第42.5話:失楽園

 巨大な建造物の中。

 内部に照明はない。天井に走った亀裂から、日差しが降り注いでいる。陽光は湖面に反射して幻想的な雰囲気を作り出している。

 中央の島に、一人の小柄な女性が佇んでいる。彼女は湖水へ向かってザルに入った小豆を撒き、かつ自身もそれを口にしている。

 女性、薄い小豆色の衣を身に纏い、濃い色の小豆色の帯を締めている。これらの衣服は簡素だが高級感に満ち、権力者のもつ威厳に溢れている。女性、髪の毛は肩に少し掛かる程度の長さだったが、これもやはり小豆色である。見た目は若いにもかかわらず、醸し出す雰囲気は既に壮年を超えている。

 角の生えた女が息せききってやってくる。女は紺色の衣に朱色の帯を締めている。女の、左側の角は砕けていた。

角の生えた女:サン様、サン様ー!

 小豆色づくめの、サンと呼ばれた女性、湖に小豆を撒き続けるという不可解な行動を一旦止める。サンと呼ばれた女性、やってきた角の生えた女を細い目で見つめる。

角の生えた女、迫真の口調で:サン様、どういうことにございますか?!

 サン、小首を傾げるのみで答えない。

角の生えた女:聞いていないとでもお思いでございますか?! あれはお聞き致しましたぞ、サン様はここに墓を作るつもりであると!

サン:いかにも、イェン国従こくしょう

 サン、イェン国従に応答すると、再び湖水へ向かって小豆を撒きはじめる。

 イェン国従、サンの正面へ回り込む。

 サン、澄んだ瞳でイェン国従を見つめる。その瞳の色もまた、小豆色をしている。

イェン国従:サン様、なりませぬ。何ゆえにそのようなお心づもりなのかは存じ上げませぬが、いたずらに人々を不安に陥れることは慎むべきにございます!

サン、口元をゆがめ、意地悪げな口調で:イェン国従、それは自分のために言っているな?

 イェン国従、言葉を詰まらせる。

サン:ウェイ (相対的高位の人間による自尊敬語)はその偽りを尊ばない。

イェン国従:ですが!

サン:位の授かりし天命は全うされ、じきに位の天寿も全うされる――。

 サン、左手でザルをひっくり返し、中の小豆を湖に撒く。小豆は弾幕のように空中を四散し、放射状に湖へ散らばる。

 湖面が揺らめき、一匹の異形が現れる。異形、今まさに湖底へ没しようとする小豆を、鰐のように逞しい顎を駆使して食らいつき、全てを飲み込む。

イェン国従:い、今のは?

サン、一転して打ち解けた口調で:今のはショウちゃん。

イェン国従、素っ頓狂な声で:“ショウちゃん”?!

 サン、湖面に近寄って手招きをする。

サン:ショウちゃん、おいでー。

 ショウちゃんと呼ばれた異形、湖面から首を伸ばす。サンの手に、ショウちゃんの鼻頭が触れる。

 ショウちゃん、満足げに水の中へ潜る。サン、イェン国従の方へ向き直る。

サン:キミを一人、この世界に取り残すのは忍びないよ。……この世界は地味だし、色褪せているし、つまらない。まるでじわりじわりと、孤独の最中に窒息してゆくようだ。

 イェン国従、瞳を震わせる。

イェン:あれは……取り残されるのですか?

サン:ゴメンね、イェン。

 イェン、うなだれて、膝をつく。

 サン、イェンの頭を、角を、いとおしげに撫でる。

サン:キミの心のきれいさを見ると、ボクの決心は鈍るよ。でもそろそろ退場の時間なんだ。“天に二王は要らぬ”とは、まことに正鵠を射ている。

イェン:二王……?

サン、微笑みつつ:キミの義姉ねえさんが、清潔世界から炎を滾らせて“還って”くる。

イェン:イスイ様がですか?!

サン:そうだ、イェン。

 サン、深いため息をつき、ザルに残った小豆の粒を口にする。

サン:アイツがやってきたら、ボクは殺される。

イェン、信じられぬといった表情で:まさか!

サン:宿命だ。

 サン、ザルを投げ捨てる。ザル、湖面で飛沫を上げ、湖面をたゆたい、沈む。

サン:最後の最後に、あのに先を越されてしまったね。今まではずっと、ボクの方があの娘より強かったのに。いやもしかしたら、「最後に笑うものが最もよく笑う」ためにこそ、ボクに敢えて勝ちを譲り続けていたのかもしれない。

イェン:……な、何の話にございますか?

 サン、無邪気な、かつ不敵な微笑みを見せる。

サン:一つ前の世界では、ボクが勇者であの娘が魔王だった。もう一つ前の世界では、ボクが独裁者であの娘は革命家だった。……ところがこの世界ではボクとあの娘は同じ 仲間キャラバン。『きっと何かある』、それだけはあの娘よりも早く察知したつもりなんだけどな。イスイの方が一枚上手だったよ。

イェン、躊躇いがちに:あの、その、お話がよく分からぬのですが……。

サン、朗らかに:はは、いいのさ。分からずとも結構。もっとも、死の時間を引き延ばす選択肢はいくらでもあるんだけど。ボクが最大の実力と極大の運を用いてあの娘と対決したところで、イスイの鉄腕の前にはたかが知れている。ならばさっさとこの世界から退場して、次の世界へ生まれ変わることにするよ。

 サン、右手に握りしめていた小豆を食べる。

サン:もっとも、次の世界はこの世界に輪をかけて退屈だろうけどね? ……キミもまたイスイに運命を翻弄されてしまったよ。本来ならばキミは、この世界で王者になっていても可笑しくない筈だったのに。いや、これはボクも責任の一翼を担っているのかなァ?

イェン:は、はぁ……

 サン、小首をかしげる。

 イェン、ついに話が飲み込めず、ばつ悪げに髪の毛をいじる。

サン:まぁあの娘はキミを気に入っていたから、たぶんキミは殺されまい。でもあの娘と運命を共にする以上――いやあの娘の運命に巻き込まれる以上――、キミもまた安らかなとこで往生は出来まい。

イェン、ぎょっとして:サン様、それは、戦争があるとでも仰るのですか?

 サン、黙って頷く。イェン、しばし目を丸くしている。

イェン、失笑気味に:いや、しかし、まさかそんなことはありますまい。現に今こうして、この国は平和でございますし。

サン:確かに今は平和だ。怖いくらいに、ね。

 サン、イェンを見上げる。イェン、サンの瞳から言いようのない恐怖を感じ、生唾を飲み込む。

サン:でもキミの義姉ねえさんが、イスイがそれを台無しにする。あの娘の思考を鑑みるにおそらく、イスイにとっては平和なんて一つの害毒なのだろうね。進化と脱皮のために行われる炎の洗礼が、イスイのモットーなんだよ。だから――だからキミが人生のラストスパートで目にするのは、静止的な平安の世界ではないだろうね。イスイによってもたらされる、血と、鋼と、狂奔の 失楽園サヴトピアだ。

 サン、再び口調を変える。

サン:国従、それでもなお、否だからこそ、自らの宿運にち続けるだけの精神が有るか?

 一時の沈黙。

 イェン、躊躇いがちに、しかし覚悟をもって言う。

イェン:妾は……妾はイスイ様に従います。義姉弟のちぎりを結んでから、その気持ちは変わっておりませぬ。

サン:カォ

 サン、建物全体に響き渡るような、鋭い一声をあげる。

サン:イェン、運命は幾らでも変えられるけど、宿命は絶対に変わらない。これが、ボクからできる最後の忠告だ……さぁ、王宮へ戻ろう。かりそめの平和たちが、ボクらを待っている――。

 二人、揃って建物を後にする。

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