第37話:海と地と

 背中を伝わる振動に揺さぶられ、ヒスイは目を覚ました。

 ウテーで度々目にした、白くて細長い照明がヒスイの目に飛び込んでくる。

「……ヒスイ?!」

 セフの声が聞こえた。ヒスイは身体を起こそうとして、すぐ隣から誰かに組み付かれる。

 とっさに振りほどこうとして――抱きしめられているのだと気付いて――相手がエバだと知って、ヒスイは体から力を抜いた。

 エバは無言のままだった。ただ、エバの体から伝わるぬくもりは、口で語るよりも遥かに能弁だった。

 エバの抱擁を、ヒスイは無邪気に受け入れる。

 どのくらい時間が経ったことだろう。エバがようやくヒスイから離れた。

 エバの顔を覗き、ヒスイはぎょっとする。エバの瞳はくすみ、顔は紙のように白く、やつれていた。目の下には隈が這っており、頬はこけていた。

 それでもエバは満足げに、小さな溜息を漏らした。

「良かった――」

 エバはか細い声で呟いた。

「へへ、ちょっとあたし疲れちゃった……少し、横になるね……」

「エバ……?!」

 言葉の最後は、ほとんどかすれて聞こえなかった。崩れ落ちそうになるエバの身体を、ヒスイはセフと共に支える。頭を走る痛みに、ヒスイは顔をしかめた。

 右目の上に、ヒスイは恐る恐る手をやった。巻かれた包帯に、指が触れる。

「ヒスイ、まだ動いちゃダメ」

 セフがエバの身体を抱き上げる。エバは起きる気配がなかった。ヒスイの看病で、エバは力尽きてしまったようだ。エバの身体を、セフは隣の座席へと寝かせた。

 窓の向こうを見て、ヒスイは息を呑む。窓の端から端を、下天に連なる幾本もの塔が水平に、ものすごい速度で移動している。

「ヒスイ?」

 手摺に掴まり、ヒスイは立ち上がろうとする。筋肉痛を数倍にしたような痛みが、ヒスイの右脚に掛かった。ボウガンに射抜かれた箇所にも、包帯はきつく締められている。

「ダメだよ、ヒスイ。まだ寝てなくちゃ――」

 とは言いつつ、セフはヒスイの体を支えた。窓辺へ寄ると、もう一度ヒスイは景色を確認する。

 ようやくヒスイも理解した。建物が移動しているのではない。自分たちが高速で下天をばく進しているのである。

 この乗り物こそ、フスがヒスイたちに遺した“デンシャ”なのである。ヒスイの身体に伝わってくる規則的な振動は、このデンシャによるものなのだ。

 陸橋を縁取る白い縁壁が、継ぎ目も見えないほどの速さで後ろへ飛び去ってゆく様は圧巻だった。馬や、魔法の箒や、とにかくヒスイの知っている全ての乗り物よりも圧倒的に速い。この速度で、もしデンシャが箱の形状をしていなかったなら、今頃恐怖で釘付けになり、とても外の景色を眺めてみようなどという気力は湧かなかったに違いない。

「……大丈夫、ヒスイ? びっくりした?」

 ヒスイをエバの側に座らせると、セフが尋ねた。

「目が覚めたらいきなりだもんね。わたしもエバも、もう慣れちゃったけれど」

 背嚢から取り出した手拭いを丸めると、セフはエバの頭の下へそれを差込む。

 何気なく視線を移したヒスイは、心臓の縮む思いがした。自分の横になっていたソファだけが黒ずんでいる。ひどく出血したのだろう。助かったのが不思議なくらいだ。

「ヒスイ、何か食べられる?」

 セフは背嚢の一つを引き寄せて、その中身をまさぐる。

「食べられる今の内に、何か食べておかないと――」

「ごめん」

 ヒスイの言葉に、セフの動作がぴたりと止まった。ゆれる電車の音が、一層静けさの密度を深くした。

「それは……エバに言ってあげて」

「ごめんなさい。……私のせいだわ」

「ヒスイ、あれは――誰のせいでもないよ。しょうがない。ヒスイがしてなかったら、わたしだって同じことをしていたと思う」

「でも迂闊だった」

 セフの言葉を最後まで聞き届けることなく、ヒスイが続けた。

「私、あの部屋からここまでのこと、何も覚えてないの。でも、私はフスを止められたし、あなたを置いてフスと何処かに行かなくたってよかった、それに――」

 初めから下天へなど行かなければよかった、ヒスイはそこまで言おうとして口をつぐんだ。ヒスイの脳内をフスが席巻する。フスは、自分を次の世界が待ち受けていると言っていた。

 あの瞬間、フスは今の世界を否定した。ウテーの人生を否定し、ヒスイたちを否定したのかもしれない。

「ヒスイ、その……そういうことは言っちゃダメだよ」

 セフはそわそわしていた。

「ヒスイがそんな弱気なのを見ると……何か、すごいわたしも不安になってくるんだ。その、記憶を失う前だって、自分を責めたりしなかったし」

「……今の私が私よ」

 言ってしまってから、ヒスイは今の言葉が、八つ当たりのようになっていたことに気付いた。

 かいがいしいほどに慌て、セフは言葉を繋ぐ。

「別に、『弱気になるな』ってわけじゃないんだけどさ、その……エバも言ってたんだ、『あたしのせいだ』って」

「エバが?」

「うん。――」

 さらに言葉を言いかけたセフだったが、ちょうどそのとき車内が一瞬にして暗くなった。ヒスイは目をつぶる。ヒスイの耳を、張りつめたような違和感が襲った。水の中で起きるような、圧力の変化だった。委縮しながらも、ヒスイは唾を飲み込み、耳の緊張を克服した。

 暗がりの中でも、デンシャは規則的に揺れながら三人を運んでいる。一時的にトンネルに突入しただけなのだと、ヒスイもようやく感づいた。

 頃合いを見計らい、セフが話を続ける。

「エバが言ってたんだ、『自分が迂闊に部屋へ飛び込んだりしなければ』って。そうすればヒスイは怪我しなかっただろうし、フスは捕まらなかっただろうし、死ぬこともなかっただろう、って」

 押し黙ったまま、ヒスイはセフの言葉に耳を傾けていた。

「だからその、私が言いたいのはさ、フスが死んだのは誰のせいでもない、ってことなんだよ。ほら……ヒスイだって覚えているでしょ? フスが死ぬ前に、何て言っていたか」

 促され、ヒスイも思い起こさないわけにはいかなかった。そのさまは克明にヒスイの記憶にこびりついている。あのときフスは言っていた、

 ――あたしは今日を生きるためだけに生きてたんだよ!

 と。

 最期にフスの見せた笑顔は、切り刻まれてミンチになったフスの死と繋がっていた。ヒスイたちが見せつけられたフスの狂気は、フスにとっては正気だったのだ。そのことを考えてみただけでも、ヒスイはやりきれない思いでいっぱいだった。

「フスは狂ってたよ」

 セフは呟くように言った。

「でも、幸せだったんだと思う」

 それっきり、二人は言葉を発しようとしなかった。今度ばかりは、トンネルの暗闇がヒスイにとって救いだった。今にも泣き出したい衝動に襲われては、ヒスイは天井を見上げた。

 遂に、デンシャがトンネルを抜けた。

 暗闇から出たヒスイ達を待ち受けていたのは、下天の土でできた天蓋と、突き抜けるような青さだった。

 ヒスイもセフも、とっさに言葉が思いつかなかい。下天の地平を、デンシャは軽やかに滑走している。

 車窓から広がっているのは、海だった。窓の向こうに、ヒスイは目をやった。

 遥か彼方まで天を覆っているかに見えた下天の天蓋は、しかし水平線が曖昧になる地点で途切れていた。

「空、空!」

 水平線の切れ目を、セフが指差した。セフの言うとおり、海が視線の下にあり、大地の天井が上にあり、それらの中間に空があった。

 本来ならば一番下に見えるはずの土が、空の雲に先駆けてもう一つの“空”を形成している。気付かないうちに逆立ちをしていたのかもしれない、と、自分の三半規管を疑いたくなるほど奇妙で雄大な光景だった。

 窓は開かないものか、と、縁に着いている金具をヒスイは引っ張った。金具から手ごたえを感じると、ヒスイはそれを上へ引っ張る。

 窓が上へスライドし、デンシャの中へ風が入ってくる。海の湿気と、潮を含んだ風だった。

 窓から顔を出し、ヒスイは辺りを見渡してみる。これほどまでにせり出した土の天井なのだ。何か土の柱か、土の壁のようなものが天井を支えているのだろう。――ヒスイはそう考え、見える範囲をくまなく観察した。しかし、柱のようなものはなかった。にわかには信じがたいが、下天の天蓋は自分の体重を見事に支えてきっているようだった。

 この天井の上に、旧街道があり、峻厳な山が嶺を連ねている――。理屈では分かっていても、この景色を見せられた後では反射的に「それは間違いだ」と言ってしまうことだろう。

(フスはこの景色を見たことがあるのだろうか)

 無重力的な景色をひとしきり楽しんでいたヒスイに、ふとそんな疑問が忍び寄ってきた。目を閉じただけで、フスの行動や言葉が蘇ってくる。フスの思い出はヒスイの脳裏に焼きつき、フスの死はヒスイの心に刻まれていた。

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