第36話:世界は君を過たない。

「フス!」

 致命的な一擲が、フスに放たれる。ダーツがフスの背中を抉り、勢いでフスは足場を転がった。金属の床に叩きつけられ、フスの動きが止まる。

 ヒスイの側で、エバが力を振り絞ってタクトを振る。フスを狙ったと思われる射手の体躯が、操り人形のようにぎこちなく爪先立ち、一瞬にして焔の柱となる。焔の柱は声を発することなく倒れ、動かなくなった。

 沈黙が、突如としてドーム全体を貫いた。ヒスイたち三人も、ウテーの住民たちも、聖域に立ち至って唖おしになった精神病者のように息を殺し、動けずにいた。

 フスだけがそんな神聖さの重心にいる。

 肺に穴が空いてしまったのか、フスはか細い息を汽笛のようにドームに響かせていた。その音はドームの描く曲線に反応し、ヒスイたちの耳元でやけに大きく鳴った。

 フスは懸命に歩き続け、銃が転がっている足場の突端までたどり着く。

「やめて――!」

 意図を察知し、ヒスイが叫ぶ。上段の手摺に手をついていたサァキャも、金縛りにあったかのように固まり、事の成り行きを見つめていた。

 しゃがむと、フスは両手でヒスイの銃を掴んだ。フスの表情が更に苦痛に歪められてゆくのが、遠くにいるヒスイからも分かる。居ても立ってもいられず、負傷した右足を引きずりながらヒスイはフェンスまで近づく。

 ヒスイは初めて、足場の下を垣間見た。

 すり鉢状の底では、巨大なプロペラが数本、高速で回転している。

 サァキャの言っていた“ミキサー”室の意味が、ここに来てヒスイにも真っ当に理解された。サァキャはヒスイ達を建物の底へ突き落とし、擦り潰すつもりなのだ。

 フスの両腕を覆う包帯が、目に見えない力によって捲れあがる。肌が露出し、フスの細くてきれいな手に亀裂が走り、血が迸り、皮が捲れて真皮が露になる。それは夏を目指して咲き誇り、冬を前にして枯れてゆく花々の様子に似ていた。捲れきった手の甲の皮は、爪が邪魔して剥け落ちることはなかった。

「お姉ちゃん!」

 銃を掴んだフスは、それをヒスイに向かって投げる。フスの手の皮が完全に剥がれ、千切れ飛ぶ。フェンスから身を乗り出すようにして、ヒスイは銃を掴む。フスの暖かい血潮に、銃は濡れていた。 

「ごめんね、お姉ちゃん。あたしやっぱり、お姉ちゃんたちと一緒に行けないや」

 こんな状況下で、全ての束縛から解放されたかのごとく、フスは朗らかに笑っていた。フスは自分の服から何かを取り出し、それをヒスイに向かって投げた。ヒスイはその鍵を受け取る。

 何か掛けてやれる声があるはず。

 なぜ自分はこうして黙っているのか。

 しかしヒスイが紡ごうとした言葉は全て、喉を上り詰める前に張り詰めすぎて、溶けていった。

「それがカギだよ。それを操縦室に差し込んで青いレバーを引けば、すぐに発進するから――」

 肩を揺らし、フスは息をしている。服は血でまみれ、吸いきれない血がフスの足元に滴る。

 フスの目は澄み渡っていた。まるで今この瞬間が奇跡そのものであるかのように、フスの瞳は強い輝きを宿していた。

「サァキャ、あたし今分かったのよ」

 階上で硬直している姉に向かい、フスは声を張り上げて叫んだ。

「あたしは今日を生きるためだけに生きてたんだよ! ――みんなありがとう! あたしは、あたしがあたしらしく生きられる世界を信じる……!」

 両手を水平に広げると、フスは足場の先端に背を向け、ヒスイ達を見た。

「さようなら、お姉ちゃん! あたしだけの世界が……あたしを待ってる!」

 そのままの姿勢で足場を踏み切ると、フスは仰向けに落下した。

 巨大なプロペラが轟音を立てて回っている。落下するフスを克明に目で追えるほど、プロペラは下にあった。

 フスの頭がプロペラに触れ、一瞬だけ縦に歪み、割れた。中身が飛び出し、真っ赤な色が飛散する。フスの腕や脚は、屠殺された家畜のように少しひきつった。骨を砕く音が、ドームに余韻を伝えながらヒスイ達にも届いた。

 プロペラは一仕事を終えて満足げに溜め息をつくと、その縁を白く赤く泡立たせて、フスの死体を呑み込んでしまった。

 今度一同を襲った沈黙は、今までの全てに増してなお沈黙だった。死の事実を認識するには、あまりにも劇的で優雅な終わり方だった。無垢と厳粛さがそこにはあった。目の前で起きたフスの死は、その絶倫のあまりにむしろ形而上的な静泌と、神秘を湛えていた。誰かが叫び出せばいい、と、誰しもが思っていた。

 銃声は、それを突き破る。

 立て続けに放たれた見えない銃丸が、呆然となって立ち尽くしていたサァキャの腸はらわたをえぐった。

 怒号がドームの全体にこだます。悲鳴が上がる。熱に浮かされたようにして、ヒスイは銃撃を開始していた。新たな隊列がドームに投入し――その気が狂わんばかりの沈鬱に躊躇する間もなく――ヒスイの銃撃を喰らう。

 先陣を切って突撃してきた女は、斧を振り上げる機会さえ与えられずヒスイの銃撃の前に倒れ伏した。崩れ落ちるその女の脇を通り抜けようとした男の脚を狙って、二発。床に踵から下だけを残して、男は奇妙なほど前につんのめって跳躍すると、フェンスを突き抜けてミキサーへと落下していった。

 ヒスイの頭に火花が散った。遅ればせながらエバの叫び声が遠くから聞こえる。遠くでヒスイを睨んでいた男が、ヒスイに向かってレンガを投げつけてきたのだ。熱い血潮が額から流れて、しかし却ってヒスイの精神を平静にする。そこで初めて、ヒスイは自分が叫んでいることに気付いた。

……――

 照準を頭に合わせて、引鉄を引く。

 それができないならば、脚を狙って転ばせる。苦しそうであろうが、そうでなかろうが、そんなことは関係ない。逃げ惑う人間を狙撃するのは簡単だった。

「やめろ――!」

 足元から男の悲痛な叫び声がする。

 ヒスイが男から奪い、振り下ろした鉄槌が、男の頭を陥没させた。

……――

 視界がかすんでいる。

 右の目元を流れてくる血を、ヒスイは無意識に掬い取っては舐めていた。塩辛くてなまくらな鉄の味に、ヒスイの舌はもう慣れてきた。

 上段に登ると、ヒスイはそこを練り歩く。覆面の食人主義者達は、身体を自分達の血の海に浸らせていた。

 ただ一人だけが、苦しげに血を吐きながら、起き上がろうとしている。その女はウテーの長だった人物で、今しがた自分の妹を挽肉にしようと画策していた人物である。

 サァキャの覆面は、血溜まりに浸かっていた。

「……おのれ――!」

 かすれた声で呻くサァキャの額に、ヒスイは銃口を突きつける。

 サァキャの顔には、あちこちに亀裂が入っていた。それは皹ひびやささくれといったかわいらしいものではなかった。それこそ肌が切り付けられたかのように裂けている。皮膚は全体的に白く、乾燥して石膏のように不気味な光沢を帯びている。そのつぎはぎをあてたような不気味な白さの中で、爬虫類のように光る黄色い瞳が、人以上にえぐみを持った執念を滾たぎらせていた。

 これが繁栄を誇った、下天人類の成れの果てである。覆面のないサァキャの顔は、惨めなものだった。

 燃えるようなサァキャの瞳に、ヒスイの姿が映る。

「アデュウ!」

 勇者の娘の声がドームにこだまし、耳元でうなる。

 銃声。

 自分の胸元に顔を埋めて、魔法使いが泣いていた。

 いや、もしかしたら魔法使いの胸元に顔を埋め、自分が泣いていたのかもしれなかった。

 操縦室の台にカギが挿し込まれ、手前にある青いレバーが引かれる。

 デンシャは弛い金属音を周囲に羽ばたかせ、重たい体を揺すりながら暗闇の心筋を削ってゆく。

 ヒスイの意識はそこで途切れる。

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