「おはよう。また会えたわね、ヒスイ。……さぁ、目を開けて」
声に促され、ヒスイは目を覚ました。暗闇の中で、ヒスイの周辺だけが明るくなっている。
「ここは……?」
「あなたの夢よ」
声の正体を確認して、ヒスイは慄然とする。以前夢の中で少女が、再びそこにいた。以前と同じように、少女は七色に彩られた笑う鬼の被り物を被っている。被り物の口の部分からは、ヒスイそっくりの顔が露出していた。
ヒスイと少女は、並んで長椅子に座っていた。脚を組んで座っている少女――似姿を盗み見ながら、ヒスイは状況を把握する。やはり、ヒスイのベルトに銃はなかった。
「そうか、この夢――。でも、何で私眠っているんだろう?」
答えを教えようとするヒスイの似姿を、ヒスイは手で制する。
「待って。食事をして、運ばれてきた水を飲んで――」
ヒスイは舌打ちした。
「そうか、あの水に何か入ってたんだわ」
「水じゃないわよ、お皿ね」
ヒスイの行った推理を、似姿は打ち消した。
「皿の表面に睡眠薬が塗りつけてあった。あなたたちはそれに気付かず、皿に盛られた中身を食べた」
薬を塗ったのはサァキャだろう。だが、皿に盛られた薬の存在に、フスは気付いていたのだろうか。
(気付いていたとしたら――)
フスもまた、ヒスイたちを騙していたことになる。
「……あなた、何でも知っているのね」
「もちろん」
少女は得意気に立ち上がった。
「私の特技は何でも知っていて、何でも分かることよ」
「何をしに?」
長椅子の背もたれに背中を着け、出来るだけくつろいだ姿勢を取り繕うと、ヒスイは少女を凝視した。長椅子の周辺を、弧を描くように少女は歩いている。
ヒスイの警戒に少女も気づいたらしい。無邪気そうな笑顔を作ってみせると、ヒスイにこう告げた。
「まったく……
『夢の無い夢を見る、
夢の詰まった君だのに』
フフフ……ヒスイ、私はあなたにこの言葉を贈るわ」
「あら、ありがとう。ついでに私の記憶も贈ってくれないかしら?」
「ヒスイ、あなたは分かってないわ」
「ええ、記憶が無いんですもの」
揚げ足を取っておどけるヒスイに対して、似姿は鼻を鳴らす。夢の中でのやり取りで、ヒスイが初めて目にした似姿の憤慨だった。
「そうじゃないわ。ヒスイ、私の前で馬鹿を気取るのはやめて」
落ち着きはらった声の裏側には、明らかな辛抱の色が見てとれた。右腕をすっと伸ばして、少女は指を鳴らす。
「我等茲ニ在リキ」と刻まれたオブジェが、暗闇から凝結したように姿を現す。倒壊したビルの屋上で、ヒスイが望遠鏡を使って発見したヰスイの刻碑だ。自分の鼓動が早くなるのを、ヒスイは感じた。
「
『ヒスイはなんでも知っているが、
何も分からない。
ヰスイはなんにも知らないが、
何でも分かる。』
この予言は今のあなたが完成させたものよ。歴史の証人になる気分っていうのは、一体どんなものかしら?」
「……ヰスイより自分の方が優れている、って言いたいの?」
試すような口調で、ヒスイは少女に訊いた。
「本当は、あなたがヰスイなんじゃない?」
少女は再び指を鳴らす。暗闇の中に、フスが現れた。唇を引き結び、フスと暗闇との境界をヒスイは注視した。これは似姿が作り上げた幻覚だ。その証拠に、フスの輪郭は空間に溶け合うようにしてぼやけている。
「サァキャ! ――」
フスが叫んだ。「サァキャ」の声は重なり合い、暗闇全体がどよめいた。
やるせない気持ちを鎮めるように、ヒスイは耳を塞いだ。それが似姿の意図するところだったらしい。両手を腰に当てて、似姿はフスの幻影の側で首を傾げる。
「自分の肉親を呼び捨てにする気持ちはどう?」
「ごたくを並べるのはよしてくれない?」
ほぼ鸚鵡返しに近い速度で、ヒスイは返事をする。耳を手で覆い、不協和音を遮断しながらも、ヒスイの目は少女を見据えて反らさない。
「質問しているのはこっちよ? 映像が無いと私と話が出来ないなんて、会話のセンスが無いんじゃない?」
「フフフ、光栄だわ。ご指摘ありがとう」
ヒスイの放った毒のわりに、似姿は落ち着いて受け答えをする。似姿が拳を握りしめると、フスの声も、フスの幻影も消滅した。
ただ、ヰスイの名が刻まれたオブジェは、そこから姿を消さなかった。
「――石碑のコレクションがあなたの趣味なのかしら?」
「私の趣味はあなたの観察よ」
ヒスイを一瞥することもなく、何の予備動作もなしに石碑の上へ飛び上がると、似姿は腰を下ろした。世界の重力に逆らっているかのような、そんな身のこなし方だった。
「だいぶ心に余裕が生まれたのね。それとも空元気かしら? 今のヒスイ、記憶を失う前のヒスイに近づいてきているわよ」
似姿の黒い瞳を、ヒスイは見つめた。以前の夢で見たときは、そこに羨望と憫笑の色……感情の灯火が混じっていた。
だけど今は違う。その瞳からは弱々しい色が途絶え、代わりに強い自負の意志が見て取れた。
「強くなったのね」
何ということも無しに、ただありのままにヒスイは感想を述べた。
しかしそれは、似姿にとって予想外の答えのようだった。似姿は眉をひそめ、魚のように口を開けた。
頭に「?」のマークがつけば、さぞかし状況に相応しかっただろう。
そんな有り様が、ヒスイには不服だった。
自分はこんな表情をしない、自分だったら、もっと上手く立ち回れるはずだ。
「それと、今の私が『私』なのよ? あなたに『近づいた』とか『遠ざかった』とか、言われる筋合いはないわ」
ヒスイは石碑の手前までにじり寄ると、似姿を見上げる。
「だから代わりにあなたに言ってあげる。立派な立ち振る舞いよ、さっきまでのあなた。……照れなくたっていいじゃない?」
「ヒスイ、止めて」
と、似姿は声を絞り出した。
「私を肯定しないで」
「狂言は得意なのに、噓をつくのは苦手なの?」
ヒスイは畳み掛けるようにして似姿に話しかける。
「『あたしはあなたの味方』って言葉は、やっぱり嘘なのよね? 好いのよ別に、私だってあなたと一緒、同じ穴の狢だもの――」
「やめなさい」
ヒスイの口から滔滔と溢れだす言葉をせき止めるように、似姿が言い放った。似姿の鋭くて厳かな剣幕に、ヒスイも口を閉じて自分の発言を顧みる。
反射的に口走った言葉だったが、よく考えればその重さは段違いだった。「自分は嘘つき」という旨を述べたが、なぜヒスイはそのようなことを言ってしまったのか。
今のヒスイには心当たりのない言質だったが、それがさも当然であるかのようにヒスイは口走っていたし、自身の暗部を披瀝したときに感じる、あの絶妙な清々しさをヒスイが覚えているのもまた事実だった。
となればこれは、記憶を失う前のヒスイが抱いていた感触なのだ。絶望こそしなかったが、ヒスイは触れてはならない境界を期せずして越境してしまったかのような、あの後味の悪さを感じていた。
「ゴメンね、ヒスイ」
無邪気にしていたはずの悪戯を、明確に悪と指摘された子供が発するような切々たる声の調子で、ヒスイの似姿が弁明を始める。
「今の私と今のあなた、姿形は似ているけれど、立場はまるっきり逆なのよ。ねぇ、ヒスイ……気付いて。私は努力してようやくあなたと同じ立場なの。あなたに肯定されたら、私は自分の惨めさにやりきれなくなるわ」
ヒスイの似姿は、今度は左手で指を鳴らした。ヰスイの石碑は即座に消え去ったが、似姿は座り込んだ姿のまま虚空に浮かんでいる。
「ねぇ、あなた」
感傷に浸っている似姿に対して、ヒスイは言葉を紡ぎ続ける。
「私の強さだって、私の猿芝居だったのかもしれないわよ? 自分より自分のことを理解している人間なんていないもの。あなたは強がっていた昔の私に騙され続けていただけかもよ?」
「フフフ……その言葉だってまた、嘘かもしれないものね?」
似姿はヒスイに微笑みかけ、「虚空」からヒスイの側まで降り立った。
「あなたがこの夢を忘れてしまうのは本当に好都合。――私だって同じなんだけど」
「何ですって?」
驚きの眼差しで、ヒスイは似姿を見つめる。
「じゃあ……あなたはどうやって私に干渉するっていうの?」
「呼ばれるのよ、ある人に」
心ここにあらずといった様子で、似姿は呟いた。
「その人に呼ばれて、私とあなたはここに来る。あの人はあなたを好きだけど、私のことはどうかしら?」
独り言とも、問答ともつかぬ似姿の呟きに、ヒスイは押し黙っていた。
(“ある人”って……ヰスイのこと?)
そうは思えど、目の前の似姿は簡単に口を割ってくれそうにない。ここまできてヒスイは、似姿の自我を疑い始めた。
「あなた、名前は?」
ヒスイの方角を振り向いて答えようとした似姿は、ふと滲むような笑顔を見せた。
「前も話したとおりよ。それは、教えられないことだわ」
「それだけで充分よ」
ヒスイは似姿に微笑み返した。
「あなたが答えられない、ってことが、私にとっては最大の答えよ」
「へぇ……それは強がりかしら?」
「さぁね、本当に強いのかもしれないわよ?」
大げさに嘯いたあと、ヒスイはふと思いついた言葉を付け足した。
「強がりの私が、誰よりも弱いあなたに贈る言葉よ」
ヒスイの冗談と好意を読み取ったのか、似姿は穏やかな表情をしてから笑う鬼の口を閉じ、顔を隠した。
「おしゃべりはこれまでよ、ヒスイ。私もあなたも、そろそろ夢から覚める――」
くぐもった声でヒスイに告げると、少女は踵を返してヒスイから距離を取る。
「あたしは今回の夢を忘れる、あなたも今回の夢を忘れる。でもあたしの心が感じたことは、死の間際まで、それこそ永遠に、あたしにとっての真実になる。ヒスイ、それはあなたにとっても一緒よ」
「次はどこで会うのかしら」
腕を組んで、ヒスイは似姿に問いかける。
「どこかしらね? フフフ……私は転日京にいるわ。あなたのことを待ってる――」
不意に、似姿の背中が豆のように小さくなった。だがヒスイはそれが、お互いがお互いの意識の中へと戻っているだけだと、不思議と自覚していた。