第21話:怪鳥

 屋上へと一歩踏み出した三人を、饐えた水の臭いが迎え入れた。

 屋上はプランターが散乱し、植物が生い茂り、ちょっとした庭園のようになっていた。

 冷やかしのためにエバの吹いた口笛が、ヒスイの耳にも届く。植物は皆、下天の入り口めがけて成長しており、ところどころ鉱石のように赤い色の花が咲き乱れていた。

「こんなに薄暗い割には、ちゃんと植物が生えているのね」

 感心したようにエバが呟いた。

「あっちを見てみよう」

 セフが右の奥を指差す。階段の正面から見える景色、は下天の西にあたる。イェンが手紙に記していた陸橋を発見するためにも、ヒスイ達は下天の北に目をやらなくてはならない。

 誰からともなく歩き出して、三人は屋上の北へと寄った。

 庭園を通り抜ける際、ヒスイの鼻孔にハーブのきつい臭いがした。どこでもハーブは生い茂るようだ――ヒスイはそんなことを考えながらも、違和感を感じずにはいられなかった。

 下天には一匹の虫もいない……これはなぜだろう?

「うわぁ――見て、二人とも」

 一番に屋上の縁へ到達したエバが、ややうわずった声でヒスイとセフに呼び掛ける。声に応じて駆け寄ったたセフも、フェンスから身を乗り出すようにして歓声を上げる。

「ヒスイ、早く、はやく――」

 瞳を輝かせ、セフはヒスイを手招きする。急かされたヒスイは二人の側へ駆け寄って、その光景を目にし、息を呑んだ。

 薄暗い下天は、その焦点が闇に没する遥か先まで、無数の廃墟がひしめいていた。かつて道路だった箇所には水が溜まり、つぶれた貨車が鉢となって植物が生い茂り、下天全体に緑の水脈を形作っている。

 地面を覆い尽くす廃墟と植物――その光景はヒスイの脳内にフラッシュバックして見えた映像と全く同じものだった。

「ここだ――」

 ヒスイの台詞に、二人が振り向いた。

「ここ、私が夢の中で見た光景と一緒よ」

 ヒスイは視線を落とし、夢の中の光景と今の光景とを再度照らし合わせる。知らず知らずのうちに、ヒスイの左手は銃の握りに手を掛けていた。夢の通りの位置に、確かに塔があり、確かに蔦があり、確かに木々がある。

 ヒスイは左隅に目をやって、呼吸を押し殺した。自分自身が興奮しているのを、ヒスイは感じていた。根本からへし折れた塔が、同じく傾きかけた陸橋を断ち切っている。

「ヒスイ、あれ――」

 全く同じことに、セフも気づいたらしい。

「うん……」

 唾を呑みこむようにして、ヒスイが唸る。

「イェンさんが言っていたのはきっとあれ。ほら、あのまま進めば――」

 ヒスイは背嚢を背中からおろすと、内部をまさぐってあるものを探す。

「道が北まで続いているから、王都の近くまで辿り着けるのよ」

 ようやく目当てとなるものを、ヒスイは背嚢の中から探し当てた。それは小型の望遠鏡だった。望遠鏡の尺を伸ばしてから、ヒスイはもう一度レンズを通して下天を見やる。

 廃墟の群れは奥まで伸びていた。動きを見せるものは無い。ふと陸橋と倒壊した塔が交錯する地点を覗いたヒスイは、そこに記された文字を見つめて戦慄を覚える。

 我等ここニ在リキ。

 ヰスイ

「エバ……あれを見て」

 声を震わせながら、ヒスイはセフに望遠鏡を手渡した。示された地点を見て、セフもただならぬ表情をする。

「誰かがいる、ってことだよね? やっぱり」

「誰かじゃない」

 不安げな目つきをしてきたエバから望遠鏡を返してもらうと、ヒスイが真実を打ち明けた。

「あれは勇者。私の母の字よ」

「へっ?」

 エバが素っ頓狂な声を上げた。

「何、ウソ、あれって……えっ、ちょっ、ちょっと待ってよ――」

「ヒスイ、それホントなの?!」

 セフも目を丸くして、ヒスイに問いただす。ヒスイは無言のまま頷くと、望遠鏡をセフに手渡して同じ地点を確認させた。

「ほら……あそこに“ヰスイ”って文字が刻まれているでしょう? あれが私の母の名前なの」

 言いながら、ヒスイは自分の心の扉を何者かが叩きつけているかのような、忌まわしいほどに競り上がった緊迫感を覚えていた。居ても立ってもいられず、とにかく飛び出したい――そんな衝動だった。

 イェンが勇者の名前を口にするとき、妙にまごついていたのをヒスイは思い出した。今ならばあのときの、イェンの気持ちも分かる。

「そんなこと……いきなり言われても」

 セフが困った顔をして、ヒスイを見つめてくる。「ゴメン、何か私……ヒスイの親のこと始めて知ったかもしれない」

「ええ、ホント、あたしもよ」

 エバは、セフの手から望遠鏡をひったくると、もう一度瓦礫に刻まれている勇者の名前を見つめた。

「へーっ。ていうか、勇者ってお母さんなんだねー。まぁ、でもあたしそんな気がしたわ。何だかヒスイってぱっと見、お母さん似っぽいし……」

(それでは、予章宮で言っていたこととまるっきりあべこべではないか)

 よほど突っ込んでやろうかとヒスイは思ったが、結局やめにした。記憶を喪う前の自分だったら何と言うか分からないが、少なくとも今のヒスイにとっては、こうしたエバの気まぐれにも親しみが感じられた。


◇◇◇

 望遠鏡が気に入ったらしいエバは、しきりにあちこちを眺めていたが、ふとある一点が気になったらしい。そこに目を凝らしているうちに、エバはますます困ったような顔つきになる。

「ねぇ、ヒスイ――あれって何かしら?」

「どれのこと?」

 エバから望遠鏡を受け取ったヒスイは、エバの指示に従ってそちらを見つめてみる。

 エバの指は、かなり遠くにある一本の傾いた塔を示していた。外からの光は、その塔を充分には照らしていない。ヒスイの目からは、塔のシルエットだけが確認できた。

「あの塔か……あれがどうしたの?」

 ヒスイの質問にエバが口を開きかける、そのとき、セフが肩に掛けている袋からけたたましい音が鳴り響いた。セフが慌てて袋の中を探り、問題の音源を取り出す。――この建物の七階で、ヒスイが取り上げたからくりだった。

「ちょっとセフ、うるさいわよっ」

 話の腰を折られたエバが、非難がましい目つきでセフを睨む。

「ごめん、ゴメン――」

 セフは取り出したからくりの出っ張った部分を押してみる。するとからくりの音はすぐに鳴り止んだ。

「そうそう、あの塔」

 気を取り直して、エバが話の続きを始める。

「あそこの塔の上なんだけどさ、何か変な形してない?」

「変な形?」

 ヒスイは塔の頂上を見つめてみた。言われてみると確かに、エバの見つめていた塔だけが、妙な形をしていた。塔の幅や高さはきっと、他の廃墟と変わらないだろう。

 ただその塔だけは頂点が膨らんで捻じ曲がっており、さながら右側だけ鋭く伸びたイェンの角のようだった。

 暗いせいで、塔のシルエットしか確認できない。それでもヒスイは、その歪な形状に胸騒ぎを覚えた。

「もう暗いわね」

 ヒスイの隣で、エバが呟いた。

「やっぱり日差しが入ってこないと、すぐに暗くなっちゃう。……あーぁ、曇りの日とかどうなっちゃうんだろう?」

「そんなときは……エバの出番でしょ?」

「あ、そうかも」

 エバのとぼけた口調と、セフの微苦笑がヒスイにも聞こえてくる。

 その間にもヒスイは、歪な形の塔から目を離すことが出来なかった。ヒスイの胸騒ぎは、徐々に戦慄へと形を変えてゆく。足のすくむ思いがした。それでもヒスイは望遠鏡から目を離さない。

 ヒスイは塔に釘付けになっていた。

「ま、いいわ……」

 エバの声。塔がさらに傾いたようにヒスイには見える。

「今日はここに泊まりましょう」

「え……ホントに?」

 セフの不安げな声。

 ヒスイの覗く望遠鏡の向こうで、塔の一部が音もなく剥がれ、落下してゆく。

 頂上の形が、心なしか変わっているように見える。

「あっったり前でしょう?」

 エバが強気な声を出した。

「他にどこで寝るって言うのよ? あたしたち三人は木乃伊ミイラと一緒に仲良くここで眠るのよ」

「やめてよ、何だか縁起の悪い」

 セフは震えた声で、しかし小さく笑う。

 塔は更に傾く。

 違う、傾いて倒れている。

 そして塔の天辺は、暗闇に屹立して翼を拡げている。光源が無いはずの暗闇に二点、猛禽の瞳があざとい光を放っている。

 あれほど遠くにいるのに、あの大きさで“怪鳥”は塔に止まっていた。ここまで飛んでくるなら。ヒスイはここにきてようやく、自分達の危機を悟った。

「ねぇ、ヒスイ――?」

 ヒスイの顔色が一気に悪くなるのを見て、エバが心配げに尋ねる。

「走って!」

 ヒスイはエバに構わず叫ぶと、非常階段の方角を指差す。何が何だか分からないまま、エバもセフもヒスイの勢いに気圧されて走る。

 ヒスイは手早く背嚢を背負い、望遠鏡を握り締めたまま駆け出す。振り向いたままヒスイの視線は一点、怪鳥に注がれる。はじめ豆粒ほどだった大きさは、急速に扇のように広がり、巨影は光を帯び色を帯び、圧倒的な質量でヒスイに迫り来る。

「まずい、まずい……!!」

 セフの浮き足立った声と、エバの悲鳴が重なる。朽ちかけた庭園の中を、泥が跳ねるのも厭わず三人は疾走する。

「ほら、二人とも早く――!」

 いつの間に準備したのだろう、真っ先に出入り口に辿り着いたエバがタクトを振るって鉄扉を打ち叩く。頑強なはずの鉄扉は蝶番ごと弾け、大きな音を立てて内側に倒れ伏す。

 室内に舞い戻ったエバが必死の形相で二人に呼びかける。セフがヒスイより先に、辛うじて扉の向こう側へ逃げた――その矢先。風圧に曝されて揺れる花々の匂いと、怪鳥の鋭い叫び声が同時にヒスイの感覚を揺さぶった。「ヒスイ!」エバの声が聞こえる。またしても鳴っているのは、セフの持っているからくりだ。

 間に合わない!

 出口まであとわずか。ヒスイは床を蹴ってエバ達目がけて飛び込む。ベルトのホルダーから銃を抜き去り、身体をねじって振り向くと、二発。今まさにヒスイを屠らんとしていた怪鳥の、右の瞳と鼻腔に銃弾が炸裂した。

 怪鳥は絶叫すると拡げていた青い翼を畳み、鋭い鉤爪で塔の屋上に不時着しながら前につんのめって歩き出す。怪鳥の左の瞳は、なおヒスイを標的に爛々と輝いている。

「いけない、早く!」

 地面に転がり込んだ勢いでヒスイは起き上がる。呆けているエバとセフに発破を掛け、階段を駆け下りる。

 三人が踊り場に辿り着いた瞬間、着陸に失敗した怪鳥の巨躯が建物に激突し、脆くなっていた壁や天井が砂糖菓子のように軽々と剥がれる。

 怪鳥の黄色い左の鉤爪が勢い余って室内に突入すると、先ほどの木乃伊を鷲掴みにしてその場で粉砕した。

「うわぁ――」

 この場に似つかわしくない、妙に間の抜けた声をセフが発する。

「行こう、行こう――!」

 誰彼ともなく叫ぶと、三人は脚に羽が生えたかのような速度で階段を駆け下りる。怒り狂っているらしい怪鳥は金切り声を上げ続けながら、鋭い脚の鉤爪で塔に穴を開けている。

 迂闊だった――。階段を駆け下りる最中にも、ヒスイは自分の軽率さを責める。戦慄を感じ始めたときに、とにかく二人を連れて逃げるべきだった。あの戦慄は小動物が、捕食者に血眼で射竦められたときに感じる第六感だったのだ!

 怪鳥の繰り出す地団駄の猛撃に、建物全体が揺らぐ。

 無我夢中で下へ、下へと三人は降りてゆく。一階の床をヒスイが踏みしめた瞬間、目の前の壁に掛かっていた案内図がガラスのように弾け――後ろにある支柱が皹を露出させた。

「こっち――!」

 からくりのけたたましい音の中からセフの声がする。セフは更に下へと続く階段へと駆け出していた。

 他に方法はない。エバもヒスイも一足で三段ずつぐらい段差を飛ばしながら下へと降りてゆく。地下の一階へと続く踊り場へと差しかかった途端、今までに聞いたこともないような大音量が建物全体からこだまし、先ほどヒスイ達のいた箇所に鉄筋が落ちてきた。

 階段はまだ続いている。ヒスイもエバもなりふり構わず下へと降りた。地下全体が激しく揺れている。建物は崩れていた。階段に鋭い衝撃が走る……太い鉄骨が一本、縦に旋回しながらエバ目がけて飛んでいる――!

「エバ、向こう!」

 地下一階に駆け下りたヒスイは、自分のいる反対の方角を指差した。エバはすぐさま、セフのいるそちらへ滑り込む。

 間一髪で鉄骨はエバを空振り、床に当たってひしゃげる。ものすごい音と振動に、三人は立っていられない。ヒスイは立ち上がって二人に合流したいと思ったが、降り注ぐ小さな瓦礫から自分の身を守るのに精一杯だった。

 鉄骨や瓦礫がエバ達とヒスイの間になだれ込む。衝撃でヒスイは床に転がり込んだ。煙幕のように広がる土煙に目をやられないよう、ヒスイは蹲って目をつぶり、息を止めた。岩がすり潰され、金属がねじ切れる不快な音がヒスイの脳内に反響する。

 やがて静寂が訪れた。

 怪鳥の叫び声はもう聞こえない。

 セフの持っているからくりの音も聞こえない。

 恐る恐る、ヒスイは目を開ける。……漆黒の中に一人取り残されていた。自分のついている浅い息だけが、ヒスイの耳にこだましてくる。

 よろめきながらも立ち上がると、ヒスイは背嚢の中から手探りでランタンを取り出す。ネジを捻ればヒスイの周囲がぼんやりと明るくなる。ヒスイは息を整え、エバ達がいるであろう方角へ近寄った。……崩れ落ちた建物が瓦礫となって、ヒスイの行く手を阻んでいる。

(どうしよう)

 ヒスイは冷静になるために、深呼吸を繰り返した。エバとセフは無事だろうか? 瓦礫は天井を突き破って地下へなだれ込んできたわけではなく、あくまで階段を通路にしてなだれ込んできたようだ。地下そのものは丈夫なわけだから、まだ希望はある――ヒスイは覚悟を決めると一旦、大きな溜息をついた。

「動くな」

 ヒスイの知らない声が背後から聞こえてきたのは、そのときだった。

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