出会った僧らに、イヲについては訊いてみた。じゃが誰も知らなんだ。もしかしたら、今頃はもう――」

 そこまで言いかけて、イェンもはっとする。

「いや、いや。まだ北の方は探っておらぬ。アイツのことじゃから、ふらふらと北部まで旅立ったのやも知れんし」

「いえ、大丈夫です、イェンさん。お心遣い、感謝します」

 それが、セフの搾り出せた精一杯の言葉だった。竜の島の北部は荒涼としており、山々にへばりつくようにして集落が点在しているだけだ。

 そんな辺鄙なところまで、わざわざイヲが出向くとは考え難かった。

「心遣い、と言われてもじゃな……」

 イェンはばつ悪げに、欠けてない方の角をさする。

「あながち望み薄と言うわけでもないじゃろ? 第一セフ、お前さんだって北部でイヲに拾われたのじゃから」

「えっ?」

 セフにとって初耳だった。自分がイヲに拾われたことは知っていたが、まさか北部でだったなんて。

「じゃからな、イヲがまた昔を懐かしんで、転日京から北へふらふらと出掛けおっても、何にも不思議はないはずじゃ」

(そうか……)

 記憶もおぼつかない幼児期の自分を、セフは想像した。北部のうらぶれた集落のどこかで生をけた自分。師範が拾ってくれなかったら、とっくにセフは死んでいたかもしれない。

「まったく、お前の師匠はたまげた奴じゃ」

 感心したように呟くと、イェンは近くにある籐製の椅子に腰掛けた。

「『出かける』と言って一年間ふらついたかと思ったら、『ガキを連れて来た』と言ってお前さんを連れてきおったのじゃから。僧正も妾も仰天したわ」

 話し終えると、イェンは立ち尽くしているセフの方へ向き直った。

「セフ、お前さん、答えは出たかの?」

「答え……ですか?」

 息を呑んだセフに、イェンはやさしく微笑み返す。

「そうじゃ。まさか忘れとったわけじゃあるまいに」

 セフは忘れてなどいなかった。

 サイファと対峙するにあたり、自分はどうしたいのか。下天へ潜る前に、イェンから出された課題だった。初めは何一つ頭に思い浮かばなかったセフだったが、今ならばはっきりと言える。

「私は……サイファに復讐したい」

 それが、セフの出した答えだった。イェンの眼差しに促されて、セフは饒舌になる。

「もちろんそれが……それが教えにかなったことだとは思えません。でもここで復讐することをためらったら、私、たぶんずっと後悔し続ける。もうこれ以上、こんなことで悩みたくないから――だから私、サイファのところへ行きます。これが答えです」

「うん、うん……」

 セフの明朗な言葉に、イェンも深々と頷き返した。

「そうじゃな。カオ」じゃ、セフ。|好好《カオカオ。それがお前さんの出した答えじゃ。妾が思っていたより、ずっと好い答えじゃ」

「イェンさんは、どんな答えを作ったんですか?」

「いや、お前さんのほうがずっと正しい。何よりも好いのは、セフ、お前さん、前よりも自信がついておる」

 その言葉は、セフの心を躍らせた。

「本当ですか?」

「そうじゃ。船におったときは頼りないカンジじゃったが、今はハツラツとしておる。ヒスイもお前さんみたいな友達に恵まれて幸せじゃろ?」

 無邪気に笑みをこぼしたセフだったが、ふと浴場での、ヒスイとエバの挙措きょそを思い出してしまった。

(エバ、ヒスイ……)

 あのときのエバの行為に、セフはヒスイの知らない意味を見出していた。

――……

 セフから遅れること更に数刻して、エバもようやく湯船から上がった。

 日はとっくに中天まで差し掛かり、正午を迎えている。

 ジスモンダやイェンと共に、今後のことについてヒスイは協議しているらしい。

 開いていた部屋を借り、セフはそこで刀を研いでいる。わざわざ三人のために、ジスモンダは三つ部屋をしつらえてくれたという。

 サイファが何かをしてくる気配はなかった。かといって目と鼻の先にいる以上、等閑視するわけにもいかない。

 南部の町の治安はイェンとリリスの神がかり的な奮戦で維持されている。とはいえ、転日京へ物資が滞りなく補給できるほどの体制は整っていない。

 しかも哨戒兵の報告によれば、氓と翩の数は日に日に増え続けているのだという。

――サイファは力が充実するのを待っているのではないか。

 というのが、首脳陣のもっぱらの意見だった。あたかも、太古の昔に封印された邪神が復活するかのような迷信めいた表現に、エバも人づてに話を聞いた当初は苦笑した。

 だが正直、今のエバにとっては“そんなこと”どうでもよかった。

 エバはずっと、ヒスイのことを考えている。

「エバ、そこにいるー?」

 のほほんとした声が響いてきたかと思うと、リリスが断りもなく入ってくる。なかなか乾かない自分の髪に不満だったエバは、平気で煙草を灯しながら入ってきた自分の姉に、露骨に嫌そうな顔をする。それでもリリスは、そんなことで動じる性質の人物ではなかった。

「姉さん、煙草なら外で吸ってきて」

「あら、ずいぶんイライラしているじゃない?」

 煙草の先端が煌々と光る。

「嫌なことあったら相談に乗るわよー? あたし達は家族じゃない?」

 エバは溜息をついた。

 既にリリスは何かに感づいているのだろう。リリスの言葉には、提案というよりも尋問と言った方が適切な雰囲気だった。

 ヒスイの肩にしなだれかかった自分を、エバは後悔している。

「やりすぎたかな?」

「どうして?」

「あー、いや……やっぱり姉さんには関係ない」

 リリスは大げさな表情を浮かべた。

「あら? 昔は何かあるとすぐに私に言ってくれたのに? まったく年をとると、その数だけ秘密は増えるものね」

 その言い方が、エバは癪にさわった。

「姉さん、やめてくれない?」

「その秘密は解決できるのかしら?」

 口からゆっくりと煙を吐き出し、リリスが訊く。

「あたし秘密なんか無いよ?」

「ヒスイちゃんのことでしょう」

 気持ち良さそうに煙を吐きながら、リリスが答えた。

「どう? あなたは下天でヒスイちゃんの役に立てたのかしら?」

 エバは口をつぐんだ。

 ウテーで、ミキサー室へ不用意に入っていったのは、大きなあやまちだったとエバは感じている。あのときの自分の行動さえなければ、ヒスイは怪我をしなかっただろうし、フスも死ななくて済んだかもしれない。

 デンシャの中でヒスイにおこなった必死の看病は、決してヒスイ一人のためだけではなかった。昼夜を問わなかったエバの看病は、迂闊で軽率だった自分に対する罰の意味も込められていた。

 おかげでヒスイは回復したし、記憶喪失である以外、ヒスイに変わったところはない。ただエバは、自身とヒスイとの関係が変化を来たしたことに直感的に気付いた。

――ヒスイが自分から遠ざかってしまう。

 それは本能的な気付きだった。だからこそエバは、ヒスイの気持ちを知りたがった。浴場に集ったのは絶好の機会だったが、そのチャンスをもいまは逸してしまったのだ。

「あたし、降りたほうがよかったのかな?」

 エバの不安げな問いかけに、リリスは答えず、煙草をふかしていた。

 構わずエバは喋り続ける。

「あたしがヘンなこと言わなかったら、ヒスイは下天へ行かなかっただろうし、きっと……もっといい案をイェンさんとかが出してくれただろうし、姉さんだってヒスイのこと助けられたかもしれないし、それに――」

「もし私があなたの代わりをしていたなら、ヒスイちゃんは死んでいたかもしれない」

「――えっ?」

 リリスは大げさに右手を振る。短くなった煙草が、手品のようにして消えてしまった。

「ねぇエバ、あなたが今言っていることは全部、終わってしまったことでしょ? いいじゃない。ヒスイちゃんは健康そうだし。私も、あなたとセフちゃんが無事で本当に良かったと思っているのよ。あなたとセフちゃんは、誰も真似できないようなことを成し遂げたの。あなたにはそれを誇ろうとするくらいの図々しさがあっても好いくらいなのよ?」

 エバにとっては、思ってもみなかった言葉だ。姉の方がはるかに優れていることは、他ならぬエバ自身が誰よりも良く分かっている。

(それは姉さんが強いからよ)

 思ってはみたものの、エバは結局言葉にできなかった。自分と、そしてヒスイしか知らない事情を、姉にまで理解させるのは無理な話だった。

 だからこそ、エバはリリスの優位を羨ましく思った。年をとると複雑になるのは、秘め事に限ったことではないようだった。

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