フスを先頭にして、エバとセフは薄暗い地下道を静かに駆け抜ける。
極力音を立てないよう、三人は間近に寄っては身振りで会話し、進む際には姿勢を低くして限りなく大股で歩いた。
エバたちのすぐ上に、虬は陣取っているらしい。天井は絶え間なく軋み、砂埃を三人めがけて降り注がせる。
「フス、どこまで行くつもり?」
袖で口許を押さえ、砂埃を我慢しながらエバが小声で尋ねる。
「改札は抜けられないから……非常階段沿いにキュウを迂回するの。キュウは一旦場所を決めると、そこからしばらく動かないから」
「あっそう、最高ね。怪物の癖に気が利くじゃない」
露骨な軽口をエバは叩いた。いてほしくない奴に限って長居するのは、人間も怪物も同じようだ。
ただ、これほど生き物の気配がしない下天である。一度標的の見つかった場所に長居して、恐る恐る戻ってきた獲物を手ぐすねひいて待つというのも一つの知恵かもしれない。
ここまで考えてふと、エバはあることを思いつきセフを手招きする。
「セフ、からくりもう大丈夫なの?」
浅い息をついていたセフが、エバの発言に一瞬息を呑む。下手にからくりを刺激しないよう、肩に提げた荷物袋からセフはからくりを取り出した。
曲がり角の陰に屈んだまま、エバとセフはからくりの表面を確認した。そこに施された二つの針は滞ることなく動いていた。
「ちょっと、お姉ちゃん達ったら!」
曲がり角から奥の様子を注意深く覗いていたフスは、背後から聞こえてきた二人の溜め息に振り返った。
「もっとぴったり着いてきてくれないと……って、どうしたの?」
エバがセフの持っていたからくりを掴むと、フスの前に掲げた。
「これ、あたし達の見つけたからくりなんだけど、音が鳴らないか心配で……」
「目覚ましじゃない?! これ」
フスはエバから“目覚まし”なるものを受け取ると、哀愁の籠った目付きでそれを見つめた。
「うわぁ、懐かしいナァ」
「懐かしい?」
したり顔で呟くフスに、セフが身を乗り出して尋ねる。
「それ、フスのだったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。マァ、今話している暇も無いし」
フスは早口でひとりごちた。エバもセフも意味が分からず、互いに顔を見合わせる。フスだけが特別なのか、「下天人類」は皆こうなのか。
いずれにしても、フスの口走ることはすべて、エバたちにとっては突拍子のないものばかりだった。
「そうだ、待って――」
フスは”目覚まし”を手にして、壁に寄りかかる。フスが”目覚まし”の表裏を交互に見つめた。裏側にはネジが二本取り付けられている。
「あ、そのネジ」
セフがネジを指差す。「それを回すと針が動くんだよ」
「うん、そう、そうなんだよ」
フスは裏側のネジを手で探りながら、表の針を凝視する。フスがねじを回してみると、釣られて大小二つの針がめまぐるしく動いた。フスはもう一度裏に目をやり、一本のネジに力を込めて上に引っ張った。
「”目覚まし”ってのはね」
フスが話している最中に、”目覚まし”のねじが小さな音を立て、一本さらに突き出てくる。フスは改めてそのネジを回してみた。
表の二本の針に変化は無い。しかしその針の下に隠れていた一本の黄色い針が、緩めたねじにしたがって文字盤の上を這い始めた。フスは薄暗がりの中、目を凝らして懸命に針の位置を調整する。
「起きたい時間に音が鳴るようにしてくれる時計なんだよ。うん、あたし今いいこと考えてる」
「時計……なんだ?」
セフは不思議そうな顔をして、フスがいじる”目覚まし”を覗き込んだ。目の前にある小さなからくりが”時計”であることが、どうも納得いかないのだろう。エバもまた、セフの寺院にあった時計を思い出していた。テイロスの町に時刻を知らせる寺院の時計は、水を利用した仰々しい仕掛けだった。
それとこのからくりが同じ時計であるといわれても、にわかには信じられない。
「そう。よし、オッケー」
二人には構わず、フスは会心の笑みを込めて”目覚まし”を正面に掲げる。フスは悪戯っぽい目つきをして、エバとセフをかわるがわる見つめた。
「好いこと考えちゃった。ねぇ、お姉ちゃん達、こんな作戦はどう――?」
階段を降りたヒスイとサァキャは、壁際に寄って息を殺した。
しゃがみ込んだヒスイは右耳を壁に寄せ、地下を這う虬がどこにいるか見当をつける。右耳に緩やかな振幅音と、石の擦れる振動が小刻みに伝わってきた。虬は確実に、ヒスイ達の真上に居る。
「ここだ」
周辺を一通り見渡すと、サァキャが呟いた。
「ここならば、虬を追い込める」
「……手立てはあるの?」
壁から耳を離すと、サァキャの方を振り向いてヒスイは銃を構えなおした。
「今考えているところだ」
サァキャはかすれた声を上げると、背後にある壁をさすった。
「とにかく、これほど狭ければ虬も身じろぎはできまい。一旦ここに追い詰めてしまえば、しばらくは安全だ」
そこまで話をすると、サァキャは不意に口を閉じた。その妙な沈黙が気になり、ヒスイは顔を上げてサァキャを見つめた。
サァキャは俯き、肩を震わせて笑っている。
「安全!」
サァキャは歯軋りをして、忍び笑いを漏らした。薄暗い地下道の中で、サァキャの卑屈な笑い声だけが妙な質量を伴っていた。
「今私は『安全』と言ったな? フフフ、なかなかの冗談だ……後で“ウテー”のみんなに話そう、フフフ」
「サァキャ、止めてよ」
わだかまりを覚えたヒスイは、苦しげに息を吐いてから立ち上がった。
「とにかく――」
と、ヒスイが続けて言葉を発しようとしたそのとき、耳慣れた騒音がどこかから響き渡る。――セフが手にしていたからくりだ。
「この音……」
サァキャは音に身構えると、右手に装着しているボウガンに矢をつがえた。ヒスイは緊張した面持ちで耳をそばだてる。
その様子を見て、サァキャも首を傾げた。
「これは、お前の仲間が発しているのか?」
ヒスイは黙ったまま頷いた。サァキャは鼻を鳴らすと、先ほどとは打って変わって楽な様子で、音のする方角へ歩みだした。
「ならば行くしかあるまい。あの音に虬が気付かないはずがないからな。……むしろ好都合かもしれない。虬の注意がお前の仲間へ向くのだから」
「悠長なこと言っている場合じゃないわ」
ヒスイはきつい目線をサァキャに向ける。サァキャは動じる様子も無く、おどけて肩をすくめた。
「ならば……虬より先にお前の仲間を見つける必要があるな」
「ぐずぐずしてられない」
ヒスイは決然と言い放つと、サァキャの側まで近寄って先を促した。薄暗い通路の突き当たり、その左奥から音が聞こえてくる。
「ランタンをしまえ」
サァキャは手に持った電灯の明かりを消している。サァキャの姿を掴めなくなるため、ヒスイは一瞬消すのをためらった。しかし背に腹は代えられない。背嚢の後ろに手を回して、ヒスイはしぼりを引き絞る。ランタンの炎は勢いを弱め、ついには完全に消えた。辺り一面が漆黒に塗り潰される。視界が効かなくなると、虬の這う音が更に耳についた。
「私が先頭を行く」
暗闇の中からサァキャの手が伸びて、ヒスイの手を掴んで囁いた。包帯から伝わる湿気にヒスイはうっとうしさを覚える。何のために下天の人間は包帯を身にまとっているのだろう。肌を守るためだろうか。だとしてもカビ臭い包帯に包まれながら生活するのは、ヒスイには耐えられないことのように思えた。
「どうした、返事をしろ」
「……大丈夫よ、分かったわ」
苛立ち気味のサァキャに対して、ヒスイは追従するように二度頷いた。からくりのくぐもった音を頼りにして、二人は奥まで進む。暗闇の中で、魍魎に顔と顔とを付き合せるかも知れない。
ヒスイがそう考えた矢先、天井這う虬の振動が一たび大きく唸った。虬が音に気付いたのだ、とヒスイは動物的な直感で感じ取る。サァキャも異変に気付いたらしく、ボウガンを正面に抱えたまま音を頼りに小走りで先へ進む。驚いたことに、サァキャは既に目が慣れてしまっているらしい。ヒスイはサァキャの身に纏っている服の襞が視界の端に揺れるのを頼りにして、先へ進むしかなかった。
曲がり角の手前で立ち止まると、サァキャはヒスイに「止まれ」と手で合図をした。サァキャの側まで近寄ると、ヒスイは銃を構え直して壁際に待機する。からくりの音はすぐ側で鳴っていた。
「サァキャ、向こう――」
「しっ、黙れ!」
身を乗り出そうとしたサァキャは、反対側の通路から聞こえる“うねり”に感付いて、すぐさま壁際に身を寄せる。サァキャのしゃちほこばっている様子を確認したヒスイも、壁に背を預けたまま息を殺していた。
サァキャが今まさに覗き込もうとしていた通路を、圧倒的な質量を持った怪物が猛然と突き進んでゆく。鼻水をすするような、しみったれた音がフロア全体に響いた。粘膜を吐きながら床を這う虬の音だ。屋上で出くわした怪鳥と、地下を這うこの怪物が同じ生き物であるとは、ヒスイにはにわかに信じがたかった。狭い通路の壁にぶつかり、のたうちながらも虬は音の鳴る方へ突き進む。
(どうする? 銃撃するか?)
粘膜の放つ臭気に顔を顰めながらも、ヒスイは一人考えていた。からくりの音に虬が注意している今の内に――。
そこまで考えて、ヒスイはふとあることに気付いた。虬が音に“引き寄せられている”? だとしたら―ー。
からくりの音が途絶えた。
「今だ!」
という声がヒスイ達の向こう側から響く。目の前でサァキャが身を硬くしていた。だがヒスイは知っている。今のはセフの声だ。
一瞬の間を開けて、ヒスイの眼前に眩い光が迸った。それは炎の明かりだった。空気の温度が一気に上昇し、ヒスイ達も熱風に煽られる。状況の呑み込めていないサァキャは、呻き声を上げたままよろめいている。
炎に包まれた虬が絶叫すると、火の粉を振り乱しながら派手にのた打ち回る。ヒスイはサァキャの服を鷲掴みにし、二人して後ろに倒れこんだ。そしてそれが良かった。サァキャが立っていた位置から扉が降ってくると、二人を完全に通路から遮断してしまった。
「くそっ、どうなってる?!」
サァキャが床を叩きつけながら怒鳴る。鉄扉の向こうから虬の悲鳴と、小刻みな音が響いてくる。ヒスイは、その音がすぐに水の音だと分かった。だがこのような地下に雨が降るのだろうか? ヒスイが自分の上に倒れこんでいるサァキャに口を開きかけた瞬間、猛烈な爆音と共に、その扉が紙風船のごとく弾けとんだ。
床に伏せてなかったらまともにぶち当たっていただろう。扉から振り乱された水しぶきが、ヒスイ達に降り注ぐ。
……そして、静かになった。
「ふぅ、いっちょ上がり、って感じ?」
「すごい、すごいよ、エバのお姉ちゃん!」
通路の奥からエバの声が響いてきた。二発の閃光はやはりエバの魔法だったのだ。するとエバの声に混じって聞こえてきたのは誰の声だろう。サァキャを押しのけるようにしてヒスイは立ち上がり、すかさず背嚢にぶら下げたランタンに火を点した。
「エバ、そこに居る?」
「ヒスイっ? ヒスイなの?!」
ヒスイの声に呼応して、エバが叫んだ。駆ける音に続いて、エバがヒスイ達のいる通路に躍り出た。ヒスイの姿を確認すると、エバは安堵のあまり泣きそうな表情になりながら、ヒスイの胸に飛び込んだ。
「あぅー、良かった。ヒスイ、大丈夫だった?」
「うん、おかげさまで。……でも、」
うずくまるエバを抱きしめつつも、ヒスイは背後で黒焦げになっている虬“だったもの”が気になっていた。
「あれ、いったいエバは何をしたの?」
「ヒスイ、そこに居る?」
やや遅れてから、セフが通路に顔を出した。手には、サァキャの持っていたのと同じ“懐中電灯”が握られている。セフは覚束ない足取りで虬の亡骸を跨ぎながらも、ヒスイを一目見て安心したように肩をすくめている。
セフの黒い衣は背中の部分が引っ張られていた。その後ろいる小さな人影が、心配そうな目つきでヒスイとエバを見つめていた。
「あの子は?」
ヒスイはセフの後ろに居る少女を見つめた。ヒスイがこちらに気付いていることを認めた少女は、用心深げにセフの傍らへと姿を現した。
「あ、えっとね、あの子は――ていうか、あなた……」
エバは、ヒスイに少女を紹介しようとした。だがその前に、ヒスイの背後を猛然と横切って少女に向かうサァキャの姿に気付いたらしい。エバのサァキャに手を差し伸べた。だがサァキャは乱暴にそれを突っぱねると、少女のもとへ近づいた。
そして三人が声を上げる前に、サァキャの左手が少女の頬を打った。
乾いた音が通路に響き渡る。
「――愚か者」
男のように低い声で、サァキャが少女を睨みつけ、何か抗議しようとする少女の首根っこを押さえ、揺さぶった。
サァキャの目は血走っている。激昂したときと同じ状況にいるサァキャに、ヒスイは戦慄を覚えた。
「忌々しい穀潰し……誰よりも弱い癖に……惨めに生き永らえて。フフフ、虬に喰われればせいせいしたろうに! 可愛い妹、フス、私が殺してやろうか?」
「ちょっと……」
少女に対する仕打ちに我慢ができなかったのだろう、セフがサァキャと少女の間に詰め寄った。サァキャは少女を――フスを離すと、近づくセフを一瞥し、右手に装備したボウガンを構えて威嚇する。それがセフの気に障ったのだろう。もう一歩詰め寄ろうとしたところを、駆け寄ったエバに止められる。
「セフ、あなたがムキになってどうするのよ?」
エバにたしなめられて、セフは慷慨しながらもサァキャから距離を取った。
「サァキャ、止めて――!」
フスがサァキャの右手を握り締める。「サァキャ、あたし、このお姉ちゃんたちに助けられたんだよ?」
通路全体に響き渡るほど大きな声で、フスが言った。
「あたしが脚を怪我して動けなくなっているところに、エバお姉ちゃんと、セフお姉ちゃんが来て助けてくれたんだ! 虬を追っ払ったのもエバのお姉ちゃんの魔法だし――まぁ、水が降ってきたのは予想外だったけど、それも雷の魔法で大丈夫だったし」
フスはそう言いながら、サァキャに気付かれぬ範囲でヒスイ達三人に必死に目配せをした。
フスには何かしらの思わくがあるらしい、ヒスイはすぐにそれを察知した。
「うん……そうよ?」
真意が分からないなりに、エバは口車に乗ることにしたようだ。わざと大きく目を見開いて、エバはフスの話しに口裏を合わせる。
「そう……ひどい怪我だったのよ? 折れた鉄骨がフスちゃんのふくらはぎを抉っててね。あたしが来てなかったら、フスちゃん立ち上がれないまま干からびてたかもよ?」
サァキャが目を細めているのを盗み見ると、フスはしきりに頷いて、更に言葉をたたみかける。
「ねっ? エバの姉ちゃんに助けられた命、あたし無駄にしたくないんだ? ……それにお姉ちゃん達には恩義があるし」
ここまで来て、ヒスイにもようやくフスの意図が呑み込めた。「エバたちに助けられたサァキャの妹、フス」を演じることで、サァキャが迂闊にヒスイ達を邪険に扱えないようにしているのだ。
「探していたのは私の方だ!」
サァキャの怒鳴り声が通路に響き渡る。サァキャはフスの腕を振りほどくと、一人だけ通路の奥へと進み、一本転がっている虬の触手を脚で執拗に踏み潰した。
だが、ここまで来たらあと少しだ。エバとセフはサァキャの異様な仕草に唖然としていたが、ヒスイはサァキャの怒りが既にピークを越えたことに気付いていた。
「……音を立てていたのって、セフのからくりよね?」
「え? あ、うんそうだけど――」
「さすがね、エバ、機転が利くわ――」
ヒスイはすかさず、エバに横槍をいれた。
「あれよね? からくりの音で虬をおびき寄せて、すかさず炎の魔法で虬を仕留めたってことよね?」
「えぇ、もちろんよ!」
やや喰い気味にしてエバが答えた。
「ま、あたしの魔法にかかればこのぐらい楽勝よね? それこそ、バターを溶かすほうが手間のかかるってもんだわ――」
「くそうっ!」
調子に乗ったエバが饒舌になりかけるのを、サァキャの吐き捨てた言葉が食い止めた。
「忌々しい――忌々しいが、妹を助けたのはお前達だな? なら私は姉として、お前達に借りがある……!」
サァキャはあえぎ、肩で息をしている。
「仕方ない、お前達は客人だ、吐き気はするが――ついて来い、“ウテー”へ招待する」
覆面の下でサァキャは小言を言っていたが、ヒスイ達に向けた背中はうなだれていた。対するフスの方は、してやったり、と言った満足げな笑みを頬に滲ませている。
ヒスイは交互に、エバとセフに目を合わせた。ものすごい剣幕だった姉と、思わくしている妹の板ばさみになって、二人とも目を白黒させていた。
「ねぇ、ヒスイどうなったの?」
エバが小声でヒスイに尋ねた。
「“ウテー”に案内してくれるそうよ」
「案内? 町でもあるの? でもそれって……」
危険じゃない、とエバは最後に付け足した。セフも不安げな目線をヒスイに送る。ヒスイにとってはそれも承知のことだった。だけど今更サァキャから引き下がるわけにはいかない。フスのことも心配だった。このままではサァキャに何かされるとも限らない。
ヒスイ達は“ウテー”で客人になる。――ただしその言葉に、祝福の気配は無かった。