八階から九階へと繫がる踊り場に、三人は差しかかった。
回転椅子に別れを告げて階段を登っていたエバは、ふと頂上を見上げて「うわっ……」と呟く。
「どうしたの?」
駆け寄ったヒスイは、エバの視線につられて階段の頂上を見た。
登りきった先、木箱の詰まれた出入り口の奥に、人が死んでいた。
「何かあったのかな?」
七階で拾ったからくりを取り出し、夢中になっていじっていたセフも、今度ばかりは手を止めて上を見やった。周囲に注意を払いつつ、そっとヒスイは死体の前まで近づいてみる。
積まれた木箱の向こう側、エバが操っていたのと同じ回転椅子の中に蹲ったまま、死体は時間に貪られて木乃伊と化していた。
周囲に怪しいものがないか、ヒスイは調べる。幸い、死体の周囲には何の仕掛けもないようだった。踊り場で待機している二人に合図すると、二人ともゆっくりと階段を登ってやってきた。
「何、ここ……人が住んでいる、ってこと?」
不安げに、エバがヒスイを見つめてくる。
「数ヶ月か前に、人間がここへやってきた、っていう証拠だよね」
からくりを仕舞いこむと、セフは木乃伊の前にしゃがむ。セフは手元に視線を落とし、木乃伊の右手に何かが握られていることに気付いたようだ。臆面もなく木乃伊の右手を掴むと、セフはその指から握られているものを掴み取った。
「――矢か」
苦々しい顔つきで、セフはそう吐き捨てる。ヒスイは木乃伊の懐を覗き込んだ。……白く細い、金属で出来た矢が一本、木乃伊の右わき腹に刺さっていた。
「殺された、ってこと?」
エバが困ったような表情をする。
「え、でもそれってさ……殺した奴がいる、ってことだよね?」
「そうかもしれない」
木乃伊から矢を引き抜くと、憮然とした表情のまま、セフはミイラの側から立ち上がった。入れ替わりになって、今度はヒスイが死体の前にしゃがみ込む。死体は、あちこちが破けた汚れまみれの服を着ていた。何かの怪我だったのか、干からびた全身には包帯が巻かれている。短く刈られた頭髪としっかりした肩幅からして、この木乃伊はかつて男性だったのだろう。
ヒスイは、木乃伊が座る椅子の後ろに何かが落ちていることに気付いた。手を伸ばして、ヒスイはそれを拾ってみる。――一枚の小さなカード、その裏には赤い見慣れない字で、何かが書かれていた。
「それ、何?」
「何だろう、分からない……」
ヒスイはカードを見つめたまま頭を振った。この木乃伊が遺した手紙なのだろう。字が赤いのは、血で書かれているためだ。
「メッセージを遺すだけの相手がいた、ってことだよね」
「やだセフ、怖い――」
エバが眉をひそめて腕を組んだ。セフは矢を懐に仕舞って、蹲る死体を眺めている。
「ヒスイ……人間について、イェンさんから何か言われていないの?」
その指摘に、ヒスイは黙って俯く。イェンの手紙には、下天に人間がいることについて書いてあった。ただその名宛人はヒスイに限定されていた。
(どうしてエバとセフに感付かれてはいけないのだろう?)
余計な混乱を防ぐためにわざとそうしたのだろうか。そうだとするなら下手に沈黙を守るより、二人にちゃんと話をしていた方が都合が良いはずだ。
「聞いたわ……少しだけなら」
「ヒスイ、それ本当?」
エバの質問に、ヒスイは向き直ってから頷いた。
「ええ。……でもまさか、こんな風に早くお目にかかれるなんて思っても見なかったけど。これ以上、二人を混乱させるわけにもいかないから」
「そう……なんだ」
まだ釈然としない様子でエバが呟く。
「私も詳しくは聞いていないんだけど、イェンさんは……下天に住む人間とは関わるなって言ってた」
「――たぶんその方が正解だよね」
木乃伊を一瞥して、セフは言った。
「理由はどうであれ……死んだ人間をこんな風にほったらかしてしまうような人間達だよ? まともに話し合えるとは到底思えないし」
ヒスイは口を閉じ、椅子に座ったままの木乃伊を見つめていた。この木乃伊がかつては生きていたなんて、ヒスイには到底信じられなかった。木乃伊は初めから、あたかも木乃伊のまま存在しているかのようだった。
「不思議ね……」
「不思議? 何が?」
「この木乃伊をはじめに発見したとき……エバはどう思った?」
突拍子のない質問に、エバは目を白黒させる。
「どう、って……『あぁ、人が死んでるなァ』ぐらいだけど」
「でも、あまり驚かなかったでしょう?」
念を押すようにして、ヒスイは訊ねた。
「予章宮でエバに会う前にね、私通路で人が死んでるのを見たわ。そのときはホント、心臓が飛び出てくるんじゃないかってくらい怖かった。――私達、死体に馴れてしまったのよ」
「……今頃だったらなァ」
エバが答える代わりに、セフが妙にあけすけな口調で答える。
「朝餉もとっくに終わっていたし、何をしていただろう? ……境内を掃除して、稽古をして、読経して、座禅サマタをやったあと、夕餉を食べて行水して寝たんだ。……何もなければ」
「ちょっとセフ……やめてよ」
エバがやりきれないといった表情をする。
「その……そんなこと言われたら、あたし何も言えなくなるでしょ」
「ごめん」
セフは小声で謝ると、諦めたような笑みを作った。
「何かが起きてしまったなら……それを無くさないと」
ヒスイが自分自身に聞かせるようにして言った。
「私達はたぶん、何があっても闘う理由を見失っちゃダメなんだと思う。……そうでしょ、セフ?」
「うん。きっとそう」
セフは黒い瞳を輝かせてそう断言すると、脇に据えられている扉のノブに手をかけた。
「さぁ、ここを抜けたらもう屋上だ……少し、覗いてみようよ」
錆付いた鉄扉を、セフが体重をかけて引っ張った。扉はぎこちなく軋みながら開いてゆき、三人の前方に下天の展望が開け始める。