体重をかけ、金属製の荷車をフスは脇へ押しやる。裏側には、小さな入り口が隠されていた。
入り口を塞いぐ鉄格子を、フスが両手で掴む。強引に前後に引っ張ると、軋んだ音と共に鉄格子は外れた。人一人がようやくかがんで入れるほどの、小さな入り口が登場する。
「大丈夫なの?」
先に奥へ進むよう促されたヒスイは、小さな穴の中を這いつくばるようにして通り抜ける。腰につけた銃が何度も引っ掛かり、そのたびに耳障りな音を発した。
「うん、全然平気」
ヒスイが背後を盗み見ると、フスが慣れた手つきで外れた鉄格子をはめ直していた。
「あたし、何度もここを通ってるから」
言われてみるとたしかに、錆付いた通路であるにもかかわらず、ヒスイの衣装には汚れがつかなかった。何度もフスが通り抜けるうち、錆や汚れなどは拭われてしまったのだろう。
「その“デンシャ”はここからどのくらい離れているの?」
前の様子を確認しながら、ヒスイは進み続ける。通路の奥に段差が控えていた。
身体を滑らせるように、ヒスイは一段下の床に着地する。そして、あとからやって来たフスの身体を支え、下まで降ろしてやる。
「そんなに遠くはないよ。虬キュウがいたところと同じくらいの場所」
すげなく言い放つと、つぎはぎだらけの衣装のポケットから、フスは細長い形状の器具を取り出した。ツェルツァが所有していたものと同じ、小型の電灯だった。
青い光で通路を照らしながら、二人は歩いてゆく。下天人類は常に電灯を携帯しているようだった。
「――それって結構離れているんじゃない?」
フスの後ろに続きながら、ヒスイが途中から切り出した。
「ううん、平気だよ。こっちの道からだと近いんだ」
軽やかな足取りで、フスは角を曲がる。曲がってすぐのところに、扉が存在した。フスの明かりを頼りにして、ヒスイは扉を開け放つ。
扉の向こうから降り注ぐ照明の光に、ヒスイは目を細める。用心のため左右を確認してから、フスと一緒にヒスイは中へと入る。
かなり間取りの広い、開放的な空間だった。部屋はドームのような形状をしていた。天蓋の縁を取り囲むように、照明が円形に配置されている。
ヒスイ達のいる場所は、そんなドームの中段らしい。今いる地点から、もう一つ上の足場が見渡せる。光を受けて光沢を放つ白い壁が、ヒスイの目には痛かった。
眼前には幅の広い赤い橋が架かっている。中央でもう一本の橋と直角に交わっていた。
(下には何があるのだろう?)
ふとヒスイはそんなことを考える。橋の両端には、大小さまざまの瓦礫が積み重なっていた。形状からして台車の類なのだろう。それが邪魔し、とても下を覗けるような具合ではなかった。
右の手にぬくもりを感じたヒスイは、そちらを振り向いた。緊張した面持ちで、フスがヒスイの手を握っている。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないよ?」
とは言いつつも、フスは瞳だけを巡らせて周囲を窺っている。その様子を漠然と眺めていたヒスイも、あることに気付いて耳を澄ませた。低い、唸るような音がヒスイの足元、ドームの下層から響いてくるのが分かった。
「この音が気になるの?」
足元を指差し、ヒスイはフスに尋ねた。フスは首を振る。
「いや、大丈夫。この音はここを通るとき、いつも響いてるから。何だか今、誰かに見られていたような気がしたんだよね?」
全神経を集中させ、ヒスイは周囲の様子を窺ってみた。だが、他の人間がいるような気配はしない。
「……私は何も感じないわ」
「うん、平気。あたしの思い過ごしだと思う」
言い終わった後、それでもフスは不思議そうな顔をしていた。
「それに何だか、見守られている、って感じだった。……まぁ、いいか。お姉ちゃん、こっちだよ」
フスに手を引っ張られながら、ヒスイはフスの後ろに着いてゆく。
「これが……」
「うん。これが“デンシャ”だよ」
しばらく歩いた先に、それはあった。硬い石畳を一段下げて作られた溝の中に、デンシャは赤い車体を埋めてうずくまっている。
車両は溝の中を数台、一列に連なっている。どの車両にも一様に窓と、両開きの扉が据え付けてある。フスの青い光を頼りに、ヒスイは窓の向こう側に目を凝らしてみる。暗くてはっきりとは分からないが、内部にも装飾が施されているようだった。
「――こっちから来るとだいぶ近いのね」
今までの道のりを考え、ヒスイは溜息をついた。
明るく開けていたのはドームの部分だけで、通り抜けた先にはいつもと同じ地下道が続いていた。フスに連れられて辿り着いた場所は、サァキャから“カイサツ”の話を聞いた、あの場所だった。ヒスイとサァキャが通った道とは別の道を使い、二人はこのデンシャの前まで辿り着いている。
「そうなんだよね。サァキャはこっちの通路は使わないように、って命令してあるんだ」
「……フス、それってまずいんじゃない?」
「別に平気だよ。それより、ちょっと待っててね――」
ヒスイを電車の側に待たせ、フスは先んじてデンシャの左まで駆け寄る。鍵を持っているらしいフスは、扉を開けて中へと入る。
ややあって、デンシャ全体から低い震動音が発せられる。細長い地下道も、音で震える。デンシャの内側に、光が一斉に灯った。眩さに腕で顔を覆ったあと、ヒスイはもう一度内部の様子を見渡そうとした。
「さぁ、入って」
フスの声が、地下道全体から響き渡る。思わず身構えてしまったヒスイの目の前で、電車の扉が障子のようにスライドしてゆく。ヒスイは面食らったが、そのまま中へと入った。
照明の灯った内部は、ぞっとするくらい華やかだった。長いすはソファのような布地が備え付けてあり、居心地は非常に良さそうだった。照明とソファの間には用途不明の金網が設置されており、その脇にはリングが整然と配置されている。
内部の様子に見とれていると、そんなヒスイの背後でドアが閉まった。唐突に心細さを感じたヒスイは、先方遥か遠くでなにやら作業をしているフスを見やった。
作業が終了したのか、フスは前方からヒスイの下まで駆け寄ってくる。右手には紙片が握られていた。
「どう、ヒスイお姉ちゃん?」
「凄いけど……これ、どんなときに使うの?」
「電車は人や物を遠くまで運ぶためにあるんだよ。線路に沿って進めるところなら、どこまでも行けるんだ」
ソファに座り込むと、自分の膝の上にフスは地図を広げだした。さまざまな色の線が、地図には無数に書き連ねられている。
「あたし、初めはチカテツだと思ってたんだけど、どうやらもっと奥まで進めるらしいんだよね。しかも地上と繋がっているらしいし――」
同じようにソファに身体を沈めると、フスの傍らからヒスイも地図をのぞく。線は直線を描いているものもあれば、大きく蛇行して半円を描いているもの、あるいは先が二股に分かれているものもあった。やがてヒスイは、多彩で入り組んだ線全体が、薄い黒の枠に覆われていることに気付いた。
「これって……」
かなり捨象されているが、ヒスイはその黒い枠の形状に見覚えがある。地図の各所に示されている土地は、別の言語で名前が分からない。が、これは明らかに“竜の島”全体を指している。
「島全体じゃない?! このデンシャはどこまで行くの?」
「ええっと、線路がこれだから……」
フスは水色の線を指でなぞる。その指の軌跡を、ヒスイは目で追う。道の先は竜の島の中央、ヒスイの知らない地点で止まっていた。
だが、その北側がどこかは分かる。
その地点は転日京と重なっていた。
フスがその位置を指差すと、ヒスイを見つめた。
「お姉ちゃん、ここまで行くつもりなの?」
「そうよ。ここが私たちの目的地なの」
「じゃあ、このデンシャはちょうど近くまで行くね。もちろん……少しは歩かなきゃいけないけど」
と、フスは嬉しそうに微笑んだ。
ヒスイも微笑み返そうとして、ふと、こんなにたくさんのことをフスにあからさまにしてしまってよいのか、という複雑な気持ちにかられた。フスのことを無碍にはできず、しかしフスの裏手にはサァキャや“ウテー”の住民が控えていることを考えると、ヒスイは手放しに笑うことが出来なかった。
「このデンシャ、ちゃんと動くの?」
地図を折りたたむフスに、ヒスイは質問を返した。
「もちろん! あたしのできる範囲でメンテナンスはしたよ? 線路も……線路も多分壊れてはいないと思う。このデンシャ、かなり高性能だよ?」
「ほんと、フスって何でも知っているのね」
「フフ、ありがと」
いじらしく微笑んでいたフスは、途端に真顔になった。
「でも、あたしが知っている、って訳じゃないんだよね」
「フスが死ぬ前の知識、ってこと?」
「うん。チキュウって世界の。凄くキテレツで、清潔で……あぁ、ヒスイお姉ちゃんも連れてってあげたいなぁ」
昔を懐かしむ気持ちが、まだ幼いフスの声の端々から伝わってくる。言うなればフスの込めた気持ちは迫真だった。
「もう一度死んだら、元に戻れるかなぁ」
「……馬鹿なこと言わないの」
ヒスイはフスを咎めた。
そのとき、ヒスイは自分の中に根付いていたフスとの親和力の正体を悟った。ウテーに生きる運命を背負ったフスの姿は、勇者の娘として生きるよう運命づけられた自分自身に重なっていたのだ。
「フスはフスにしかなれないの。それは……辛いかもしれないけど、かけがえのないことでしょう?」
「うん……そうだよね。ありがとう。何だか弱気になってた」
フスは照れ隠しのように何度も頷くと、こう付け足した。
「それにしてもヒスイお姉ちゃんって、本当にお姉ちゃん、って感じ」
「私が?」
ヒスイは訊き返した。「お姉さんらしい」という評価は、ヒスイにとって意外だった。
「エバとかの方がお姉ちゃんらしくなかった?」
「うーん、何だろう? でも、ヒスイお姉ちゃんが誰よりもお姉ちゃんらしいと思うよ?」
フス自身も上手く言葉にできないらしく、難しい顔をしている。
「それに、エバお姉ちゃんもセフお姉ちゃんも、ヒスイのお姉ちゃんのこと、すっごく頼りにしてるっぽかったし」
「そう……」
ヒスイが返した言葉は、もうほとんど生返事に近かった。それだけ今のヒスイには、二人の信頼が重く感じられた。
「特に、エバお姉ちゃん。絶対にヒスイお姉ちゃんのこと好きだって」
(エバが?)
「好き」というあからさまな言葉は、驚きと不安の両方を伴って小波さざなみのようにヒスイに押し寄せた。フスの言葉のニュアンスは、異性相手に用いるような語気だった。
「うん、絶対にそう。エバお姉ちゃん、ヒスイお姉ちゃんのこと大好きだよ」
ヒスイの動揺に気付いていないのか、フスは確信を込めて呟いている。
「ヒスイお姉ちゃんは? ……って、確か記憶喪失なんだっけ」
無言のまま、そのことについて思いを巡らせるヒスイ。いつの間にかヒスイは、記憶が無いことに慣れてしまっていた。下天が未知の世界ズィア・インコグニタであることも、ヒスイが記憶の存在を意識しないですむことに拍車をかけていた。
(だけど本当はどうだったのか)
記憶を失う前のヒスイの日常は、今のヒスイが考えているよりもずっと非日常であるのかもしれない。
「……ねぇ、ヒスイお姉ちゃん。あたしはあたしにしかなれない、って言ってたけど、あたしが決断することは全部あたしらしさなんだよね?」
「ええ、そう」
自らを納得させるかのような厳粛さを込めて、ヒスイが返事をする。
「きっとそうなる」
「じゃあさ、あたし……」
次にフスが発するであろう言葉を、ヒスイは既に感じ取っていた。
「ヒスイお姉ちゃん達に着いていっちゃダメかな?」
ヒスイは黙ったまま、無機質な瞳でフスを見つめた。それでもフスは念を押すように、あるいはヒスイに先立つためにか、言葉を畳み掛ける。
「ねぇ、ヒスイお姉ちゃん、お願い。ここから離れられれば、あとは何だっていいの。絶対迷惑はかけないから」
声は震えていたものの、ヒスイを見つめるフスの瞳からは、確固たる意思の光が見て取れた。
「サァキャは……ウテーの奴らはやっぱりあたしとは違うんだ」
「……あまり姉妹のことを悪く言うものじゃないわよ」
眉をひそめ、ヒスイは搾り出すようにして言った。フスは静電気に触れたかのように身体を大きく震わせると、ヒスイの方へ身体を寄せて首を振った。
「ちがうよ、お姉ちゃん。……サァキャ達はもう、人間じゃない!」
フスの鋭い言葉が、ヒスイの冷徹な神経に響いた。
「何……どういうこと?」
ヒスイが改めて問い詰めると、フス先ほどまでの勢いを失って俯いてしまった。フスを勇気付けるため、フスの小さな手にヒスイは両手をかぶせる。
「フス、話して。うずくまっているだけじゃ何も分からないわ」
「お姉ちゃん……あたしのこと、軽蔑しない?」
「もちろん。約束する」
ようやく決心がついたのか、ヒスイの様子を窺いながら、フスは恐る恐る話を始めた。
フスの話が進むにつれて、ヒスイは自分自身の心が戦慄に張り詰め、歪められてゆくのを感じ取っていた。