「動くな」
そう言われて動かないでいられるほど、ヒスイは野暮ではなかった。
声を聞いた瞬間に、ヒスイの身体はばねのごとく反応する。前に転がるようにして、右脚を大きく振りかぶる。
「あっ――」
何者かがうろたえ、後ずさる音が聞こえる。
ヒスイは勢いに身をゆだね、ランタンを床に転がし、左脚を軸に後ろを振り向いた。すかさずホルダーから銃を抜き放つ。すぐさま標的を見やって――武器を持っていないことを確認すると――その眉間に銃の照準を合わせた。
「待て、待て!」
相手が切羽詰った口調でヒスイを制した。
「降参だ、止めろ――動くなと言ったろう?!」
ヒスイは銃を構えたまま、相手の身なりや様子を出来るだけ細かく観察する。
年はヒスイと同じか、少し上ぐらいだろう。布の切れ端を継ぎ合わせた、モザイクのような服を身に纏っている。
服から露出している腕と脚には、薄汚い包帯がしっかりと巻かれていた。右手には見慣れない形状をしたランタンを握っている。
顔もまた、包帯と一体化した覆面に包まれていた。覆面の後ろから露になっている長い緑色の髪とその声から、ヒスイは相手が女であるということを理解した。
極度に狼狽し、肩で息をしている相手の様子を見て、ヒスイは銃を降ろした。相手の少女もまた背嚢を背負ってはいたが、武器のようなものは身に付けていない。
「ごめんなさい」
「何だって?!」
覆面に開いた切れ込みから見える、女の黒い瞳が丸くなった。
「くそっ、礼儀を弁えない。……謝るのか、自分から人の言うことを無視しておきながら!」
相手の少女は自分の怒りが収まらないのだろう、鼻息を荒くしながらその場で地団駄を踏んでいた。ヒスイは銃を仕舞うと、少女の様子を警戒しながらもランタンを拾い上げる。そのときにヒスイは、自分がずっと望遠鏡を握り締めていたことに気付いた。、望遠鏡のレンズの部分は完全に割れてしまっている。
「まぁいい。……まぁいい」
怒りを発散しきったのか、浅い息をつきながらも少女は幾分か落ち着いた様子で話を続ける。
「既に知っている、外の人間は無礼だって。ところでお前……お前はここで何をしている?」
口を開きかけたヒスイは、イェンの手紙を思い出して躊躇する。目の前にいる少女は異常ないでたちをしているが、少なくとも話は通じそうだった。
ただイェンは手紙にはっきりと「下天人類は危険」と書き残している。まだ他の人間に出くわしていない中、余計なことを話すのは危険だ。
「そうね、旅行を楽しんでいた、――なんてどうかしら?」
「旅行!」
少女が嘲笑の籠もった声を上げる。
「フフフ……虬に狙われておきながら旅行か。フフフ……まぁいい」
少女は不自然な笑い声を上げ、肩を振るわせる。ヒスイは溜息をつきながらも、そんな少女の様子に目を細めた。
「キュウって言うの? あの馬鹿でかい怪物は?」
「そうだ、見知らぬ人。虬に喰われた生き物は死後の世界で楽園に辿り着けるという。――お前達は喰われなくて不幸だったのかもな」
(“お前達”?)
相手の言い草が妙に鼻についたが、ヒスイは平静を装って質問を続ける。
「そうよ。……いつから見られているのか知らないけれど、私は友達を探さないといけないの。……ここの洞窟って繫がっているの?」
「まるで私が盗人であるかのような言い方だな」
気分を損ねたのか、少女の目つきが険しくなる。
「私がお前達を見つけたのはたまたまだ。虬が飛んでいるのを見て、私はこの通路に逃げたのだ。そのあとすごい地揺れが起きて、お前達がここまで転がり込んできた。――即座に分かったぞ。お前達が虬を呼びつけたのだろう? 虬は音に敏感だ。どうせお前達が何かしでかしたのだろう」
少女の言葉は図星だった。それでも、あれほどの遠くからでも音を精確に聞き分けられるなんて、ヒスイにはいまだに不思議だった。
「それとお前の質問だが――」
ヒスイに構わず、少女は話を続ける。
「確かにこの地下通路は繫がっている。お前達のせいで一つは潰れてしまったが、まだまだ道はたくさんある。お前の仲間もきっと大丈夫だろう。……手伝ってやろうか?」
ヒスイは眉をひそめた。
「――手伝う?」
「そうだ」
ぎらついた瞳で、少女が答える。
「私はある目的でこの辺りを歩いていた。ついでにお前の仲間を探してやっても好い……と言っているのだ」
「あら、ありがとう」
語気を強めながらヒスイが言い放つ。この少女が何を考えているのか、まだ正体が掴めていなかった。
「ところでお前……名前は何と言う?」
「ヒスイよ」
相手の出方を注意深く観察しながら、ヒスイが答える。
「ヒスイ、ヒスイか」
相手の少女はヒスイの名前を何度も繰り返してから、首を傾げた。
「どこかで耳にしたような名前だ――何故だろう? ……まぁ構わないか。私はサァキャと言う名前だ。この先にある“ウテー”の長をしている」
「“ウテー”?」
耳慣れない言葉に、ヒスイは反応する。
「何、“ウテー”って?」
「いずれ分かる」
なぜか苛立った調子でサァキャは呟くと、手にしているランタンを振り上げ、ヒスイについて来るように合図した。
「さぁ、ヒスイ。とりあえず向こう側へ回ってみようか――」
◇◇◇
(三、ニ、一、――それっ!)
ヒスイとサァキャが出くわしていたその頃。
揺れが収まった反対側の通路で、覚悟を決めてエバは目を開いた。当然、暗くて何も見えない。
恐る恐る、エバは自分の身体を撫で回してみる。幸い、身体には何も突き刺さっておらず、何処かがもげてしまっているわけでもなかった。
エバが安堵の溜息をついたのも束の間、あのおなじみの、けたたましい音が静寂を突き破った。思わず耳を塞ぎかけていたエバは、背後から聞こえてきた呻き声に背筋を震わせる。
「セフ、大丈夫?!」
エバは魔法で左手の人差し指の先に火を点すと、セフの声のする方向へ振り向いた。起き上がったセフが転がっていたからくりを鷲掴みにして、上のデッパリを忌々しげに叩いているのが見えた。音が止まる。
土ぼこりを被って咳をしていたが、セフも怪我はしていないみたいだった。
「セフ! あぁ、良かった――」
エバは目の端に涙を滲ませながらも、慌ててセフの元まで駆け寄った。からくりを掴んだままセフはゆっくりと立ち上がり、頭を横に振る。細かな土ぼこりが、セフの黒髪の間から零れ落ちた。
「うぅ、エバも大丈夫?」
「うん、あたしは平気よ。でも……」
エバは通路を塞いでいる瓦礫と鉄骨を見て途方に暮れる。
「これじゃあ向こう側まで辿り着けないわね……」
「というか、ヒスイは大丈夫かな?」
セフは土ぼこりが目に入ってしまったらしく、しきりに瞬きをしては目をこすっていた。
「うん、たぶん大丈夫」
エバははっきりと断言した。
「――何で?」
「だってあたし、ヒスイが死んだって感じしないんだもん」
エバの語気が洞窟に反響する。しばし、妙な沈黙が二人の間を支配した。
「そう……」
セフが溜息混じりに呟いた。その言い草に、エバはむっとなる。
「何よ、魔法使いの直感が信じられないっていうの?」
「いや、別にそんなことは言ってないよ」
「いーや。目が言っていたわ、『こいつ何言っているんだろう?』ってね」
たじたじの様子のセフに、エバはまだ食って掛かる。
「言っておきますけれどね、これでもあたし結構直感は良く当たる方なのよ? 屋上であの噓みたいに大きなミミズに襲われた時だって――」
セフは耳を疑った。
「ミミズだって――?!」
「ちょっと、いいからあたしの話を聞きなさいよっ。あのときだってね、あたしヤバイと思った瞬間、なぜか杖タクトを握り締めていたのよ。これも直感だったわ。お蔭で扉を開けるのにまごつくこともなく、一発で建物の中まで逃げられたんじゃない!」
「うん、分かった。分かったよ」
喋ることに夢中になるうち、エバが指の先に点した灯りは大きく燃え上がっていた。セフは熱気に圧されつつ、エバの剣幕を手で制した。
「それじゃあ、あれだよ。ヒスイの代わりに私達が死なないようにしなくちゃ」
「そうね……うん、そうだわ」
セフの言葉に納得すると、エバは後ろを振り向いた。ヒスイに促されてこちら側へ滑り込んだ際、奥の方に通路が続いているのがエバには見えていた。
「とりあえず……ここに留まっているわけにもいかないから、奥の通路へ行ってみましょうよ?」
もう一度セフの方へ向き直って、エバが話を続ける。
「もしかしたらヒスイのいる方面まで辿り着けるかも知れないし、それに――」
「――しっ!」
エバの話を途中で遮ると、セフが突然、声を潜めるようにエバに合図した。しばしの間のあと、エバ達の頭上から、怪鳥の耳障りな絶叫が再び聞こえてきた。地下に居るにも関わらず、怪鳥の声ははっきりと聞こえてくる。
「何、さっきのミミズ――?」
「いや、それだけじゃない」
セフは帯に提げている長刀の柄に手をかけた。セフの真剣なまなざしは、エバの背後で沈黙している暗闇を見据えていた。
「さっき……向こう側で何かが動いた」
「まさか、そんな!」
エバは慌てて振り向くと灯りをかざし、通路の奥を見つめた。ぼんやりと照らされた通路の奥には、何の気配も感じられなかった。
「でも、そんな気配全然しなかったわよ?」
「話に夢中になっていたからだと思う」
セフは構えを解くと、通路の入り口まで近づいてエバの方へ向き直った。
「影が大きく揺れたから、結構大きな動物だと思う。……もしかしたら人間かもしれない」
「人間?! 人間って――」
目を丸くしたエバは、しかし事の重大さを理解して今度は小声になる。イェンが躊躇い、ヒスイが隠していた下天にいる人間の存在――。彼らがそれほどまでに脅威であるならば、エバもセフもやすやすと行動するべきではないのだ。
(それにしても)
と、エバはヒスイの行動に不満を持った。出来ることならば、もっと早くヒスイにはこの秘密を打ち明けてもらいたかった。いかにヒスイの機転がよく効くからといっても、三人だったら持ち出せる知恵も、立てられる作戦ももっとあっただろう。ヒスイは自分達に余計な苦労をかけまいとしているのだろうか?
「はっきり言わないとダメかな」
「はっきりって……何を?」
「ヒスイ達に、あたし達のことをよ」
いつになく落ち着いた口調で、エバはセフの近くまで顔を寄せた。
「ほら、何かヒスイってあたし達に遠慮しているような感じがしない? 記憶が無い分、何もかもを自分で考えなきゃならない、って考えているのよ」
「うん……言われてみれば、そうかも」
エバの一言一言を噛み締めるようにして、セフも頷いた。
「今のヒスイは何だか真面目で……こう……余裕がないっていうか」
「やっぱりセフもそう思うんだ――」
セフと悩み事が共有できたエバは、それだけで少し心が軽くなった気がした。
「じゃあ、またそのことについては話し合わなきゃいけないわね」
「うん。まずはとにかく、ヒスイと合流しようよ? ヒスイが生きていても、私達が死んだんじゃあ意味がないし」
セフの言葉に、エバは微かに笑って同意した。
「そうね、その通り……行きましょう。ヒスイが居なくても大丈夫だ、ってあたし達が証明しないと」
指先に炎を灯したまま、エバが奥へと進む。セフは短刀を抜き放つと、その氷のように静謐とした刀身に勇気付けられ、エバのあとに続いた。