第19話:精密機械

 歩くたびに、踏みしめられたガラスの破片が軽妙な音を立てて弾けてゆく。

「すごい高さね」

 塔の天辺を見上げながら、エバが呟いた。空を見上げるつもりで上を向いているのに、まだ視界の先に塔が見える。ヒスイ達にとっては初めての、不思議な感覚だった。

 塔の最上部は輪郭が薄らぎ、背景となっている下天の天蓋と一体化してしまっている。下天の天井から、巨大な塔が根を下ろしている……そんな錯覚にヒスイは囚われる。

「大丈夫かなァ……」

「大丈夫に決まってるでしょ」

 隣で不安げな声を漏らしたセフに対して、エバは鼻を鳴らして食って掛かった。

「今更どうするのよ。大体、登りたがってたのはあなたでしょ?」

「そりゃそうだけど――」

 窺うようにして、セフはヒスイを見つめる。不安に駆られるセフの気持ちは、ヒスイにもよく分かる。今までは視界の端々に映る塔を、「石造りの頑強なもの」として特に注意することなく見過ごしていた。

 だがこうして塔の根元まで近寄ってみると、そのあまりにも軽薄で無質量な景観に驚いてしまう。建造物の窓という窓は砕け散り、その破片がいまヒスイたちの足元に敷き詰められているわけだが、かつて窓だった箇所はそのまま、建物に巣食っている虫が食い千切った孔のように見えてしまう。

 塔の外観は、年月という重厚な虫が食い散らかした枯れ木の姿と重なった。

「いえ……きっと大丈夫よ」

 自分の空想を打ち消すためにも、ヒスイは特に「大丈夫」を強調して言った。

「この建物も石と鉄骨で出来ているわ。そう簡単には崩れないだろうし、私たち三人が上ったところでどうってことないわよ、きっと。――よほど危なかったら、途中で引き返せばいいんだし」

「そうよ、その通り!」

 エバが左手の拳を握り締めると、頭上へと突き上げ気味にガッツポーズを作り上げた。

「さぁ、さっさと登りましょう――」

 エバはポーズを崩さないまま、建物の入り口を跨いで中へと入ってしまう。

「何だか……元気ね、エバ」

 いつになく高揚感に満ちているエバの姿を見て、ヒスイは溜息をついた。

「うん、本当に羨ましい」

 セフが目を伏せながらそう肩を落とした。「魔法使いって、みんなああなのかなァ。ねぇヒスイ、あのさ――」

「何? どうしたの?」

「その……ありがとう」

 セフは照れくさそうに、ヒスイにお礼を言う。「船の中で、イェンさんに聞いたんだ。……心配かけて、ごめん」

「え……あぁ」

 合点のいったヒスイは頷くと、小さく微笑んだ。セフの様子がおかしいことを、ヒスイは船の中でイェンに相談していた。

 あのあと、セフはイェンから何か助言を受けたらしい。声からも、セフの調子が良くなってきたのが分かった。

「私は全然大丈夫よ? ……調子が出ないときは、誰にだってあるでしょ」

「うん。でも、本当に助かった」

 セフははにかみがちに答えると、今度は真剣な表情になってヒスイに囁きかける。

「だからさ……その、もしエバが『ここを寝床にしよう』みたいなことを言ったら――」

「大丈夫、分かった、わかった」

 苦笑を返しつつも、ヒスイは了解した。「ここじゃない、もっと地面に近い建物にしましょう?」

「そう、それ」

 ヒスイの返事を喰い気味に頷いた後、セフが安堵の息を吐いた。

「ああ、よかった。――ヒスイなら分かってくれると思ったんだ」

「まったく、何やってるのよっ」

 先へ進んでいたエバが、二人の来ないことに気付いて戻ってきたらしい。

「ほら、早く行きましょう? 日が暮れちゃうわよ?」

「あぅ、そうだね、うん、行こう」

 セフは矢継ぎ早に頷くと、早足でエバの下まで近づいた。エバは二人の様子をかわるがわる見つめている。

「何? 何かあったの?」

「ううん、何にもないよ」

 ヒスイはしらばっくれてそう答えると、額を伝う汗を右手の甲で拭った。

「ところでエバ、中はどんな感じ?」

「大丈夫よ、危なっかしそうなところは無かった」

 エバは軽い探索の成果を、胸を張って答える。

「奥に階段があったわ。そこから屋上まで出られそうよ――さあ、分かったら行きましょう」

 エバを先頭にして、三人は建物の中へと入っていった。


◇◇◇

 黙々と階段を登り続けて数分が経った。登るべき階段は、上の階から外れて横倒しになっている。

「ウソ……ウソーッ!」

 エバが声を荒げると、手近にあった滑車付きの椅子を、念力で手繰り寄せて腰を下ろした。背もたれに力なく寄りかかると、思い切り背伸びをして不平を垂れる。

「あーもうっ、どんだけ登ればいいのよこの塔!」

「この街の人たちって、いつもこんなに階段を登っていたのかしら?」

 ヒスイ自身も半ば息を弾ませて、眼前に横たわる倒壊した階段を見つめた。

 階段もまた、ヒスイ達の住む世界には見られない独特の構造をしていた。段差は黒い蛇腹を横に敷き詰めたようになっており、その外側は黄色く縁取られている。階段の登り初めと登り終わりは段差が小さくなっており、段差をなぜ均等の高さに揃えないのか、ヒスイは疑問に思った。

 階段の手前の床には、流線型の文様が描かれている。その文様と同じ文様は、階段の脇に掲示されている標識にもあった。両者を見比べているうちに、その文様が数字を表していることにヒスイは気付いた。

「今が七階だから……」

 ヒスイは階段脇の標識に近づくと、表面を覆っている砂埃を手で払った。自分達の居る階層が、標識の中で特に赤く強調されていることにもヒスイは気付いていた。

「あと二階分ね。それさえ登りきれば屋上に辿り着けるわ」

 ヒスイの話を聞いたエバは溜息をつくと、背もたれに背を預けたまま天井を見上げた。何か不満を言いたげな表情だったが、視線を戻した後は黙って数回、首を縦に振った。

「まぁ、でもあと二階分か。よし、頑張ろう! せっかくここまで来たんだし。うわっ……」

 エバは自分を励ますように、足で床を弾いた。その衝撃で、エバを乗せた椅子の滑車が動く。――と同時に、椅子そのものも水平に回転した。スピンしているエバの隣で、セフが目を丸くしている。

「ヒスイ、すごいよこの椅子――」

 良いアトラクションが出来たのか、エバは嬉しそうに椅子の上で回転する。

「ようし。もうあたしこの階では歩きません。この回転椅子があたしを運んでくれるでしょう……それっ」

 エバは高らかにそう宣言すると、椅子に座り込んだまま指を鳴らした。静止していたはずの椅子が錆付いた音を立てながらも、ひとりでに動き始める。

「好いわねー。らくちんよ、この椅子。――はーぁ、せっかく暇だったら、この椅子丸ごと持って帰れるんだけどな……」

 滑車付きの椅子に正座したまま、エバは魔法を使ってヒスイの周囲を動き回る。エバにとっては、箒を使って空を飛ぶのも、椅子を使って動き回るのも同じ要領で出来るらしい。

「それで……ここが七階なのは分かったけど、これから先はどうするつもり?」

「別の階段を使ってみましょう」

 ヒスイは掲示されている標識を指でなぞる。階層の記されている表示の隣には、各層ごとの案内図が示されていた。セフもヒスイの下へ近寄って、その地図を眺めた。

「これが、私達の居る場所……ってことかな?」

 セフが地図上に記されている、赤い逆三角を指差した。建物の間取りからして、この地点が現在位置で間違いないようだ。

「そうだと思う。だとしたら、階段はここ」

 ヒスイは地図に描かれている通路をなぞって、現在位置の対角線上の位置を指し示した。その位置には、じぐざぐの記された標識が描かれている。

「このじぐざぐって、たぶん階段を表しているのよね?」

「うん。確かに」

 セフは同意してから、地図全体を眺めて溜息をついた。

「言葉が分からないって、不便だね」

 ヒスイも同感だった。下天に入ってから、ヒスイ達はこうやって行く先々で標識や表示を見かける。見かけるものの、絵で描かれているもの以外は意味を推測することが困難だった。

 今眺めているこの地図だって、言葉が分かればもっといろいろなことが分かるだろう。文明こそ違うかもしれないが、ここも確かに昔――いや、もしかしたら今でさえ――人の住んでいる場所だったはずだ。

 同じ人間が生活していただろうにもかかわらず、そこから得られる情報は皆無である。この点に関していえば、エバやセフだってヒスイと同じく、記憶は無いも同然だった。

「とりあえず行きましょう」

 ヒスイは気を取り直すと、自分達の周囲を衛星のように公転していたエバの椅子の背もたれを掴んだ。

「さぁエバ、運んであげる」

「ほんと? ラッキー……って、速い、速いよっ?!」

 ヒスイは背もたれに全体重をかけると、助走をつけて一気に加速した。

「あっ、待って――」

 遠くからセフの声が聞こえてもお構い無しである。タイルの敷かれている建物の廊下は摩擦が少ない。ヒスイは床を蹴ると、滑車のある椅子の脚に乗っかった。エバが相変わらず椅子の上に正座をしたまま、しかし今度は背中を丸めて縮こまっている。制止させるために魔法を使おう……とは思わないようだ。

 テイロス市へ向かう森を抜けるときのような緊張感にヒスイは包まれた。あの時箒を飛ばしていたのはエバだったが、今はヒスイの方が主導権を握っている。

 滑走している最中、ヒスイは周囲を見渡した。柱の多い代わりに壁の少ない建物には、あちこちにがらんどうになった商品棚が放置されていた。この層は市場いちばだったのだろう。木漏れ日のように僅かな下天の太陽に照らされて、商品棚には白いガラスの破片が花びらのように散っている。進行方向に視線を戻したヒスイは、あることが気になって、今度は素早く天井を盗み見た。思えばこれほど大きな建物なのに、照明らしき器具がひとつもない。明かりはどうやって手に入れるのだろうか。

 突き当たりの壁を蹴りつけて、ヒスイは速度の緩やかになった回転椅子に喝を入れた。終着点にははたして階段がある。――登りの際に利用した階段とは違い、段差は均等になっていた。

 ヒスイは椅子から飛び降りると、背もたれを手で押さえて椅子を完全に引きとめた。俯いていたエバが非難がましい目つきでヒスイを睨みつける。

「もうっ、ヒスイったら。これはあたしの乗り物なんだからね」

「エバのじゃなくて、この建物のでしょ?」

「そりゃそうなんだけどさ……」

 ヒスイとエバはお互いに見つめあうと、どちらともなくばつが悪そうに笑みを漏らした。

 エバが何かを言いかけようとしたそのとき、傍らでけたたましい音が鳴り響く。

 ヒスイは姿勢を低くして、とっさに身構える。エバも思わず椅子から立ち上がると、ヒスイの後方に寄って壁際に身を潜めた。

「何、何の音?」

 緊迫した声で、エバがヒスイに囁きかける。ヒスイは左手に銃を構えると、すり足で少しずつ通路を戻ってゆく。

 商品棚の並んだ広間の一画、外から僅かな光が差し込んだ箇所から音は聞こえる。ヒスイは前方に目を移す。先ほど通り抜けた突き当たりに、セフが立っているのが分かった。セフも同じく緊張した面持ちで半身に構え、柄に左手をかけている。

 音は相変わらず鳴り続いている。――周囲に人の気配はない。ヒスイは最も身近にある商品棚の影に身を屈めると、わずかに身を乗り出して、目線を音源の方へと向けた。

 音は商品棚の一番上から聞こえてきた。そこに乗っている小さな箱状の物体から、笛を規則的に吹き鳴らしているような不快な音が発せられていた。

 ヒスイは周囲が安全なことを確かめ、音源の置いてある棚まで近寄り、すかさずそれを掴んだ。音源の上部にはでっぱりが着いている。試しにヒスイはそれを押してみた。手のひらに微かな手ごたえが伝わり、小さな箱からの鋭い音は止まった。

 張り詰めていたものが解け、ヒスイは胸を撫で下ろした。

「ヒスイ――!」

 セフがまだ剣を構えたまま、ヒスイの側までやってきた。ヒスイは小さな箱をひっくり返してみる。箱の表面はガラスが張っており、奥には奇妙な細工が施されているのが分かった。ヒスイが標識で見かけたのと同じ流線型の文字が十二種類、円形に配置されていた。中心軸から伸びている大小二本の棒が、文字と文字の間に傾いている。

「これ……何?」

 セフが興味深げに、ヒスイの手に握られているからくりを眺めた。

「ヒスイ……どうやって音を止めたの?」

「ここよ」

 ヒスイは箱型のからくりをセフの前に掲げた。「ここのでっぱった部分を押してみたのよ」

「これ、何のための道具なんだろう?」

 セフはヒスイの手からからくりを受け取って眺め回している。

「方位磁針……じゃないよね? 針二つも要らないし、音なんて必要ないし」

「――ちょっと、どうなったのよ」

 滑車の軋む小刻みな音と共に、エバを乗せた回転椅子が二人の側へ現れた。

「音は止んだみたいだけど、何? 何か居たの――」

「……わっ!」

「ひゃっ?!」

 縮こまっていたセフがわざと身を乗り出して、手に持ったからくりをエバの前に突き出した。まんまと嵌められたエバは金色の瞳を丸くして、椅子の上から跳び退った。

「ちょっとセフ、脅かさないでよっ? ……てか、何それ?」

「分からない。今ヒスイと『これは何だろうね』って話をしていたところ」

 セフの手の中で、からくりの表面に配置された文字が外からの光で輝いた。その文字は、ヒスイが先ほど確認した数字と同じものだった。

「セフ、もう一度みせて」

 ヒスイはセフの手から再びからくりを譲り受けると、その他の文字も確認してみた。“6”、“11”――調べてみると、からくりに刻まれているのは全て数字で、一から始まって十二までの数字が均等に配置されていた。

「何か分かりそう?」

 セフが心配そうにヒスイに訊ねる。ヒスイは首を横に振った。

「ふぅ。まぁ、それはいいってことよ。二人とも先へ進みましょう?」

 エバは安堵の溜息をついてから、再び回転椅子に腰を下ろした。

「でも、本当に嫌な音だったわね。なんかこう、気持ちよく寝ているところを叩き起こされている感じ、っていうか。――まぁ、どうしても気になるんだったら、後で調べましょうよ? イェンさんなら、もしかしたら知っているかもしれないし」

「ええ、そうね……」

「じゃあ、私が預かる」

 ヒスイが無意識の内に差し出したからくりを、セフは無造作に肩にかけた袋の中へと仕舞いこんだ。

「さあ、さっさと行きましょう」

 三人は再びエバを先頭にして、終着点の階段まで歩いてゆく。

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