第34話:沈黙の春

 最悪の状況は、最悪のタイミングによって演出される。

 書斎を出た矢先、エバとセフの眼前にサァキャ一味が立ちはだかった。連れの男二人と交互に話し合いながら、サァキャが階段を登ってくる。

 前方で硬直しているエバ達二人組を見て、サァキャは奇異の視線を投げかけた。

「お前たち……?」

 エバとセフに予期せぬ遭遇をし、サァキャは声を発した。「どうしてここにいる?」

「サァキャ!」

 エバの発した鋭い声に、サァキャはぎらついた目を細め、首を傾げた。サァキャの視線が二人の背後に注がれているのを、エバは感じ取った。

 背後に倒れ伏したツェルツァを見て、サァキャが態度を急変させる。

「――貴様、ツェルツァを殺したな?」

「ツェルツァに殺されかけたのはわたしのほうだ!」

 セフが吐き捨て、サァキャに氷霜剣の切っ先を向けた。

 今にもサァキャに切りかからんばかりのセフの様子を見て、たじろいだのはサァキャではなくエバの方だった。何を料簡にセフがサァキャに意気込んでいるのか、エバには意図が掴めなかった。

 セフの態度に挑発の意図を感じ取ったらしい。サァキャの連れの一人が鼻を鳴らす。しかしにじり寄ろうとするその男を、ウテーの族長は手で制した。

「全く、外からの輩は本当に薬が効かないのだな」

 感心したように、サァキャが呟く。続けて何を思ったのか、サァキャは肩を震わせて笑いだし、後ろに控えている男達と視線をやり取りする。サァキャの隣で控えている男も、そのそぶりにつられて笑いだす。

 奇妙な、道化じみた笑いが廊下にこだました。並の心理状態では決してできない、そんな甲高い哄笑だった。

「まぁ、元気で何よりだ。なおさら食い甲斐があるというものだ」

 ようやく笑い終えたサァキャが、立ち尽くしている二人に向かって言葉を放つ。

 それは決定的な言葉だった。

「ケダモノ――!」

 腹の底から搾り出すようにして、セフが唸る。

(ヒスイだったらどうするだろう?)

 こんな状況の中でも、エバは一人考えていた。逃げなければならないが、上手い方法が見つからない。ヒスイなら、ヒスイだったら――

(ヒスイならば、時間を稼ぐはずだ)

 それがエバの弾き出したヒスイの“答え”だった。

「薬が効かないのはおあいにくさま」

 至極平静を装って、エバがサァキャに問いかける。

「あなたならぐっすり眠れるってこと?」

「我々に流れる血は、太古の下天人類から受け継いできたものだ」

 ほつれた右腕の包帯を縛りなおしながら、サァキャは滔々と語りだす。

「忌まわしい、呪われた血だ」

「睡眠薬が効かないことが呪われているの?」

 エバの口と頭は、方々に別々のことを成し遂げようとしていた。口ではサァキャを更によく喋るようけしかけ、頭はひたすら逃げることを考える。出入り口はサァキャ達によって塞がれている。魔法で突っ切れるだろうか? だが突っ切ったところで、上手く逃げられるとは限らない。

 ならばどうするか。サァキャの頭上に目を向けたエバは、あることを閃いた。背嚢の下部にぶら提げてある携帯箒に手を伸ばし、機会を窺う。

「先祖は“この世界”を良くするために、大量の薬を投与した」

 エバの質問には答えず、サァキャは話を続ける。

「虫を除去する薬だ。虫は病原を蔓延はびこらせ、皮膚をかぶれさせ、臓器をぼろぼろにする。……だが散布した薬は人体に深い影響を与えることになった。無論はじめはごく少量を散布していたが、薬が撒かれるにつれて、それが次々と身体に蓄積されるようになった」

「……薬を“撒く”?」

 薬を“撒く”なんて、まるで水か肥料かのように手軽な言い草だ。耳慣れない言葉の用法に、エバは顔をしかめる。その間にも手は、セフに食堂側へ寄るように合図する。セフもエバが発するシグナルに気付いたのか、氷霜剣を仕舞いつつ、自然なそぶりで食堂の扉側へと回った。

「こんな広い下天に、どうやって薬をばら撒くっていうのよ?」

「愚かしい娘!」

 サァキャはせせら笑う。

「お前達外の世界の劣等者たちは、そのような知恵も存在しないのだ。だが、まあいい……とにかく薬は散布され、人間に害が出始めた」

 サァキャが自分達を「人間」と呼ぶことに、エバは吐き気を覚えた。

「先祖の連中は害虫を除去するために虬を作り上げた……が、遅かった。既に人体の回復する手立ては無くなり、まごついているうちに却って虬が下天にのさばるようになってしまった」

 話を聞くうち、エバの頭の中でばらばらになっていた全ての出来事が連なってゆく。確かに下天には虫がいなかった。皆、虬に喰われてしまったのだろう。そしてサァキャ達ウテーの人間が身につけている覆面と包帯……身体で暴れる薬害を、何とかして押さえつけようとする健気な風習なのだ。

「我々は地下で暮らすことになった。ところが子供の数が減ってゆくにつれ、子供たちはますます虚弱になっていった。――有害な薬が、子供の体へと凝縮してゆくのだ」

 そこまで語り終えたサァキャの目は、爬虫類のごとく炯炯けいけいと輝いていた。

「だが、解決法もすぐに見つかった。毒のあるものを食べないことだ。お前たちには毒がない……食料に……ふさわしかろう?」

 サァキャ話など、エバはもう聞いていなかった。右手に込めた渾身の魔力を、サァキャの頭上に炸裂させる。狙い通り、絹を裂くような音と共に細長い照明が破裂する。照明は白い無数の破片となり、サァキャ一味に降り注ぐ。

「エバ?!」

「こっち、こっち――!」

 サァキャ一味の唸り声をよそに、セフに合図してエバは食堂へ駆け出す。食堂の窓めがけて、エバは自分の荷物を一つ放り投げた。これにも魔法がかけてある。投げられた荷物は揚力を得て窓に的中し、ガラスを四散させて外へ飛び出した。

 右手に握った箒に乗り、エバはセフの腕を自分の身体へ回させる。なりふりなど構っていられない。足に羽が生えたかのような素早さで、二人は窓の桟を蹴り上げ、外へ飛び出した。

 体が落下するときに感じる、あの心地よくも無力な浮遊感を身に纏いながら、二人は箒を頼りに放物線を描き、先に降り立っていた背嚢の上に転がり込む。背嚢をそれぞれ掴むと、二人はあうんの呼吸で一目散にバリケードの裏手へ回る。

 二人は息を殺して、台車製のバリケードの裏で成り行きを見守る。

「くそう、逃した!」

 食堂の奥から、一味の一人が憎たらしそうに声を発していた。

「探すぞ、包囲しろ! せっかくの獲物だ――」

「エバ――」

 切れかけた息を無理やり整えつつ、セフがエバを見つめた。エバはそれに無言で頷く。

 ぐずぐずしてはいられない。

 ウテー全体が、密やかな喧騒に包まれていた。地下の集会場まで戻ってきたエバとセフだったが、照明の光がすべて消えていた。代わりに、ウテーの住民たちの使う青い光が、蛍の光のように周囲に煌々としていた。夢遊病者のようにあえぎながら周囲を徘徊するウテーの人々は、生気のない目で獲物を追っていた。

 暗闇の中で、エバの派手に炸裂する魔法は危険だった。魔力の使いすぎで精根尽き果てつつあるエバを、五感を駆使してセフが誘導する。

 セフの視覚と聴覚を頼りに、二人は青い光を掻い潜る。周囲で物音がする度に、二人は身を硬くして事の成り行きをみまもった。

 それでも何とか、先程までいた小屋へたどり着く。――不思議なことに、小屋の周囲には一人も見張りがいなかった。

「ヒスイたちは、どっち?」

 小屋の手前で立ち止まると、エバが小声で訊ねた。既にエバの肌は青ざめ、額には玉のような汗が滴っていた。エバが体力を消耗していることは一目瞭然だったが、ここで歩みを止めるわけにいかない。それはエバも承知だった。

「行こう、こっち」

 セフは記憶を辿り、ヒスイの向かった先へ歩いてゆく。湾曲した地下道の湿っぽい壁に、大小幾本ものパイプが這っている。この一本道にも見張りはいない。それでも警戒して二人は先へ進む。

 やがて唐突に、この一本道が終わった。そこは行き止まりだった。

「どういうこと?」

 膝に手をつきながら、エバが尋ねる。

「しっ、待って――!」

 周囲が安全なことを確かめてから、セフは突き当たりに屈んでみる。暗がりに目を凝らせば、なるほど台車を動かした跡が残っている。何度も台車を動かすうち、跡がついてしまったのだろう。

 氷霜剣を抜き放つと、セフはその切っ先で鉄格子のネジを弾いてみた。緩みきったネジがあっけなく外れ、床に転がる。鉄格子を、セフが掴んで引っ張る。人一人が通れそうなダクトが、二人の前に姿を現した。

「ここね……」

 エバは納得して呟く。背負っていた荷物を下ろすと、ダクトの奥へと強引に押しやった。

 エバが続けざまに何かを言いかけたそのとき、ダクトの奥から銃声が響いてきた。

「おい、こっちだ!」

 エバとセフが戦慄していると、今度は後方から男の声がする。

「セフ、まずい――!」

「いや、ちょっと待って、座って!」

 パニックに陥りかけているエバを、セフが袖を引っ張り強引に座らせる。男の声は聞こえるものの、かなりくぐもっていた。遠くから聞こえてくる以上、二人に感づいたわけでは無い。――とっさにセフはそう判断する。

 セフが耳をそばだてると、今度は別の男の声がする。

「どうした?!」

 この返事は、やや遅れて聞こえてきた。案の定、男達は二人からだいぶ遠くにいるようだった。

「フスともう一人が見つかったらしい。“ミキサー”室にいるとよ。応援を呼んでくれ」

 男は切羽詰った口調だった。“ミキサー”の正体は分からなかったが、エバはその語感に胸騒ぎを感じずにはいられなかった。

「女二人に何手こずっているんだ」

 もう一人がもどかしげに怒鳴る。

「フスじゃねぇ!」

 対する男も、必死になって声を荒げる。

「仕留められるもんならテメエが仕留めてみろよ。もう一人の女、可笑しいぐらい強いぞ」

(ヒスイのことだ)

 たちどころに二人は理解して、お互いに顔を見合わせた。ヒスイはフスを庇いつつ、“ミキサー”室でウテーの住民相手に粘っているらしい。

「ええい、早くしろ!」

 もう一人の男が、脳天から迸るような大声を上げた。既に自分の怒りに自分自身を支配されている、そんな大声だった。

「フスたちに別の奴らがくっついたら厄介だぞ、止められなくなる!」

 この言葉を聞いただけで、エバもセフも俄然勇気が沸いてきた。銃声はダクトの奥から響いてくる。まずエバが先にダクトへ入り、セフが後に続く。

 ダクトを進み、二人は別の通路へと躍り出る。通路の行く手から、銃声と断末魔の悲鳴がかわるがわる響いてくる。エバとセフは音を頼りにして、ついに目的地へと辿り着いた。

「ヒスイ!」

 そこはドーム状になった、開けた場所だった。白い壁に照明の光が反射して目に痛い。足場の下から、唸りと振動音が響いてくる。ここは何の目的の部屋なのだろうか。

 扉を開いて右奥に、ヒスイが屹立していた。その脇に、台車の側にかがんだフスが見える。ヒスイは左手に銃を構え、右腕を憔悴しきった男の首に回している。男を人質に取っているのだろう。

 上の足場には、ボウガンを構え逡巡しているウテーの住民たちがいた。ヒスイは彼らを見据えている。

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