3.「米国の暗号」説

 (1)(2)の説の弱点は、いずれも「ジョージ・サイードマン事件」を引き起こすきっかけとなった論文に注意が払われているのみで、そのあとに起きた一連の現象(ペール・プレス社の売却、圧力がかかったとしか思えないほどの報道の極端な“自粛”など)については見落とされていた。

 この(3)の説では、主にそれらの見落とされた箇所に焦点が当たっている。

 「ジョージ・サイードマン事件」が起きたのは1971年である。そしてこの「1971年」という年号にピンとこられた読者の方もおられるかもしれない。

 そう、1971年といえば世界経済に衝撃を与えた「金・ドル兌換停止」を、米国大統領のニクソンが宣言した年なのである。

 しかしながら、この「ニクソン・ショック」がどのようにして「ジョージ・サイードマン事件」と関わるのか。この二つの事件を関連させて研究した、米国の総合戦争雑誌『M・T』の記者、ラルフ・J・サリマンの発表した原稿が一つの手がかりとなるかもしれない。

「これは陰謀説と間違われてしまうのも致し方ないことではあるが」

 と前置きした上で、サリマンは次の自説を展開している。サリマンが注目したのもやはり、「昆虫の翅の移植に関する考察――キマイラとその宿命」であった。しかし、クルッグがヴァッサーの小説と比較して検証していた一方で、サリマンは一流の記者としての並外れた嗅覚を発揮して、論文全体を漂う曖昧性――有り体に言ってしまえば、ぎこちない言い回しや冗長な言い回し――を発見した。加えて、この論文を査読した人物はウラジーミル・モーデスというたった一人の人物だったという事実をも特定した。

 サリマンの立てた仮説はこうである。論文が掲載された目的は別にあり、その目的とは論文の中にある曖昧性から発見できるのではないか、と。……サリマンはこの論文の中に暗号が隠されているのではないかと仮定したのだ。

 そこからサリマンが行った作業は、まさしく鬼神の所業だった。コンピュータの普及していない当時にあって、サリマンは気狂いじみた情熱と恐るべき執念を以って、暗号のアルゴリズム(暗号を解く鍵)を発見するという気の遠くなる作業を完遂したのである。

 彼の到達した結論はこうである。ジョージ・サイードマンの論文を7108番目の文字ごとに並べ替えてできた第二のテキストからは、縦と横に幾つもの「解読可能な」文字列が発見されたという。その文字列の中には「合衆国大統領」や、「金とドルの兌換」や、「ベトナム戦争」などの文字列が発見されたという。

 このことから分かることは何か。すなわちペール・プレス社に託された論文はそもそもが暗号文であって、世間に論文の評判を広めることにより、「ニクソン・ショック」の予兆をアルゴリズムを知る誰かしらに伝えようとしていたということである。

 この結論から他の事象を鑑みても、ほぼ全ての謎が解決される。ペール・プレス社がジョージ・サイードマンの論文を『インセクトアンドテクノロジー』に掲載したのは1971年の2月であり、「ニクソン・ショック」の約半年前である。加えて、厳密性を要求されるはずの論文で査読を行ったのがたった一人であるということも、論文を可及的速やかに世に知らしめたかった思わくが見え隠れする。更にマスコミが一斉にこの事件に対する報道を“自粛”したのも、機密情報漏洩の真相が暴露されることを心良しとしなかった米国の圧力であるとも説明付けられる。

 ここまでを参考にすれば、サリマンの行った検証はかなり信憑性が高いようにも思われる。しかしながら、致命的に怪しい点が一つある。それはサリマンが発見したアルゴリズム、7108である。サリマンはこれを「西暦の下二桁と月の番号を並べたものであり、それが奇しくも『ニクソン・ショック』の起きた年月と重なる」と主張している。

 しかしながら、暗号の目的は「ニクソン・ショック」の予兆を誰かに伝えることであるはずだ。それなのにどうして暗号の鍵が「ニクソン・ショック」の起きた年月でありえるのだろうか。サリマンの検証はそこまでには立ち至っていない。

 加えて、その暗号を誰宛てに送信していたのかということも分からない。その月の『インセクトアンドテクノロジー』の売り上げ部数、および全米図書館協会による各図書館の雑誌の利用頻度を調査しても、1971年2月号だけ多く出回っていたと決定付けられる明確な特徴が確認されなかった。こうしたことを考慮に入れると、この説も説得力はあるし、既存の問題は解決できるだろうが、また新しい問題が浮上してしまうのである。

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