ヒスイは目を覚ました。
薄暗い部屋の天井に、ヒスイの焦点が合う。すぐ側にある窓から、明かりが漏れてきている。
(ここはどこだろう?)
起き上がろうとしたヒスイは、窓の向こうでうなる轟音の存在に気づいた。
(水の流れる音だ)
この音を聞いた場所は、今のところ下天で一つしかない。ウテーの入口、確か“タービン”とかいう水車に似た器具が備えられた橋だ。思えばこの部屋全体も、湿気からくるかび臭さに覆われている。
(……でも、いつの間に?)
「――意味が分かっているのか、忌々しい妹!」
向こう側から聞こえるもの凄い声が、ヒスイの思考を邪魔した。ヒスイは飛び起きる。――いや、ヒスイはそのつもりでいたのだが、体が思うように言うことを聞いてくれなかった。
立ち上がろうとした瞬間、ヒスイの脚はもつれ、つんのめるようにして窓の縁に手をついた。背中の辺りに針金でも差し込まれてしまったかのような、妙なぎこちなさがヒスイを支配している。
自分の不器用さに戸惑いながらも、ヒスイは慎重に、窓の向こうから様子を伺った。窓には無造作に板が嵌められていたが、その隙間から外の様子は容易に見渡せた。
川縁に立っているのは、サァキャとフスだった。サァキャは肩を激しく上下に動かしており、息切れしているのは明白だった。フスも唇を引き結んではいたが、背筋はしっかり伸びており、一見すればフスの方が有利そうだった。
(何をやっているんだろう?)
そうは思ってみたものの、姉妹の間に漂っている険悪な雰囲気から、二人が対立しているのは明白だった。
(あのまま飛び起きて、もし二人に見つかったら――)
ヒスイは身の毛もよだつ思いがした。偶然とはいえ、いきなり飛び起きなかったのはかえって正解だったようだ。
悲哀のこもった目つきで、フスはサァキャに何かを訴えている。だが、タービンの金切り声にも似た規則的な高音で、フスの声は聞こえない。
すると、さっきのサァキャはよほどの剣幕で怒鳴っていたらしい。
(フスはあんな調子でサァキャに怒鳴られるのか)
フスの身の上に、ヒスイは自分を重ねる。噴火的なサァキャの激昂に終始晒されていたら、命が幾つあっても足りない気がした。地下の閉塞した空間で、閉鎖的な村に住み、気まぐれな姉の憤怒に常に脅かされていたら、フスでなくとも妄想の世界に逃げ込みたくなるだろう。
「ん、ん……」
隣で聞こえた声に、ヒスイは驚いて振り向く。見れば部屋の片隅で、セフがうずくまっていた。
「ううん、何だここ? ……あれ、ヒスイ?」
眠気を振り払うように頭を振ると、セフはヒスイを見つめる。自分の口元に指を当てて、ヒスイは静かにするようセフに促した。
「エバは……あ、向こうか」
ヒスイの背中側へ、セフの視線が動く。ヒスイが背後へ目をやれば、確かにエバの姿があった。目を凝らしてようやく見える暗闇に、ほとんど大文字になってエバは眠りこけている。どうしてあんなところで寝ているのだろう。
(まさかそんなに寝相が悪いのか?)
はしたない有様だったが、ヒスイにはそれしか考えられなかった。
そこまで考えたところで、ヒスイはあることを閃く。セフは五感が鋭い。もしかしたら、外にいる二人のやり取りも分かるかもしれない。
「ねぇセフ、外を見てくれない?」
言われるままに外を眺めたセフは、その緊迫した様子に息を呑んだ。
「何、あの二人、喧嘩してるの?」
「そうみたいなの。セフ、何言っているか分かる?」
頷くと、黙ってセフは耳を澄ませる。
セフは外の様子に集中する。固唾を呑んで、ヒスイはセフの横顔を見つめる。耳をそばだてていたセフは、表情を徐々に硬くさせてゆく。
「サァキャ答えてよ……」
二人の会話を通訳するように、セフが語り始める。
「嘘をつき通すのは馬鹿馬鹿しい……お前の考える通り……睡眠薬?」
ヒスイとセフは互いに顔を見合わせた。サァキャとフスは、かなりまずい話をしているようだった。
だがこれで、ヒスイの体を支配する倦怠感の正体が分かった。この重苦しい感じは、睡眠薬の名残なのだ。
セフは再び外に意識を注ぐ。
「睡眠薬を盛った……手出し出来ぬように……約束を破るつもり? ……素晴らしいこと……私も……客人もお前も満足する……あっ」
セフが身を乗り出した。
「ヒスイ、サァキャがどっかに行くよ。追いかける?」
ヒスイは静かに首を振る。
「今はまだいいわ。それよりもう一回話を教えて」
「うん、分かった。ええっと――」
自分の聞いた話を、セフはもう一度再構成する。
「とりあえず、フスが何かを問い詰めて、サァキャがしらばっくれている感じだった。私たちが余計な手出しをしないように、睡眠薬を盛った、ってサァキャが言ってた。フスがどうして、って訊くと」
詰まった言葉を無理矢理外へ出そうとするように、セフは頭を小刻みに振るう。
「訊いたんだけどサァキャは答えなくて、私も客人もお前も満足するって答えてから、笑いながらいなくなっちゃった」
勢い込んでそこまで話すと、セフは申し訳なさそうに俯く。
「ごめん、何だか取りとめがないよね。これ以上は分かんないや。タービンだっけ? それの音がうるさくって……」
「ううん、ありがとう。私、全然聞こえなかったから」
やおらヒスイは立ち上がると、脇にある扉へ近づいた。
「待ってヒスイ、どうするつもり?」
「ちょっと、フスに話を訊いてみたいの」
ドアノブを引っ張り、ヒスイは扉を開けようとする。立て付けが悪いのか、睡眠薬がまだ効いているのか、扉を開けるのがひどく難儀だった。
「じゃあ私も……」
「いや、セフはここにいて。でないと……」
体重をかけて扉を開きながら、ヒスイは遠くで眠っているエバを見やる。心なしか、エバの位置は先ほどより動いているようだった。
「でないとエバが心配だし」
「うん、分かった――」
セフが同意したのを確認してから、ヒスイは表へと飛び出した。
――……
「……お姉ちゃん?」
近づいてくるヒスイの足音を、フスは敏感に察知したらしい。先ほどの決然とした様子とは打って変わって、フスは所在無さげに肩をすぼめていた。
「どうしてここにいるの?」
「フス、大丈夫?」
お互いがかけた言葉が、お互いに違和感をもたらした。
「どうしてここにいるの?」
ということは、ヒスイ達が橋の隅にある小屋で寝ころがされていたことに、フスは気付いていないらしい。
ヒスイは瞬時に、フスの瞳を見つめてみた。そこにやましげな光は灯っていない。しらを切る意図はなく、どうやらフスは本心から疑問に思っているようだ。
「お姉ちゃん……ごめんなさい!」
質問の意味を把握したらしく、フスは先んじてヒスイに謝った。
「ほら、寝るときになったらヒスイお姉ちゃん達に話しをする、ってあたし言ったじゃない?」
「うん、確かに言ってた」
膝に手を当ててしゃがみ込むと、なるべくフスと目線を同じにしようとヒスイは努める。
「ねぇフス、そんなに怖がらなくてもいいのよ? だから……だから私に本当のことを教えてくれない?」
ほとんど泣きそうな顔をしていたが、フスはヒスイの言うことに頷いていた。
「分かった……ヒスイのお姉ちゃん達には全部話すよ。でも――」
そこまで話すと、フスは急に言葉を詰まらせた。何か逡巡することがあるらしい。
「いいのよ、洗いざらい、全部言ってくれて」
そんなフスを励ますように、ヒスイはフスの顔を覗き込んだ。
「私達はフスのお姉ちゃんなんでしょ? それに、あなたには友達を助けてくれた借りがあるもの」
「あたしに……借り?」
「そうよ。虬キュウを倒したときの作戦、本当はあなたが考えたんでしょう? あの音の鳴るからくりを使って、虬をおびき寄せたのよね?」
「うん、そう……そうだよ」
指摘されたことが嬉しかったのか、フスはうっすらと微笑んだ。
「そっか、ヒスイお姉ちゃん達には言っていなかったよね? でも……本当によかったのかなァ? あたしのせいで、ヒスイのお姉ちゃん達、ここに来る羽目になっちゃったし」
「いいのよ? 別に」
ヒスイはフスの言葉をすぐに打ち消した。奇怪な下天の世界で、フスの人懐っこさだけがひときわ輝いて見える。
「うん、ありがとう。そう言ってくれると嬉しい。それでね――」
フスは真剣な表情を見せた。
「ヒスイお姉ちゃんに、“デンシャ”を見せる、って言ったじゃない? あたし、その約束を果たしたいんだよね」
そこまで言うと、フスは物悲しげな表情でヒスイから視線を反らした。
「その、お姉ちゃん達が居なくなる前に。もう、時間があんまり無いから」
(時間があまり無い?)
それは、ヒスイ達の身に危険が及ぶということか。そんなヒスイの疑問を、フスも敏感に察知したらしい。拒まれても仕方ないといった、諦めたような笑みをヒスイに向かって投げかける。その微笑み方は、子供が身につけるべきではない、大人じみた笑みの作法だった。
自分でもばつが悪いと思ったのか、フスは確認のためにヒスイの右手を取った。ヒスイの指に、包帯が巻かれた小さなか細い指が絡む。
そのとき、ヒスイは猛烈な虚無感に襲われた。これからの目標が急に消え去り、今まで果たしてきた全過程が無駄と宣告されたような、宙ぶらりんの気持ちになる。
これと同じ虚無感を、自分はかつて何度も思い知り、嫌悪したことがある、とヒスイは悟った。記憶があるときの自分は、この感触が大嫌いだった。
(なぜだろう?)
即座にヒスイは反応することができなかった。
(フスはこんなにいい子なのに)
「お姉ちゃん……?」
今度は、フスがヒスイの顔を覗き込む番だった。我に返ると、ヒスイは強くフスの手を握り返した。
「ううん、大丈夫よ。じゃあ、ちょっとだけ行きましょう?」
フスと繋いだ手を離さないまま、ヒスイはおごそかに立ち上がった。