第41話:王の眠る墓(3)

「何、何かいるの?!」

 湖面の奥に渦巻く黒い影を見て、エバが叫んだ。

 小島全体を覆い尽くせてしまうほど影は大きい。その形が水中で、緩やかに変わってゆく。

 ヒスイたちの背後で、巨大な水柱が上がった。

「尻尾!」

 驚嘆の声を上げ、セフがその水柱を指差した。

 セフの言った通り、国師廟の外壁すれすれから、柱のように太い怪物の尻尾が現れる。ヒスイはすかさず銃を構える。が、この際銃撃が何かの役に立つといえるのだろう?

 怪物の尻尾は圧倒的な質量を誇っており、水に濡れた鱗は鋼のようにきらめいている。みずちか何かなのだろうか。頭部は水面から出てこない。

「ヒスイ、あれ!」

 今度はエバが悲鳴を上げる。蛟の尾から遠く離れたところ、湖面が渦を巻くと、水の塊が一気に持ち上がった。否、現れたのは巨大な甲羅だった。

 甲羅は元来の光沢と水のぬめり、そして堆積した苔の三者でまだらに輝いている。甲羅に押し上げられた水が押し寄せ、小島に激突して飛沫をあげる。

「危ない!」

 ヒスイは身構えたが、どうすることも出来ない。飛沫がぶち当たり、三人の体を濡らす。水圧ににヒスイは突き飛ばされ、なすすべもなく島を転がった。

「セフ!」

 墓碑の陰に隠れて無事だったエバが、ヒスイの後ろに呼び掛ける。水圧をまともに喰らい、セフはかろうじて草花にしがみついている。ぬかるみに踏ん張ると、ヒスイは立ち上がってセフを助け起こす。

「ヒスイ、どうしよう」

 立ち上がるやいなや、セフが周囲を見渡して急き立てる。

「この小島……囲まれてる!」

 相変わらず頭部を潜伏させたまま、蛟は湖を游弋ゆうよくしている。亀は甲羅を浮き沈みさせ、盛んに波を立てていた。化け物同士の異種格闘技に、三人は巻き込まれてしまったのだ。ヒスイたちは追い詰められていた。このままここにいたら、湖上の藻屑となってしまう。

「上よ」

 天井を指差して、ヒスイは短く言葉を発する。「デンシャへ!」

 箒に乗って飛び立とうとしているエバを確かめ、セフと共にヒスイは足場まで駆け出す。

 小島から飛び出した刹那、湖面から黒い影が肉薄し、ヒスイとセフの行く手を塞いだ。

「もう一匹!」

 セフの声は、絶望的な響きを帯びていた。

 湖面からせりだした頭部は、蛟のものでも、亀のものでもない。長い鼻面はなづらに鋭く細かい牙――巨大でおぞましい鰐の頭部だった。赤銅色に光る爬虫類の瞳に、ヒスイとセフの姿が映し出される。鰐はヒスイたちを睨み付け、側方の亀は甲羅をくゆらせている。蛟は後ろに回っているのだろう。巨大な化け物どもが国師廟の湖にひしめいている。

「止まって!」

 怪物に「止まって欲しい」と叫んだのか、ヒスイたちに「止まれ」と合図したのか、緊迫した状況下では判断がつかない。が、上空にいるエバがタクトを降り下ろす音がした。

 ヒスイの耳元に風の唸りが届く。次の瞬間、鰐の頭部が鉄槌を食らったかのようにしなり、横へ逸れる。鰐の顎が足場を離れた。間髪入れず二人は駆け出し、間隙を縫うように次の足場へ渡る。

 ヒスイが足場を飛び立ったのと、バネのようにいかつい鰐の顎がヒスイの影を薙いだのはほぼ同時だった。足場にしたたかに頭を打ちつけたのか、鰐は苦しげな唸り声と共に頭部を振り乱すと、そのまま水の中へと姿を消してしまう。

「ヒスイ、こっち!」

 先に階下へ降り立ったエバが、二人に手招きをする。浅瀬を戦々恐々とした思いで戻り、ヒスイとセフは階段の側へたどり着く。二人の心臓は高鳴り、極度の緊張から頭はくらくらする。

 それでも恐怖の方がまだ勝っている。息を整えながら立ち上がると、三人は揃って二階へと駆け出した。

「まったく、何であんな化け物が」

 忌々しげに、セフが吐き捨てる。

「いったい、どこから入ってきたんだろう?」

「水道橋を伝ってやってきたのかしら?」

 息切れしている二人を交互に見つめながら、エバが答える。

「でも、あんなでかいのに?」

「昔は小さかったのかもよ? 三匹とも、小さいときにあそこまでやってきて、天敵も居ないだろうからその分大きくなって――」

「それは違うわ、たぶん」

 ヒスイがエバの話を遮った。鬱血を怖れ、右太腿に巻いた包帯をほどく。

「あれ、たぶん一匹の生き物よ?」

「そんな、嘘だぁ!」

 信じられないとばかりに、エバが首を横に振った。

「だって、鰐も、亀も、蛟も別々の生き物じゃない!」

「鰐の頭と、亀の胴体と、蛟みたいな尾を持っているんじゃない?」

 喋っている間に、三人は階段を登りきった。

「だってエバ、蛟の頭も、亀の頭も出てこなかったでしょう? 水の中で全部が繫がっているからじゃない?」

「でも、じゃあ、どうやって外へ出るって言うのよ?」

「考えなら有るわ」

 ヒスイはそこまで言うと、デンシャを指差した。

「デンシャには燃料がだいぶ残っていたでしょう? あれを湖にぶちまけて火をつけるの。化け物が怯むか、挽き付けられるかは分からないけど、逃げ出すチャンスはそのときしかないわ」

「もし、出来なかったら?」

 不安げな眼差しで、セフがヒスイを見つめる。

 その矢先、二階全体が大きく揺さぶられた。土ぼこりが飛び散り、床に飛散したガラスが震える。衝撃によろめき、三人は膝をついた。一階から、何かに突き上げられている。

「今度は何?!」

 辟易とした口調でエバが言い放つ。しかしそれ以上のことは起きなかった。それでも床から伝わる振動から、先ほどの怪物が荒くれているのを三人は感じ取った。

「イェンさんが居ればな」

 セフの呟きを耳にしたヒスイは、やるせない気持ちに駆られた。

 確かに、イェンがこの場に居てくれれば、事態はもっと楽だっただろう。イェンがその気になれば、三人を抱きかかえ、国師廟の壁を突き破ってそのまま外へ出られるかもしれない。

 だがイェンはこの場に居ないし、三人はイェンより非力なのだ。今はヒスイの弄するこの小細工が役立つかもしれないだろう。だがこれから先、こんな調子で敵と渡り合うことが出来るのだろうか。

 デンシャの側まで、三人は舞い戻ってくる。

 腰を屈め、床の亀裂からヒスイは一階を覗き込む。湖面は波立っていたが、怪物の姿は見受けられない。死角に居るのかもしれないし、湖底へと戻ったのかもしれない。

 先ほど落下した車両が、水面に突き刺さったまま静止していた。国師廟の静謐さに溶け込み、車輌は既に化石へと姿を変えつつあるようだった。

「あれだよね」

 右手で鼻を押さえながら、脇に転がっている一台の車両をセフが見つめる。車両からは黒々とした燃料が亀裂へと零れ落ちてゆく。

「あたしに任せて」

 ヒスイが何事かを言う前に、もうエバは行動に移っていた。車輪の側に回りこむと、エバはポーチからチョークを取り出して魔法陣を書き始める。

 思えば寺院の最奥部に入り込むときも、エバは同じ方法を試みていた。

 あのときはただぼんやりと見ていただけだったが、今もう一度見てみれば、エバの書く軌跡は素早く、線にはブレが無い。

 あっという間にエバの魔法陣は完成してしまった。

「二人とも、ちょっとこっち側に回って」

 自分の左右で待機するようエバは言うと、チョークを仕舞い込んで水筒を取り出した。水を口の中に含むと、手袋を外して、自分の両手と魔法陣に噴き付ける。

 魔法陣が水に濡れると同時に、エバは両手のひらを魔法陣に添える。その瞬間、魔法陣の周辺の空間が歪んだのをヒスイは見て取った。車両全体が、巨人に突き飛ばされた積み木のように弾ける。重心の位置が入れ替わり、油を盛大に湖へ垂れ流しながら、車両全体が湖へ転げ落ちようとする。

 獲物を虎視眈々と狙っていた怪物は、水中からでもその変化を見逃さなかった。

 鋭い破裂音と共に、湖水の一部が持ち上がり、水柱が突きだしてくる。

 水柱は豪速で二階の亀裂へ肉薄すると、今まさに一階へ落下せんとしたデンシャを一閃する。

 床の亀裂は広がり、デンシャが視界から姿を消す。と同時に、自分の足場が緩くなり、自分の体が平衡を失うのをヒスイは感じ取った。

 水のヴェールが剥がれ落ちる。怪物の頭部が、水柱から露になる。大きな口は花弁のように、極限まで広がっていた。丸太のように太い舌が、ヒスイの身体を絡め取ろうともがく。

 怪物に呑まれる寸前、ヒスイの左手にはもう銃が握られていた。

 反射的にヒスイの指はうねり、引鉄を引く。銃丸は見えないが、怪物の舌が柘榴ざくろのように水平に潰えるのだけは分かる。激痛のあまり怪物は口を閉じる。怪物の荒い鼻息が、ヒスイに吹きかかる。

 ヒスイが床の破片ごと下へ落ちようとする刹那、後方から猛駆け寄ってきたセフが、ヒスイの開いた右手を掴み取る。とっさの行動で、たぶん他にいい方法はなかっただろう。

 だが足場があまりにも悪すぎた。油にまみれた足場に、サンダル履きのセフは耐え切れない。二人は手を取り合ったまま階下へと墜落する。

 落ちる――。

 落下の時間は、間抜けなくらい長く感じる。ヒスイはすぐに身を丸め、セフを庇うように水中へ没した。水は刺すように冷たく、鼻にも水が入る。おもりにしかならぬ背嚢を水中で投げ棄てると、急いで湖上へ出ようとするセフの足を引っ張る。

 ヒスイが錯乱しているとでも思ったのか、セフは手をさしのべてくる。ヒスイはそれを断った。湖面には油の塊が浮いている。油膜を被って外へ出るわけにはいかない。差しのべられたセフの右腕を掴み、ヒスイは脇へと泳ぎ進める。

 先に沈没したデンシャが、柱と柱の間を縦に引っ掛かっていた。青白く濁った水からは、柱の根本まで視界が届かない。ただ柱は、かなり底の方から繋がっているようだった。

 落下の衝撃で全開になったドアから、二人は車内へと侵入する。

(泳げる――)

 自分が泳げることを、ヒスイは知らなかった。昔の自分が行った稽古の成果なのだろうが、手足や体の動きに集中しそうになる。無心で泳がねばならない。そして同じような心持ちに、夢の中でもなったような――。

 デンシャ全体に大きな衝撃が走り、中に居るヒスイたちも揺さぶられる。下方を覗いてみれば、鰐の頭が座席を食い千切りながらヒスイたちに近づこうとしていた。ヒスイは戦慄と同時に、自分達に執着する化け物に腹立たしささえ覚える。

 ヒスイは再び銃を引き抜いていた。

(水の中で撃てる?)

 理性が逡巡する前に、野性が行動していた。

 鞭のしなるような鋭い音が水中にこだまし、怪物の眉間が弾けた。推進力を得たヒスイとセフの体が水面へと引き上げられる。

 落下の衝撃で出来た隙間から、二人はようやく水面へ出る。初めにセフ、次にヒスイが、電車の先頭部を足場にして上に登る。

「生きてる――!」

 息を切らしながらも、セフが声を絞り出した。

 銃を片手に携えたまま、ヒスイは周囲を見渡してみる。箒に跨ったエバが半円を描くように回転しながら、そばまで下りてきた。燃料の幕はヒスイたちの左方に広がっている。

「ヒスイ!」

「まだ終わってない!」

 呼びかけたエバに、ヒスイはすぐさま言い返した。ヒスイの声に呼応するかのように、再度湖面が揺れ、湖水の奥に小康していた怪物が迫ってくる。

 映る影は大きくなり、濃くなり、ついに油膜を突き破るようにして、鰐の頭部が現れた。

 怪物の眸には、ヒスイの姿が映っている。

 それは銃を構えたヒスイの姿だった。

 銃声、――油膜は一瞬に炎へと姿を変える。炎の幕は国師廟の陰鬱を切り裂き、熱気へ昇華させる。怪物の頭部が業火に覆われる。絶叫を上げながら、怪物は頭部を湖面に叩きつけ、消火を試みる。

 もはや怪物はヒスイたちに構っていなかった。激しく暴れまわり、巨躯が湖面全体を波立たせて渦を作る。水と、炎と、煙とが二人の周囲で混ざり、ヒスイとセフの影を薙いだ。

 のたうつ炎が、ヒスイたちを舐めようとする――その瞬間。

 炎の間隙を縫って跳躍した人影が、がたつく足場に猛然と着地する。放心状態のセフを摘み上げると、セフを軽々と肩に担ぎ上げ、人影はヒスイを見やった。

 海炎ハイイェンがそこにいる。

 目つきの険しさからして、怒っているようだった。

 それでもヒスイは、さも当然のように手を差し伸べる。イェンはその手を掴みとり、しっかりと抱きかかえる。

「イェンさん!」

「行くぞ!」

 セフがようやく口にした言葉に、イェンはそれだけ答えた。

 正直、言うよりも早くイェンは飛び立っていた。

 顔に当たる風、熱気、煙や重力の衝撃に耐え切れず、ヒスイはめまいを覚える。一瞬目を開いたとき、イェンの飛び立った衝撃で、足場となっていたデンシャがひしゃげているのが見えた。

 隕石のように対岸へ着地すると、イェンは二人を地面に下ろした。覚束ない足取りで、転がるように地面に寝そべったヒスイの側に、エバが手を貸した。嗚咽しているセフの肩に手をかけると、イェンは怪物の方へ目を向けた。ヒスイはこのとき、イェンの顔が上気し、肩で息をしているのを見て取った。

 暴れまわっていた怪物は火を消し止めることに成功し、唸り声と獰猛な息を交互に吐きながら、疲れきったように湖面の中へ姿を消していった。

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