第17話:秘め事と宿題と

 南から吹く湿った風を受けて、帆が大きくはためいている。

 下天へ行くことが決まってから、事態は慌しく進んでいった。ヒスイ、エバそしてセフの三人は、イェンが調達した艦船に乗せられ、今は下天の入り口へと向かっている。

 エバが思った以上に、船の進みは速い。デッキの上から、故郷の島をエバはずっと見つめていた。船が上下に揺れるにつれ、視界の中央に移る故郷も上下に動く。頼りなさげな故郷の様子は、エバの心をますます憂鬱にさせた。

 が、原因はそればかりではない。

「あら? どうやら先客がいたようね」

 控え室の方面に据えられた階段から、耳慣れた声がした。エバが振り向くと、リリスがデッキまで上がってくる。

「いい風ね」

「――姉さんったら」

 涼しい顔をしているリリスに対して、エバはしかめっ面で返した。原因はもっぱら、姉が指に挟んでいるタバコである。

「あらーどうしたのよ? 断末魔を上げるなまずみたいな顔しちゃって」

「……そんな顔してないし」

 文句を垂れる妹に微笑をくれてやると、リリスは煙草をエバの前にかざした。エバは炎の魔法を使って、煙草の先にしぶしぶ火を点した。

 一服吸ってから、リリスは満足げに煙を吐いた。風を伝い、紫煙はすべてエバの顔に降りかかってくる。

「ゲフンゲフン……もーうっ!」

「あら、ごめんなさいね?」

「ぜんぜん『悪い』なんて思ってないでしょ?」

「まさか! そんなことないわよぉ。ねぇエバ知ってる? 煙草から直接吸う有害物質よりも、煙草の副流煙から流れる有害物質のほうが多いのよ? 残念よねぇ? 私より先に生まれてきて、私よりも早く肺がんや咽頭がんで死ぬなんて」

「あーもうっ、さっきからヒドイよ! ほら、さっさと火を消して!」

「あらーん、やめてよーん。お姉ちゃんの人生最大にして最後の幸せを奪わないでーん……」

 口調こそおどけていたものの、リリスは素直に妹に従い、タバコを海に投げ捨てた。海中に没する手前で、タバコは花火のように明滅し、そのまま消えてしまう。リリスの魔法がなせるわざだった。

「まったく……! 都合が悪くなると、姉さんっていつもこうなんだから」

「あら、『いつも』ってわけじゃないわよ? 誰だって都合が悪いときはあるんだから」

「それは――」

「フフフ……」

 微笑んでこそいるものの、リリスの視線は透徹していた。ばつの悪さを感じ、エバはただ口ごもるしかなかった。

 リリスとエバは、歳が九つ離れている。エバが物心ついたときには、父親も母親も居なかった。そんなエバにとって、リリスは姉であると同時に、ときに父であり――母でもあった。

「何か隠し事をしているんでしょう、エバ? 今のうちに私に話しちゃいなさいよ。ここでなら、話を聞いている人なんて誰もいないんだから……」

「ダメ! ゼッタイに言えないんだから……!」

「まったく……」

 リリスは肩をすくめたが、それっきりだった。

「エバ、言うのならば今しかないのよ? あなたも私も、次に生きて会える保証なんてないんだから。あなたはその秘め事を背負って下天を抜けなきゃいけないのよ? そんなことができるの?」

「できるかどうかじゃないの……やんなきゃいけないのよ、あたしが! でないと――」

 でないと、ヒスイが死んでしまうかもしれないのだ。いやヒスイが死ぬ以上に、エバ自身が死んでしまうかもしれない。

 もしこの秘密を打ち明けたのならば、ヒスイは自分を軽蔑するようになるだろう。今のヒスイと、記憶の中のヒスイが、まったく同じ反応をしてくれるとは限らない。

 かつてのヒスイに憫笑され、今のヒスイに嘲笑される……そんなのはエバにとって堪えられなかった。

「あなたって本当に頑固よね。……誰に似たのかしら?」

「ごめん……」

「――まぁでも、こんな調子だろうとは思ってたわ」

 言い終えると、リリスは懐から何かを取り出した。

「――これは?」

 差し出されたそれを、エバは不思議そうに眺めた。

 銀色で、薄い羽子板のような形をしている。握りの部分には取っ掛かりが付いていたので、エバはそれを引っ張ってみた。ばねの弾けた音に続いて、畳まれていた握りが長く伸びる。伸びきると、全長はエバの身長よりも長くなった。

「折り畳み式の箒よ、私からのプレゼント。――イェンさんに聞いたんだけど、下天は天井が思ったより低いから、あまり自由には飛べないそうよ。だったら荷物はなるべく軽い方がいいでしょう? 一人乗りだけど、馬力は抜群よ」

 リリスの話の最中にも、エバはその箒に見入っていた。大型の箒を乗り回しているエバにとって、不安になってしまうくらい箒は軽かった。しかし、箒から伝わってくる魔力は相当なものである。折り畳み箒の細い柄に、エバは試しに力を込めてみた。頑丈な箒の柄はたわむことさえなかった。

「気に入ってくれたかしら?」

「すごく嬉しいけれど――」

「……自信を持ちなさい、エバ。魔法も道具も、使いこなすのは持ち主よ」

 妹の両肩に、リリスは手を乗せた。うつむきがちだったエバも、新しい箒を握り締める。

 下天の入り口に近づくにつれ、波は一段と高くなった。


◇◇◇

「セフ、」

「……あ、イェン老師ラォシ……」

 横になっていたセフは、慌てて身体を起こそうとする。船酔いにやられて、セフは先ほどから船のベンチに寝そべっていたのだ。

「ちっと外に出てみんかの? 風に当たったほうが楽じゃろ?」

「はい。……すみません」

 イェンに促され、セフはおとなしく外へ出た。空は晴れ渡っていたが、波は高かった。リリスの魔法によって、艦船全体が結界でコーティングされている。

「セフ、すまんかった」

 デッキの縁へ出るなり、イェンがセフに頭を下げた。謝られている理由が分からずに、セフはただどぎまぎする。

「いえ、その……どうして?」

「僧正のことじゃ。ヒスイから聞いたんじゃ。もっと早く駆けつけておれば、あんなことにならずに済んだやもしれん」

「いえ、そんな、とんでもない!」

 最後まで言い切れず、セフは咳き込んだ。

「イェン老師のせいじゃありません。あれは……わたしが弱かったから……」

「セフ、あまり自分を責めてはいかん、」

 くちびるを噛み締めているセフに対して、イェンは懐から短剣を取り出した。

「受け取れ、セフ。――あれからの贈り物じゃ」

 イェンに促され、セフは短剣を抜き放ってみる。刀身は日の光に触れた途端、眩いばかりの光沢を放った。セフは思わず目を細め、今度は日陰に刀身をさらして眺めてみる。刀身は氷のようにきらめき、冷気を放っているかのようだった。

「すごい――」

「気に入ってくれたかの? 何でも氷のように冷たい光を放つから、“氷霜剣”と言うそうな」

「気に入ったも何も……」

 続けるべき言葉がすぐには見つからなかった。

「こんなすごいのを見たのは初めてです。老師はどうやってこれを」

「サン様から頂いたのじゃ」

「サン様から?!」

 すかさず短剣を鞘にしまうと、セフはイェンにつき返した。

「そんなすばらしいものを頂くわけには参りません。わたしなんかより……師範ダォシに渡すべきです」

師範ダォシ……イヲのことかの?」

「はい。――あっ!」

「どうかしたかの、セフ」

「いえ、実は――」

 と、セフはこの前ヒスイとした会話をイェンに聞かせた。僧正の言っていた”国従”を探すのも、大切な目的の一つである。

「そんなことが……むぅ、分かった」

「もし見かけたら、師範ダォシをよろしくお願いします」

「分かった。それでじゃ、セフ。短剣を貰ってくれる気にはなったかの? 妾の目には、充分馴染んでいるように見えるがの」

「いえ、そんなことは……」

 セフはまよっていた。貰えるものなら貰ってしまいたいと思うくらい、すばらしい短剣なのだから。

「のう、セフ。お前さんはいったい、何のために刀を身につけておるのじゃ?」

「何のために、ですか?」

「さようじゃ」

「それは――」

 セフは言いあぐねた。

 自分はおそらく、サイファを赦せない。仮にいま武器を取る目的があるのだとしたら、復讐のためである。しかし、それでどうなる? 問題はサイファに復讐した後だった。そのときの自分の姿を、セフは明快に見出すことが出来ない。

 なら復讐をやめてしまうのか? それもありえない。師範ダォシを探す合い間に、サイファはきっと三人の前に立ちはだかるだろう。ヒスイたちが戦っているときに、指をくわえていることなど、セフには到底できない。

「分かりません」

「分からんじゃと?」

 イェンが呆れ返ったように声を上げる。

「分からんはずがないじゃろ。そなたの気持ちなんじゃから。分からない気になっているだけじゃ」

 イェンが問い詰めようとしたそのとき、

「見えたぞーぅ」

 という、水夫の妙に間延びした掛け声が船にこだました。イェンもセフも、声に反応して振り向く。

 浜辺の向こう、巨大な洞窟が口を開けて待っている。それは奇妙な光景だった。セフは建物の一階と二階とを、同時に眺めているような感覚を味わった。下天の入り口は裾が広く、土でできた天然の天蓋である上天の層は、そのあまりの巨大さにかえって質感が乏しかった。

 目を凝らしたセフは、更に息を呑んだ。下天の地表を、無数の廃墟が埋め尽くしている。

「あれが……」

「あれが下天じゃ」

 イェンが頷いて示した。

「セフ、下天を通り抜ける間、お前さんに宿題を出す」

「宿題……ですか?」

「そうじゃ。セフ、お前さんは“自分”がない。なさ過ぎる。下天を抜けるまでの間に、お前は――お前さん自身がどうしたいのか考えておくのじゃ」

「はい、分かりました」

「言っておくが、これは妾だけの意見ではないぞ。お前の師範ダォシも――金瓶梅も言っておった、『セフには“自分”がない』とな」

 イェンの言葉に対して、セフは返事をしなかった。下天を冒険しながらにして、自分が本当にしたいことを確かめる。――セフには、どうしても至難の業にしか思えなかった。

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