「う……ん」
まだるっこしい風のせいで、イェンは目ざめた。太陽が眩しく、湿気は無いが周囲は暑かった。
「う……ありゃ?」
寝返りを打とうとして、イェンは周囲の様子がおかしいことに気づく。身体を動かした際に、二の腕に砂がこびり付いた。
「ここは……?」
周囲の光景を見て、イェンは言葉を失う。地平線の向こう側まで、砂で埋め尽くされている。砂は風で形を変え、海の波のようにうねっている。全身にとげを生やしたこん棒のような植物が、砂漠から点々と顔を覗かせていた。
“竜の島”に「砂漠」は存在しない。したがって、イェンは目の前の光景を適切に表現しかねた。
(そうじゃ、ヒスイじゃ)
しばし呆然と砂のうねりを見つめていたイェンだが、ここでようやく大事なことを思い出す。
リリスの触手に身を投げ打ちつつ、イェンはヒスイたち三人を塔の最深部へ送った。しかしそれっきり、イェンの記憶は途絶えてしまっている。
(おかしいのう、妾は死んでしまったのじゃろうか?)
そのわりには、イェンの記憶も思考も確かだった。
「しかしこのままじゃと……うげっ?!」
立ち上がりかけたイェンの背中に、鈍い衝撃が走る。なす術も無くイェンは倒れこみ、前身が砂まみれになる。
「気づいた? ……まったく。早く起きなさいよ」
イェンの後ろから、威勢のいい女性の声が響いてきた。悪態をつきかけたイェンも、その声音、その口調にはっとなる。
「イ、イスイ様……」
両手で砂を握りしめながら、イェンは後ろを振り向いた。墨色の髪に、鳶色の鋭い瞳。イェンを見下ろしているのは、間違いなくイスイだった。
「あ、イ、イ、イ、イ、イスイ様……うげっ?!」
慌てふためくイェンのおでこを、イスイがデコピンで弾き飛ばす。
「何が『あ、イ、イ、イ、イ、イスイ様』よ。言葉遊びをやっている場合じゃないのよ。ほら、早く立って、私をおんぶなさい。サンのババアのところまで行くわよ」
「さ、サン様?!」
混乱しながらも、イェンはひざまずいて、イスイを背負おうと準備する。目の前にはイスイがいて、しかもこれから死んだはずのサンへ会いに行くという。
「するとやはり、ここは死後の世界……あ痛ッ?!」
「ばーか。私がそんなたやすく死ぬわけ無いでしょ? ヒスイよ、あの悪童のところまで行くのよ。ヒスイは向こうよ。ほら、はやく」
右手で方角を指差しながら、イスイは左手でイェンの角をぐいぐい引っ張る。
「あいた、あいたたたたた。イ、イスイ様、おやめくだされ」
涙目になりながらも、イスイの示す方角へイェンは跳躍をする。
「ふうーッ! やっぱあなたの背中に乗って跳ぶのは最高ね」
まったく無邪気そうに、イスイはイェンの頭を叩いて遊ぶ。そのたびにイェンは「いたい、いたいっ」と小声で抗議するが、当然イスイはそんなことを気にしない。
「し、しかしですな、イスイ様。ヒスイと、サン様とが、いったいどんな関係で?」
「馬鹿げた話よ、まったく。サンは形相だけを捨てて別の世界に転生したのよ。とんだ置き土産ね。私も迂闊だったわ」
イスイの話す言葉は、イェンにはかなりの程度で分かりかねた。しかしとにかくヒスイは無事で、サンもまたどこか別の世界で楽しくやっているらしい。イスイも比較的機嫌がよいようだと、イェンは判断した。
「それは……その、ようございましたな」
「ええ、クソ忌々しいけどね、とりあえず、よかったわ」
イェンはなおも跳躍を続ける。
地平線の彼方が透けてきた。太陽は相変わらず、燦燦と砂を照らし続ける。
――……
「う……ん」
顔に砂がぶち当たってきて、妙に痛い。それでセフは目を覚ました。
「ここは……あれ?」
周囲の状況が飲み込めず、セフは目を白黒させていた。見渡す限り、大地は砂に覆われている。太陽がとても暑い。おまけにセフの身体は、肩から下が砂の中に埋まっていた。
(おかしいな)
懸命に、セフはこれまでの記憶を反芻する。エバと一緒に目を覚ましたあと、二人はヒスイを追いかけて、キスイのもとまでやってきた。異形と化したキスイをやっとの思いで追い詰めた途端、セフはまばゆい閃光に身体を貫かれたのである。
(わたし、死んでるのかな?)
「――気づいたか?」
物思いに耽っていたセフに、隣から声が届いた。
「あ、ロイ……えっ?」
気がつくと、隣にロイがいた。相変わらず服は汚れていたが、どこかで行水でもしたのか、身体は綺麗になっていた。おまけに、左手に温泉卵を持って、おいしそうに食べている。
「セフ、お前も食うか?」
「あ、ありがとう――」
とセフは言ったが、身体の大半が砂に埋まっているせいで、腕を動かすことさえままならない。
「その前に……わたしを砂から出してくれると嬉しいんだけど」
「じゃあ、おっぱい見せろ」
露骨なロイの頼みごとに、セフは口をへの字に曲げる。あの一件のあとも、ロイは懲りていないらしい。
殻を丁寧にむきとりながら、ロイは温泉卵の残りを口に運んでいる。いったいどこから手に入れたというのだろう。あんなセクハラ発言をしておきながら、ロイはいたって涼しげな表情をしていた。
「またそんな……バカなことを……」
ただただあきれ返って、セフはそう呟くしかなかった。
「フフフ……」
俯いていたセフだったが、ロイの笑い声を聞いて、再び顔を上げた。何がおかしいのか、ロイは肩を震わせて笑っていた。
「そうだな……ばかばかしいな……ハハハ。確かに、ばかばかしいよな」
「ロイ……気は確かなの?」
「ああ、まったく大丈夫だ。自分でも怖いくらいだ……っと」
立ち上がると、ロイはセフの背中側に手を差し込む。砂をまさぐりつつ、ロイはセフの両脇に手を入れた。
「それっ」
「うわっ」
そのまま一気に、セフの身体を持ち上げる。小柄なセフの身体が、宙に浮いた。地面から掘り出された野菜のような気持ちになり、セフは何だか落ち着かない。
「あ、ありがとう、ロイ……」
「ばかばかしいことに『ばかばかしい』って言えるのは大事だぜ」
セフの言葉には答えず、ロイはそのままセフの側を横切った。そちらを振り向いて、セフは目を丸くする。砂に埋まっていたせいで、背後の様子が分からなかったが、どうやらオアシスが存在していたらしい。
ロイが芝生に足を踏み入れる。「こけーっ」という間抜けな声を発して、茂みにいた数羽の鶏たちが遠くへ逃げていった。
「だからお前は、あとの二人と仲たがいするよ」
“あとの二人”――その言葉に、セフは背筋を振るわせた。
「ヒスイと、エバのこと?」
「そうだ。お前に比べて、やっぱあの二人はおかしい。俺たちよりぜんぜん、大きなものを抱えている。だから不幸になる」
断定的なロイの物言いを、セフは否定できなかった。予言めいたことをロイがするのは、これが初めてではない。そしてたいていの場合、ロイの予言めいた言葉は当たっている。
「でも……やっぱりわたしは、あの二人と友達でいたいよ」
「それでもいいさ。でもいつか、すごく悩むときがくるぜ……アチッ!」
オアシスの中心では、泉が沸いている。湯気と硫黄の臭いから、それが温泉であることがすぐに分かった。強引に手を入れて、ロイが温泉の縁から卵を取り出した。
「ほら、セフ。お前も食べるだろう?」
「うん。ありがとう、ロイ」
「じゃあ、ちょっと歩こうぜ。……俺とお前が生きているくらいだから、きっと他の奴らも同じだろ?」
ロイはそのまま、オアシスの向こう側へと抜ける。衣の裾で卵の熱を逃がしながら、セフはひたすら、ロイのあとを追った。
――……
陽光の眩しさに、ヒスイは目を開ける。緩急のある風が砂を運び、ヒスイの肌を撫でた。
「う……ん」
目を覚ましたヒスイだったが、頭に柔らかい物が当たっていることにすぐに気がついた。
「エバ?」
横になっているヒスイを、エバが見下ろしていた。膝枕をつくって、ヒスイのことをずっと見つめていたのだろう。
「ヒスイ、気づいたのね?」
そう言うと、エバはヒスイの頬を撫でた。口調はいつも通りだったが、その指は氷のように冷たかった。
「ここはどこかしら?」
「分からないわ。あたしだって、ヒスイに訊きたかったぐらいだもん」
ヒスイの上半身を起こすと、エバはヒスイの身体を抱きしめた。
「でも、ここがどこかなんてどうでもいいわ。今はあたしと、ヒスイだけよ。本当に素晴らしい場所よ。あたしちゃんと分かっていたわ。最後の最後には、必ずヒスイが勝つって」
「“勝つ”ね……」
ヒスイの小さな呟きを、エバは聞き逃した。
「ねぇ、エバ。本当に私のことを大切に思ってくれている?」
「もちろんよ、ヒスイ」
「――本当に?」
「本当よ」
「その言葉を、エバは本心で言ってくれている?」
しつこいまでのヒスイの追及に、穏やかだったエバの表情が、一転して無表情になる。
「……どういうこと、ヒスイ? あたしが……あたしがどれだけヒスイのことを大事に思っているのか、あなた、分からないわけ?」
「いいえ、違うわよ。ただエバに意地悪したかっただけ」
「あたしがいる限り、そんなことは言わせないわ」
ヒスイのとりなしにも、エバは憮然としたままだった。
(私がエバを受け入れなくてはならない)
色めきだつエバを見ながらも、ヒスイはそう考えていた。エバは自分の変化に気づいていないのだ。そしてエバが抱えきれずに戸惑っているものを、ヒスイもまた肩を貸して、これから支えていかなくてはならない。
「おーい」
やがて二人の耳に、第三者の声が届いた。
「ロイ!」
ヒスイが声をあげる。それはまぎれもなくロイの声だった。ロイの隣には、セフもいた。
「無事だったのね、二人とも」
「ああ、おかげさまでな。な、セフ? そうだろ?」
「うん。……ヒスイが元気でよかった」
「わたしもよ、セフ」
言いながら、ヒスイはエバの顔を見た。はにかんでこそいたが、エバの表情は少し固かった。そしてそんなエバの様子を、ロイが目を細めて見ている。ヒスイは唇を噛む。おそらくエバの変化について、ロイも察知しているのだろう。
「見て!」
三人とはよそを向いていたセフが、中空を目掛けて指を差した。全員がそちらへ目をやると同時に、空から降りてきた誰かが、砂に着地して砂柱をあげた。
「イェンさん!」
「おお、ヒスイ」
ヒスイを見つけ、イェンの顔がほころぶ。それから慌てて、背中の上にいるはずの人物に呼びかけようとする。
「ほら、イスイ様……ありゃ?」
腕だと思っていたものを、イェンは引っ張りあげてみる。見ればそれは、ただの枯れ木の株だった。
「ありゃりゃ……イ、イスイ様は……?」
「国従、どうした? 暑さにでもやられてんのか?」
「やられてなどおらぬわっ……ふんっ!」
ロイの冷やかしに恥じたのか、イェンは切り株を思いっきり投げ捨てた。切り株は猛然と飛んでゆき、砂丘に激突してもう一本砂柱をあげた。
「ヒスイ、そのな、イスイ様におうたのじゃ。それでイスイ様にこっちへ来るよう言われたのじゃが……」
「大丈夫よ、イェンさん」
とりつくろうイェンに対し、ヒスイは優しく微笑み返す。
「もう分かっているわ。……何もかも、ね。このまま東へ進めば、海へ出るわ。海沿いに行けば、砂の無い場所まで出られる」
「ヒスイ……この場所を知っているの?」
ヒスイの説明に、セフが驚いて訊ねる。まるでヒスイは、この新天地のすべてを見知っているかのような言い様だったからだ。
「何となく、よ。セフ」
そういうと、ヒスイは深呼吸する。
「何だか……体が羽のように軽いわ。呼吸するたびに、この世界と一緒になっているような……」
「――すごいわね、ヒスイ。まるで……賢者様みたい」
エバがそう言って、ヒスイの左手を掴んだ。今度こそお互いの指を、しっかりと握りしめる。
「“竜の島”は……滅んでしまったのかのう?」
「――違うな」
名残惜しげに呟くイェンの言葉を、ロイが否定する。
「始まったんだ。だろ、ヒスイ?」
ロイの言葉に、ヒスイは頷き返す。
新しい世界が、五人の前に広がっている。
――……
銀台宮。深い霧の中。
外のベンチに座り、黙想をするカケイの姿。
霧の奥から、タミンが姿をあらわす。
タミン:客人です、主よ。
カケイ:分かっている。
タミン、そのまま霧の向こうへ引き下がる。
間髪いれずに、別の人物がやってくる。彼女はイスイ。
カケイ:行き先は決まったかね、イスイ。
イスイ、カケイの隣に腰を下ろして:まったく決まってないわ。サンのババア、上手く逃げおおせたわね。私は振り出しに戻るし、足止めは喰らうしで、散々よ。
カケイ:おや? 君は別にサンを探す必要など無いだろうに?
イスイ:有るわよ。あいつが生きていると認知してしまった以上、わたしも因果から抜け出せないわ。しかも今度は、アイツを探すところからはじめなくちゃいけないのよ。
カケイ:そうか。ならば……ヒスイたちの世界はどうするのかな?
イスイ:くれてやるわ、あんなの。力は手に入ったのだから、あとはあの子たちに委ねるとするわ。
カケイ:君にしては殊勝な心がけだな。
イスイ:でしょ? もっと褒めてくれたっていいのよ?
少し沈黙。
カケイ:いずれにしても……君が追いかけると分かったら、サンはどんな顔をするだろうね?
イスイ:さぁ。……何よ、カケイ。心当たりでもあるわけ?
カケイ、しらばっくれて:いや? ただ……きっとサンはほくそ笑んでいるだろうよ。
イスイ、目を細めて:ふーん? ……あなた、サンの居所について知っているんでしょう?
カケイ:知らないわけではないさ。なんなら、君に教えてあげたっていい。
イスイ:いえ、いえ、いいわ。サンの所在ぐらい、自分で探せるわよ。
イスイ、立ち上がる。
イスイ:じゃあね、カケイ。私はすぐに転生の準備に取り掛かるわ。サンにあったら伝えておいて、「イスイがあなたを追いかけている」、って。
カケイ:わかった。……そうだな、イスイ。メノウに「よろしく」と伝えておいてあげてくれ。
イスイ:……”メノウ”?
イスイ、一旦立ち止まってから、合点がいったようにほくそ笑む。
イスイ:フフフ……分かったわ。必ず伝えておくわ。
イスイ、霧の中へ姿を消す。
見送っていたカケイ、しばし無表情。
やがてカケイ、笑い出す。
カケイ、笑っている。
カケイ、笑っている。
カケイ、笑い続けている。
カケイ、笑っている。
カケイ、笑っている。
カケイ、笑い続けている。