第30話:ひねくれ者の黎明

 ヒスイは目を覚ました。

 薄暗い部屋の天井に、ヒスイの焦点が合う。すぐ側にある窓から、明かりが漏れてきている。

(ここはどこだろう?)

 起き上がろうとしたヒスイは、窓の向こうでうなる轟音の存在に気づいた。

(水の流れる音だ)

 この音を聞いた場所は、今のところ下天で一つしかない。ウテーの入口、確か“タービン”とかいう水車に似た器具が備えられた橋だ。思えばこの部屋全体も、湿気からくるかび臭さに覆われている。

(……でも、いつの間に?)

「――意味が分かっているのか、忌々しい妹!」

 向こう側から聞こえるもの凄い声が、ヒスイの思考を邪魔した。ヒスイは飛び起きる。――いや、ヒスイはそのつもりでいたのだが、体が思うように言うことを聞いてくれなかった。

 立ち上がろうとした瞬間、ヒスイの脚はもつれ、つんのめるようにして窓の縁に手をついた。背中の辺りに針金でも差し込まれてしまったかのような、妙なぎこちなさがヒスイを支配している。

 自分の不器用さに戸惑いながらも、ヒスイは慎重に、窓の向こうから様子を伺った。窓には無造作に板が嵌められていたが、その隙間から外の様子は容易に見渡せた。

 川縁に立っているのは、サァキャとフスだった。サァキャは肩を激しく上下に動かしており、息切れしているのは明白だった。フスも唇を引き結んではいたが、背筋はしっかり伸びており、一見すればフスの方が有利そうだった。

(何をやっているんだろう?)

 そうは思ってみたものの、姉妹の間に漂っている険悪な雰囲気から、二人が対立しているのは明白だった。

(あのまま飛び起きて、もし二人に見つかったら――)

 ヒスイは身の毛もよだつ思いがした。偶然とはいえ、いきなり飛び起きなかったのはかえって正解だったようだ。

 悲哀のこもった目つきで、フスはサァキャに何かを訴えている。だが、タービンの金切り声にも似た規則的な高音で、フスの声は聞こえない。

 すると、さっきのサァキャはよほどの剣幕で怒鳴っていたらしい。

(フスはあんな調子でサァキャに怒鳴られるのか)

 フスの身の上に、ヒスイは自分を重ねる。噴火的なサァキャの激昂に終始晒されていたら、命が幾つあっても足りない気がした。地下の閉塞した空間で、閉鎖的な村に住み、気まぐれな姉の憤怒に常に脅かされていたら、フスでなくとも妄想の世界に逃げ込みたくなるだろう。

「ん、ん……」

 隣で聞こえた声に、ヒスイは驚いて振り向く。見れば部屋の片隅で、セフがうずくまっていた。

「ううん、何だここ? ……あれ、ヒスイ?」

 眠気を振り払うように頭を振ると、セフはヒスイを見つめる。自分の口元に指を当てて、ヒスイは静かにするようセフに促した。

「エバは……あ、向こうか」

 ヒスイの背中側へ、セフの視線が動く。ヒスイが背後へ目をやれば、確かにエバの姿があった。目を凝らしてようやく見える暗闇に、ほとんど大文字になってエバは眠りこけている。どうしてあんなところで寝ているのだろう。

(まさかそんなに寝相が悪いのか?)

 はしたない有様だったが、ヒスイにはそれしか考えられなかった。

 そこまで考えたところで、ヒスイはあることを閃く。セフは五感が鋭い。もしかしたら、外にいる二人のやり取りも分かるかもしれない。

「ねぇセフ、外を見てくれない?」

 言われるままに外を眺めたセフは、その緊迫した様子に息を呑んだ。

「何、あの二人、喧嘩してるの?」

「そうみたいなの。セフ、何言っているか分かる?」

 頷くと、黙ってセフは耳を澄ませる。

 セフは外の様子に集中する。固唾を呑んで、ヒスイはセフの横顔を見つめる。耳をそばだてていたセフは、表情を徐々に硬くさせてゆく。

「サァキャ答えてよ……」

 二人の会話を通訳するように、セフが語り始める。

「嘘をつき通すのは馬鹿馬鹿しい……お前の考える通り……睡眠薬?」

 ヒスイとセフは互いに顔を見合わせた。サァキャとフスは、かなりまずい話をしているようだった。

 だがこれで、ヒスイの体を支配する倦怠感の正体が分かった。この重苦しい感じは、睡眠薬の名残なのだ。

 セフは再び外に意識を注ぐ。

「睡眠薬を盛った……手出し出来ぬように……約束を破るつもり? ……素晴らしいこと……私も……客人もお前も満足する……あっ」

 セフが身を乗り出した。

「ヒスイ、サァキャがどっかに行くよ。追いかける?」

 ヒスイは静かに首を振る。

「今はまだいいわ。それよりもう一回話を教えて」

「うん、分かった。ええっと――」

 自分の聞いた話を、セフはもう一度再構成する。

「とりあえず、フスが何かを問い詰めて、サァキャがしらばっくれている感じだった。私たちが余計な手出しをしないように、睡眠薬を盛った、ってサァキャが言ってた。フスがどうして、って訊くと」

 詰まった言葉を無理矢理外へ出そうとするように、セフは頭を小刻みに振るう。

「訊いたんだけどサァキャは答えなくて、私も客人もお前も満足するって答えてから、笑いながらいなくなっちゃった」

 勢い込んでそこまで話すと、セフは申し訳なさそうに俯く。

「ごめん、何だか取りとめがないよね。これ以上は分かんないや。タービンだっけ? それの音がうるさくって……」

「ううん、ありがとう。私、全然聞こえなかったから」

 やおらヒスイは立ち上がると、脇にある扉へ近づいた。

「待ってヒスイ、どうするつもり?」

「ちょっと、フスに話を訊いてみたいの」

 ドアノブを引っ張り、ヒスイは扉を開けようとする。立て付けが悪いのか、睡眠薬がまだ効いているのか、扉を開けるのがひどく難儀だった。

「じゃあ私も……」

「いや、セフはここにいて。でないと……」

 体重をかけて扉を開きながら、ヒスイは遠くで眠っているエバを見やる。心なしか、エバの位置は先ほどより動いているようだった。

「でないとエバが心配だし」

「うん、分かった――」

 セフが同意したのを確認してから、ヒスイは表へと飛び出した。

――……

「……お姉ちゃん?」

 近づいてくるヒスイの足音を、フスは敏感に察知したらしい。先ほどの決然とした様子とは打って変わって、フスは所在無さげに肩をすぼめていた。

「どうしてここにいるの?」

「フス、大丈夫?」

 お互いがかけた言葉が、お互いに違和感をもたらした。

「どうしてここにいるの?」

 ということは、ヒスイ達が橋の隅にある小屋で寝ころがされていたことに、フスは気付いていないらしい。

 ヒスイは瞬時に、フスの瞳を見つめてみた。そこにやましげな光は灯っていない。しらを切る意図はなく、どうやらフスは本心から疑問に思っているようだ。

「お姉ちゃん……ごめんなさい!」

 質問の意味を把握したらしく、フスは先んじてヒスイに謝った。

「ほら、寝るときになったらヒスイお姉ちゃん達に話しをする、ってあたし言ったじゃない?」

「うん、確かに言ってた」

 膝に手を当ててしゃがみ込むと、なるべくフスと目線を同じにしようとヒスイは努める。

「ねぇフス、そんなに怖がらなくてもいいのよ? だから……だから私に本当のことを教えてくれない?」

 ほとんど泣きそうな顔をしていたが、フスはヒスイの言うことに頷いていた。

「分かった……ヒスイのお姉ちゃん達には全部話すよ。でも――」

 そこまで話すと、フスは急に言葉を詰まらせた。何か逡巡することがあるらしい。

「いいのよ、洗いざらい、全部言ってくれて」

 そんなフスを励ますように、ヒスイはフスの顔を覗き込んだ。

「私達はフスのお姉ちゃんなんでしょ? それに、あなたには友達を助けてくれた借りがあるもの」

「あたしに……借り?」

「そうよ。虬キュウを倒したときの作戦、本当はあなたが考えたんでしょう? あの音の鳴るからくりを使って、虬をおびき寄せたのよね?」

「うん、そう……そうだよ」

 指摘されたことが嬉しかったのか、フスはうっすらと微笑んだ。

「そっか、ヒスイお姉ちゃん達には言っていなかったよね? でも……本当によかったのかなァ? あたしのせいで、ヒスイのお姉ちゃん達、ここに来る羽目になっちゃったし」

「いいのよ? 別に」

 ヒスイはフスの言葉をすぐに打ち消した。奇怪な下天の世界で、フスの人懐っこさだけがひときわ輝いて見える。

「うん、ありがとう。そう言ってくれると嬉しい。それでね――」

 フスは真剣な表情を見せた。

「ヒスイお姉ちゃんに、“デンシャ”を見せる、って言ったじゃない? あたし、その約束を果たしたいんだよね」

 そこまで言うと、フスは物悲しげな表情でヒスイから視線を反らした。

「その、お姉ちゃん達が居なくなる前に。もう、時間があんまり無いから」

(時間があまり無い?)

 それは、ヒスイ達の身に危険が及ぶということか。そんなヒスイの疑問を、フスも敏感に察知したらしい。拒まれても仕方ないといった、諦めたような笑みをヒスイに向かって投げかける。その微笑み方は、子供が身につけるべきではない、大人じみた笑みの作法だった。

 自分でもばつが悪いと思ったのか、フスは確認のためにヒスイの右手を取った。ヒスイの指に、包帯が巻かれた小さなか細い指が絡む。

 そのとき、ヒスイは猛烈な虚無感に襲われた。これからの目標が急に消え去り、今まで果たしてきた全過程が無駄と宣告されたような、宙ぶらりんの気持ちになる。

 これと同じ虚無感を、自分はかつて何度も思い知り、嫌悪したことがある、とヒスイは悟った。記憶があるときの自分は、この感触が大嫌いだった。

(なぜだろう?)

 即座にヒスイは反応することができなかった。

(フスはこんなにいい子なのに)

「お姉ちゃん……?」

 今度は、フスがヒスイの顔を覗き込む番だった。我に返ると、ヒスイは強くフスの手を握り返した。

「ううん、大丈夫よ。じゃあ、ちょっとだけ行きましょう?」

 フスと繋いだ手を離さないまま、ヒスイはおごそかに立ち上がった。

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