波は、次第に収まっていく。
怪物は、既に湖の底に姿を消していた。漂っていた油は燃え尽くし、わずかな炎が、蛇の舌のようになって、湖面を這っていた。
「ハァ……ハァ……」
国師廟の湖をイェンは見つめ続けていた。肩が上下するに従い、右の頭からせりだしたイェンの黒い角が、光をうけてきらめいた。
「足りぬ」
そう言うと、イェンは忌々しげに首を振った。
何が足りないのか、ヒスイには分からない。恐らくは命、あるいはヒスイに対し「配慮が足りぬ」と言ったのかもしれなかった。
思案していたヒスイの体が、突然宙に浮く。不意にイェンが近づいて、ヒスイを抱き上げたのだ。
「ちょっ……と、イェンさん?!」
長身のイェンに、ヒスイは軽々と持ち上げられてしまう。エバとセフの見ている前だったから、ヒスイは恥ずかしかった。
しかし、
「好かった――好かった」
と、無邪気に呟くイェンの前に、ヒスイはただ照れるしかなかった。
ヒスイの体を降ろすと、イェンは湖面の中央に視線を移す。
「……イェンさん?」
顔色を変えたイェンの様子を見て、ヒスイもためらいがちに口を開いた。しかし、イェンの視線は一点、島の中央にある小島に向けられている。
「鑽様――」
イェンは遠くにある小島まで、一跳びで舞い戻る。
「イェンさん?!」
慌てたエバが、箒でその後に続いた。
取り残されたヒスイとセフは、途方に暮れる間もなかった。水に濡れて重くなった体を引きずりながら、二人は小島まで歩く。
あれほど怪物が暴れ回ったというのに、表面の花が散ってしまっただけで、小島も足場も奇跡的に形を留めていた。
小島の中央で傾いている墓碑を、イェンは垂直に戻そうと腐心していた。
「ほれ、ヒスイ」
まごついているヒスイに向かって、イェンは声を掛ける。
「手伝うのじゃ!」
自分が手伝ったところでたかが知れている、とヒスイは内心思った。それでもイェンの下に潜り込むと、墓碑に背を当て、押しやるのを手伝う。
効果があったのかは分からないが、ともかく墓碑は動き、やがて真っ直ぐに小島に立った。
「よし、と」
イェンは一歩下がり、墓碑全体を眺めた。イェンの緑青色の瞳には、哀愁と寂莫の念が籠っていた。
「まったく、とんでもない置き土産じゃったな」
「あの怪物がですか?」
濡れた衣服の袖を絞りつつ、セフが尋ねる。
「そうじゃ。あの怪物はサン様が飼っておってな、確か“ショウちゃん”とか呼んでおられたな。サン様は死ぬ間際まで、アイツに小豆をやっておられた。サン様亡き後はどうしたものかと思っておったが、まさかあれほど大きくなるとはな」
「……何で小豆なんですか?」
「知らんのか?」
エバの質問に、イェンは苦笑する。
「サン様は小豆が大好きだったのじゃ。四六時中、小豆ばっか食っておった。ここにも花が咲いとるじゃろ? これも小豆の花じゃ。撒き損ねた小豆が芽吹いてしまったのじゃな」
イェンは一旦、言葉を切る。
「ままならぬものじゃて。いかにも優れたお方じゃったが、墓に入ってしまえば皆同じなのじゃから」
ため息をつくイェンを見て、イェンの気持ちをヒスイも理解した。
イェンは、七十年前のことを知っている、唯一の生き残りだ。往時を語れる友はおらず、イェンは残りの人生を孤独に生きねばならない。その辛さがどれほどのものかなど、想像に難くない。
「まぁ、よい」
イェンは言葉を絞り出し、鼻をならした。
「しかし、思いのほか早かったのう。マア、妾も急いで正解じゃったわ。二月程は掛かるものと思ったが、半分しか掛かっておらん。お前さん方は早いもんじゃ」
キツネにつままれたような表情をして、三人はお互いの顔を見合わせる。
「あの……」
と、セフが遠慮がちに口を開いた。
「私たちが下天に入ってから、何日経っているんですか?」
「ザッと四週間じゃ」
「四週間?!」
エバが声を上げた。
「嘘でしょ?! だってあたしたち……十日は掛かってないはずよ?!」
「ふむ、やはりそうか」
その言葉を聞いても、イェンに驚くそぶりは無い。
「まぁ、エバの言うことも正しかろうて。下天と上天では、時間の流れが違うようなのじゃ。実はな、妾も勇者様一行に従って下天へ入ったときはな、二ヶ月ほど中をうろうろした挙げ句、出てきた頃には二十年経っておった」
(二十年だって?)
イェンの言葉から、得体の知れない恐怖をヒスイは感じ取った。
「……危なかった」
「そうじゃな、そうかもしれん」
イェンはそれだけ言うと、背筋を伸ばした。
「さぁ、ぐずぐずしてはおられん。外へ出るのじゃ」
◇◇◇
イェンに付き従い、三人は国師廟の一階を歩く。ヒスイの思ったとおり、回り込んだ先には幅の広い道が開けていた。
「あれ……?」
前方から近づいてくる人影を、エバは興味深げに凝視する。その人影が浮遊しているのに気付き、エバは得心したように手を振った。
「姉さん!」
「早上好、エバ……調子はどう?」
相変わらず気楽な口調で妹に訊ねると、リリスは箒から降り立った。イェンに続いてリリスが登場したことで、ヒスイもセフも安堵の気持ちに包まれた。
リリスの乗る箒も、とても“箒”とは呼びがたい代物だ。太古の楽器を彷彿とさせるような太い金属棒であり、毛先に当たる部分が放射状に割けている。エバがかつて使っていたのと同じく大げさだったが、リリスのは更に大きく、太かった。
「フフフ……イェンさんの勘が当たったようね。三人とも無事で良かったわ」
右手に抱えていた荷物を、リリスはエバに差し出す。エバは受け取り、紐をほどいた。とりどりのローブが三着、三人の前に広がる。
「姉さん、このローブって?」
「“透明マント”よ。着ると外からは姿が見えなくなるの。三人とも好きな色を着なさいな。私としては、ヒスイちゃんが黄色、あなたが緑色、セフちゃんが水色、って印象なんだけどね」
「見つからないために、ですか?」
リリスに言われたとおり、水色のローブを身に付けながらセフが訊く。リリスは黙って頷いた。
「ええ。まぁ、気休めってところかも知れないけれどね。どれだけ表面を繕っても、翩には臭いでばれちゃうかも知れないし」
翩――久し振りにその名を聞いて、ヒスイは身震いをする。
「臭いはお前さんじゃろ、リリス」
イェンがわざとらしく顔をしかめてみせる。
「また一本ふかしよったな」
「いいじゃない。愉しいことなんて無いんですもの」
リリスはそうおどけてみせたが、エバがわびしげな表情をしているのを、隣でヒスイは見てしまった。
「さぁ、行きましょう。アジトへ案内するわ」
「アジト、ですか?」
袖をできる限り絞ったあとで、ヒスイはローブを纏った。“透明マント”は厚ぼったい見た目なのに、着てみると結構軽い。
「そうよ。サイファのやることがクーデターなら、私たちは対抗クーデター、ってとこかしら」
三人に着いてくるよう、リリスは合図する。
「とはいえ、対抗クーデター派の結成は、私もイェンさんも希善樹里に着いてから知ったんだけどね」
「別の人が結成した、ってこと?」
「国璽尚書、」
リリスは言った。言葉には一種の敬意が籠もっている。
「ジスモンダ、という人よ。十二国従ではないけれど、中枢でも随一の政策通だわ」
「そんな凄い人が……」
セフの呟きに、リリスは笑みをこぼした。
「ええ。でもそれだけで凄いわけじゃないのよ。だってジスモンダちゃん、ちょうどあなたたちと同じくらいの年齢よ」
「ウソでしょ?」
「いや、本当じゃ」
気味悪げに聞き返したエバに、イェンが答えた。
「ジスモンダは恐るべき知略と、勇気に長けた娘じゃ。国師様が御存命ならばさぞかし強力な右腕となっていたやもしれん。まったく『生まれる時代を間違えた』、というやつじゃな。とはいえ今の妾らにとっては強い味方じゃが」
「ジスモンダちゃん、すごい会いたがっていたわよ、ヒスイちゃんに」
「そ、そうですか……」
他に返事の仕様がなかった。イェンが褒めちぎるほどだから、相当傑出した人物なのだろう。そしてそんな人物までをも「ちゃん」づけして呼んでしまえるリリスの能天気さにも、ヒスイは舌を巻いた。
「さぁ、外へ出るわよ――」
口を閉じるように、とリリスが合図する。三人はそれを見計らい、マントに着けてあったフードを目深く被る。
国師廟の出口もまた、すごい荒み具合だった。荒れ果てた感じからいえば、それこそ下天の廃墟の群れといい勝負だろう。ただこの国師廟が唯一下天と異なるのは、ひびの合間合間から草木が芽吹き、水を享けて苔が繁茂している点だった。
瓦礫を無理やり押しのけて開いた、といった体裁の出口から、一行は外へと一歩を踏み出す。