タービンの回る地下の川岸に、サァキャは一人佇んでいた。
錆び付いた手摺に肘をつき、サァキャは先ほどから物思いに耽っている。タービンのうなる単調な音は、瞑想を捗らせるのに好都合だった。
一人きりでいるときでも、“ウテー”の住民は覆面を脱がない。べつに呪術的な風習が“ウテー”にあるわけではない。もちろんそうした側面もあるだろうが、本来の目的は住民を守るためにあった。日差しの当たらない下天の住民は、肌が極端に乾燥に弱い。だから常に、体を布で覆っている必要があった。
もっとも、サァキャの妹だけは例外だったが。
フスのことに思いを馳せ、サァキャはため息をつく。自分の血と肉が分かたれた妹だというのに、サァキャはフスを愛することができなかった。フスは覆面を嫌い、慣習を無視し、現状から逃げ出して夢の殻に籠り、その妄想を精緻化する。
剥き出しになったフスの素顔を見るたび、サァキャは心に鉛のように重たい、いうなれば負の感情がのしかかってくるのを感じていた。そしてこんな感情を持ってはならないということも、サァキャは第三者的な冷静さの内に認知していた。サァキャは村の長として、何よりも公平に、しかも厳正に振る舞わなくてはならない。
目を閉じて瞑想していたサァキャの耳に、誰かの駆け寄る足音が聞こえた。弾んだ息の音も聞こえてくる。フスに間違いなかった。息せききって、フスが飛び込んでくる。
半眼のいかめしい目付きで、サァキャは妹を見つめた。弾んだ息を整えながら、フスもまた厳しい目付きで姉を見据える。
持っている紙切れを、フスがサァキャに突きつけた。
サァキャは後ろに手をまわした。受け取らない、という明確な合図だった。目線だけを動かし、サァキャはその紙切れを見つめる。
よれて、黄ばんだカードには、
「サァキャ死すべし」
という悲痛な血文字が幾重にも書き連ねられている。
サァキャはそのカードに見覚えがある。当初見たときには、血糊など着いていなかった。なぜ血がついているのか。その原因もサァキャの知るところだった。
「手の込んだ悪戯だな」
サァキャは至って平静を装うと、妹を嘲笑する。
「自分の血か? さぞかし痛かったろうに。どこだ、鼻血か?」
「とぼけるのは止めて」
フスの声は怒りに震えている。ただ表情に怒気は無かった。澄ましたフスの態度が、サァキャにはなおさら癪だった。
「サァキャ……この前言ってたよね? リビヒと一緒に探検しに行ったって。リビヒは、リビヒは崖から落ちたって」
「その通りだ、フス」
気乗りのしない、不服気な調子でサァキャは答える。
「リビヒは脚が弱かった。なのに愚かな奴、自分を過信して脆くなったビルへ行き、そのまま床を踏み抜いて死んだのだ。私が少し目を離している隙に……」
「そんな嘘が……」
あまりに強すぎる怒りは、かえってフスに失笑を引き起こした。
「そんな嘘がよくつけるわね、サァキャ? 恥ずかしくないの? あんたは、サァキャはリビヒを殺したのよ!」
「憶測で物事を言うのはやめろ」
「違う!」
フスの怒りは沸点を超えたらしい。サァキャにカードを押し付けて無理やり手渡すと、それをフスは激しく指し示した。
「ヒスイお姉ちゃんが私にくれたものよ?」
「あの女が……」
言いかけたサァキャは、フスの鋭い目つきの前に動揺した。ヒスイを「あの女」呼ばわりしたことに憤りを感じているようだった。
(姉のことは“あんた”と呼ぶくせに)
悪態がサァキャの脳裏を滑走してゆく。ただ自分でも驚くほど冷静に、サァキャの口は勝手に動いていた。
「ヒスイが言ったからお前は信じるのか?」
フスが反論をする前に、サァキャは更に言葉を畳み掛ける。
「あの女共は客人だ。お前のせいで客人にしなくてはならなくなったが、素性の分からぬ奴らだ。フス、お前は長である私の忠告をなおざりにして、ヒスイの妄言にくみするとでも言うのか?」
サァキャはしゃがむと、目線の高さをフスに揃える。フスの細い肩を両手で掴み、サァキャは強く揺さぶった。
「さては……あれだな? ヒスイはお前の妄言に着きあってくれたな?」
恨めしい目つきで、フスはサァキャを睨んだ。どうやら図星のようだ。
「フス、あの女たちはお前の心の弱さにつけ込んでいるんだ」
「違う、そんなことない!」
フスは強引にサァキャの手を振りほどいた。
「ヒスイのお姉ちゃんがそんなことするはずないもん」
「いい加減にしろ!」
サァキャも怒りが爆発する。体が芯から熱を帯びだした。激昂して立ち上がると、サァキャは自身の両手を暴力的に何度も平手で打つ。それでも治まらず、据えつけてあった手摺を、我を忘れて叩き殴った。自分の手に走る、痺れるような痛みも気にならない。
「ハァ……ハァ……」
ようやく落ち着くと、サァキャは浅い息であえぎながら肩を震わせた。怒りに身を震わせたあとは、いつも息苦しくて死にそうになる。だが発作などが起こることはなく、結局は惨めに息をするしかなかった。
上天で雨でも降っているのだろうか。地下の水路には濁流が押し寄せ、タービンはいつも以上によく回り、振動音が地下全体に鳴り響いている。
「フス、私がウテーの長であるということを忘れたのか? 私がその気になれば、あの女たちを殺してやることなど、いとも容易たやすいのだぞ! この意味が分かっているのか、忌々しい妹!」
「ねぇサァキャ……気付いてよ」
フスの目には、悲哀の色がこもっていた。
「無理なんだよ。人間って裏切るし、裏切られるけど、闘わなくちゃいけないのは裏切った人間じゃなくて、自分をそういう状況に追いやった運命なんだよ?」
サァキャは答えない。哀れみの目つきで自分を見てくるフスの生意気さが、サァキャには赦せなかった。妄想の土俵で戦っておきながら、勝ったつもりになっているフスのがサァキャには気に入らない。
「フス、そんなにお前はあの女たちが信用できるか?」
何とか整えた息を吐き、サァキャは妹に言った。
「ヒスイのお姉ちゃん達を信頼してないのは、サァキャのほうでしょ?」
「なぜそんなことを言う?」
サァキャは吐き捨てると手摺に手をつき、川の行く末を眺めた。先ほど自分の叩き付けた手摺は、まだ暖かかった。
「お姉ちゃん達、ご飯を食べた後にすぐに眠っちゃったんだよ?」
「疲れていたんだろう。客人は旅の途中で――」
サァキャは水面を覗き込んだ。獣のように目を血走らせ、妹相手に言い訳を重ねる自分の姿は、なんとも滑稽だった。
こんなのは私ではない。ウテーの長のすることではない。
「フ、フフ……」
「何、サァキャ、何がおかしいの?」
サァキャは自嘲気味に笑う。目を細めてサァキャを眺めていたフスは、その様子にただならぬ気配を感じたのか、サァキャに詰め寄った。
「ねぇ、サァキャ答えてよ? どうして……」
「お前に嘘をつき通すのはばかばかしい。お前の考えるとおりだ。皿に睡眠薬を盛っておいた。あの女たちが余計な手出しをできぬようにな」
フスの息を呑む音が、サァキャの耳にも届いた。信じられないとばかりに、フスは首を振っている。
「どうして……? サァキャ、約束を破るつもり?!」
「約束は破らない」
そこでサァキャは、突如としてヒステリックな笑いを漏らした。赤ん坊のように無邪気な、退行した笑い方だった。
「フフ……すばらしいことを思いついた。私も満足し、客人も満足し、お前も満足する、冴えたやり方だ。まったく、どうして考え付かなかったのだろう?」
サァキャは独り言をぶつぶつとあげながら、フスの脇を通り過ぎる。
「待って」
と、フスはサァキャの服の袖を掴もうとする。サァキャはそれを強引に振りほどき、神経質そうに頭を振りながら、暗闇の中へと消えていった。
何か重大なことが起こりつつあることを、残されたフスは肌身で感じていた。