第38話:聖なる獣

 エバが目を覚ましたのは、およそ二日後のことだった。

 それまでのやつれ果てていた様子が嘘のように、エバは用意された食料をがつがつと食べた。

 食べるものを食べて一息ついたエバに、ヒスイは自分が無茶をしたこと、看病でエバに無茶をさせたことを詫びた。

 しかしエバは最後の(ヨーグルトのようなもの)を食べながら、

「いいよいいよ、ヒスイは気にしないで。それよりもヒスイが無事で良かったわ」

 と、何事もないかのように受け答えをした。拍子抜けする思いだったが、憑き物が落ちたかのようにさっぱりとしたエバの様子に、ヒスイが安心したのも事実だった。

 安堵のため息を漏らしたヒスイの脳裏に、ふとフスの言葉が蘇ってくる。

「エバはヒスイに好意を抱いている」

 今乗っているデンシャの中で、フスはヒスイにそう告げてきた。フスはあのとき、どうしてあんなことを言ったのだろう。

「ヒスイ……あたしの顔どうかした?」

「――えっ?」

 エバに訊き返され、ヒスイは我に返る。知らず知らずのうちに、ヒスイはエバの顔を凝視していたようだ。

「ううん、何でもない」

 ヒスイもエバも、互いに押し黙ってしまった。その気まずさに圧迫され、ヒスイはとっさに頭に巻かれた包帯を指差した。

「ちょっとぼーっとしてただけ。まだ本調子じゃないのかも」

「なら、まだ休んでいないと」

 背筋を伸ばすと、エバは自分の肩を揉む。

「あたしはもう平気だし……、やっぱり、ヒスイの無事が何よりよ」

 と、ヒスイの頭に巻かれた包帯を、エバが触る。それから唇の端の筋肉を緩めるように、エバは微笑んだ。フスの言葉はヒスイの脳内で渦を巻いている。エバの微笑みに対し、ヒスイは取り繕った笑みを返した。

 ヒスイが目を覚ますまでに三日、エバが目を覚ますのに二日、計五日の時間が経っている。

 三人は度々会話を試み、度々失敗した。“ウテー”での体験を記憶の隅に追いやり、そうしてできた空白の箇所を、何とかして埋めようと三人はもがいた。

 だがもがけばもがくほど、三人の会話は迂回気味になり、ぎこちなくなり、まして息苦しささえ感じ、結局はフスのことが蘇ってくる。誰しもが誰かしらに対して、気を遣っていた。

 それでも何とか三人は、以前のような会話をすることに度々成功するようになっていった。

 デンシャは海沿いの絶景を離れ、高架の上を滑走していた。下天の入り口で見かけたような、数々のねじくれた尖塔や貨車の山はもうない。かわりに幅の広い馬車道と、墳墓のように平坦でぱっとしない建造物が続いていた。

「イェンさんの言っていた“陸橋”って、これと繫がっているのかしら?」

 窓辺に身を委ねながら、エバが誰に言うともなく疑問を口にする。

 最前列の席には、フスの地図が遺されていた。それを頼りに、ヒスイは自分達がどこにいるかおおよその見当をつけている。

 海沿いを抜けた時点で、既に下天の半ばを越えているようだ。このまま北西へ突き進んでゆけば、ちょうど転日京の真南へ到達できる算段になっている。

「登らなくちゃダメみたいね」

 その日の夜、地図を確認したエバは何気なくそう口にした。

「でも……このまま高架を登っていけば、きっと転日京には――」

 出られるわよ、とヒスイが最後まで言い終わらないうちに、エバが「考えが甘い」といわんばかりにはにかんでみせた。

「ヒスイは知らなくて当然なんだけどね。結構標高の高いところにあるのよ、転日京って」

 ヒスイにとっては初耳だった。

「そうなの?」

「そうよ。まぁ、高いとはいえ三百レン(高さの単位。一人は約百八十センチ)くらいだし、馬車が通れるくらいなだらかで登るのは楽なんだけどね」

 エバはいつもの癖で、一房髪の毛を摘むと、人差し指に巻きつける。

「ただ、まぁまともに登れる場所は南側だけなのよ。西、東は断崖だし、北には銀台山ジェンデシャンがあるし……」

 そこまで聞き、下天に乗り出す前のやり取りをヒスイも思い出した。転日京に行く前に、南にある希善樹里チウゼンジュリで落ち合うようイェンはヒスイ達に言いつけていた。これも南側からしか到達できない、転日京の特殊性のせいなのだろう。

「だからこのデンシャも、転日京の南までしか行けないのね」

「たぶん、そういうこと」

「――降りたり登ったり忙しいね」

 座席に腰を下ろし、刀の手入れをしていたセフが呟いた。

「ちょっと、何でセフそんなに他人事なのよっ」

 間髪いれずにエバのツッコミが飛ぶ。

 会話が途切れた。

 更に二日経った。

 下天のかなり奥まで、デンシャは到達していた。この高架と無造作な広い道路のほかに、周囲には何もない。あとはただ、むき出しになっている洞窟の荒々しい地表があるだけである。さすがに太古の下天人類たちも、ここの開発は諦めたのだろうか。そう考えざるを得なかったが、むき出しの地表が伝える野性はヒスイを安心させた。

 時刻でいえばとっくに昼を迎えているはずだが、これほど奥まった箇所にはもう、外からの光はほとんど届かないらしい。黄昏時のような陰影に、下天は覆い尽くされていた。

 車外に身を乗り出し、ヒスイはランタンをかざしながら後方の様子を窺う。目が覚めてすぐは、身をよじることにも難儀だった。ただ今はそんなこともなくなった。ヒスイは頭の包帯を取っている。デンシャの最後尾は視野の下のほうで確認できた。坂の勾配はだんだんときつくなり始めている。

 このまま行けば確実に、デンシャは地上へ到達できる。――ヒスイがそう感じ取った矢先、

「ヒスイ、こっちに来て」

 と、セフの叫ぶ声が前列から響いてきた。ヒスイはすぐに車内へ身体を戻し、セフのもとまで駆け出した。

 セフはデンシャの操縦室にいた。操縦席の台の上には、ボタンやレバーが所狭しと並んでいる。デンシャを発進させるために触れた青いレバー以外に、ヒスイは他の部位をいじったりしなかった。ヒスイを招待したとき、フスはこの操縦室で様々な器具を操作していた。その光景がヒスイの脳内に漠然と甦ってくる。

「何よセフ、大声なんか出しちゃって」

 やや遅れて、エバもあとから着いてきた。薄暗くて代わり映えのしない下天の景色に、エバはほとほとうんざりしているところだった。

「ヒスイ、あれ見える?」

 セフはそんなエバには構わず、電車の正面を指差した。ヒスイはランタンの絞りを緩め、光を頼りに窓の向こうへ目を凝らす。視界の遥か置くには、黒くて小さな穴が口を開けていた。

「トンネル?」

「そう、トンネル」

 意気込んでそう答えると、セフはデンシャの地図を取り出した。上天と下天の境目で、進行方向を示す青い線が赤い破線によって仕切られている。

 セフの言いたいことが分かったヒスイは、大きく頷いた。

「そうか、じゃあこのままトンネルを抜ければ――」

「そう、もう上天へ出られる!」

 上天へ出られる――セフの高揚感に満ちた声を聞き、ヒスイは自分のてのひらが汗で湿るのを感じ取った。

 転日宮へおいで。貴様らを招待してやる――

 サイファの言葉が、ヒスイの脳内で蘇った。上天へ出る以上、転日京にいるサイファとの対決は間近に迫っている。

 ヒスイ達を乗せた電車が、トンネルの中へ潜る。突き抜けたような暗闇の中で、ヒスイの点したランタンのともし火だけが揺らめいていた。不意に全身に重圧がかかる。三人は即座に身構えたが、すぐにそれは、デンシャが更なる勾配へ差し掛かったためであると分かった。

「また登るのーっ?!」

「でも、その方がいいと思うよ」

 飽き飽きした口調で吐き捨てるエバを、セフが宥めた。

「登っている以上は、上天へ近づいているんだから」

「はぁ……そう、そうですか。あーぁ……」

 半ばあきれ返ったように、エバはさっさと操縦室を退きさがってしまう。ヒスイとセフも、トンネルの中では視界が利かない。仕方なく、エバのあとに続いて戻った。

 セフの言うとおり、デンシャは暗いトンネルの中を上り詰めていた。ランタンが周囲を照らすのみで、あとは完全に闇に閉ざされている。

 闇の向こう側からは、電車に据え付けられた車輪がうなり、きしむ轟音が規則的に響いてくる。暗闇で聴覚が頑張るためか、音はさっきよりも大きくなった気がした。

 緊迫感、高揚感が間延びして消え去ってゆく――、ヒスイの理性が漠然とそれを看過したとき、ふと暗闇からの音が消滅した。

 熱狂に突き上げられたかのごとく、ヒスイの全身が浮遊感に包まれる。それはヒスイに限ったことではなかった。ヒスイの手にするランタンも、その光に映し出されるエバもセフも半ば爪先立って浮遊感を堪えている。

(落ちてる――?)

 ヒスイの予測は、巨大な音と衝撃によって裏打ちされる。不意の出来事に三人は床に倒れる。ランタンの蓋が開き、燃料が漏れる。ヒスイはあわてて栓を絞って火を消した。

「うぅ、痛い……」

 非難がましく、やけにはっきりとエバは呟いた。立ち上がると、漏れた燃料をヒスイは靴底で拭く。ついでに、セフを引っ張って立たせた。

 デンシャの揺れはかなり烈しくなった。慎重に燃料を拭き取ると、ヒスイは再びランタンに火を点す。周囲がほの明かりに包まれる。

「何なのよ……ていうか、どうなってるわけ?」

 エバが不平を垂れているその間も、ヒスイは耳を済ませて外の様子を窺った。今までの車輪の音が潰え、代わりに低い太古を打ち鳴らすような小気味良い音が聞こえてくる。

「ヒスイ、この音――」

 セフが口を開きかけたそのとき、デンシャが再び揺れた。続けて紙を引き裂くような音が、デンシャの右側から漏れる。即座にヒスイは脇へ振り向き、そこへランタンの光をかざす。投げかけられた明かりは、窓を滴り落ちる水しぶきを捉えていた。

「水……?」

 ヒスイはいぶかしんで呟いたが、先ほどから響いてくるこの音は、確かに車体と水がぶつかっている音だった。この上下左右に小刻みに揺さぶられる感覚も、船に乗ったときに感じるものと考えれば間違いない。

 それにしても、いったい何が起こっているのだろうか? ――ヒスイが考えようとした矢先、デンシャの前方から光線が届き始めた。

「外だ!」

 セフがそう叫んだのと、デンシャが光に包まれるのと、どちらが早かったか。

 いずれにせよ、瞳孔を貫くほどの眩しさに、ヒスイもトンネルを飛び出したことを実感した。眩しさにやられてしまったのか、エバは隣でくしゃみをしている。

 目を開けると、ヒスイは窓辺へと寄った。思いのほか外は明るくなかった。それどころか、窓の向こう側は霧に煙っている。闇に目が慣れすぎたせいで、わずかな光にも過敏になっていたのだろうか。霧の拡散した細やかな水分に太陽の光が乱反射し、世界は七色に輝いていた。

 ヒスイは下を覗き込んだ。相変わらず線路からは水が滴っていたが、そのはるか下方に霧の層が広がっていた。雲と見紛うほどの分厚い霧に、自分がはるか上空にいるのではないかとヒスイは錯覚する。

 が、それもすぐに夢幻であると分かる。眼下に広がる霧の海から、突如として黒いものが出現した。一瞬たじろいだヒスイも、それが小高い山であると分かると、その鮮やかな出現ぶりに息を呑むだけでなく、地上へ戻ってきたという感慨を深くした。

「見て、あそこ!」

 小さく叫ぶと、車窓から見える尾根の一つをエバが指差した。言われて尾根に目を向けたヒスイは、そこに一匹の動物が立っているのを発見した。

「あれって……孟然努羚マウレンチュグリじゃない!」

「マウレン……何?」

「マウレンチュグリ! 目にした者に幸せをもたらすっていう、伝説の化け物よ」

 エバは目を輝かせている。

「うわぁ、ホントに居るんだぁ――」

 窓に釘付けになり、山の断崖からこちらを見ている孟然努羚マウレンチュグリをエバは見つめていた。

 そんなにもご利益のある存在を「化け物」呼ばわりするエバに少し鼻白んだが、とにかくヒスイもその姿を目に焼き付けようとする。孟然努羚の長い体毛は全身を覆い、山に特有の爽やかな日差しを受けて七色に輝いている。放射状に広がる角は幹のように逞しく、堂々と張り出していた。

「こっち見てるよね……怖くないのかな?」

 電車が尾根に最も接近する瞬間を狙って、セフは孟然努羚のつぶらな眸に目を合わせようと試みる。

「でも、群れてはいないんだね」

「そりゃそうよ、だって――」

 隣で喋っていたエバの声が、ふと途切れてしまった。気になったヒスイはエバの様子を確認する。エバの顔には不思議がる表情が浮かんでいた。頭の中で複雑な暗算をして難儀している学童のような表情だったが、やがて完全に真顔になった。

「エバ、どうかした?」

 心配になったヒスイが、エバに訊ねる。

「もしかして、ここって……」

 孟然努羚の姿はやがて小さくなり、霧の中へ消えてしまうわずか前に、悠然と木々の合間へと引き返してしまった。

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