帰結

 以上三つの説が、概ね新聞やゴシップ誌等で取り沙汰された一連の風聞・流説である。ここで最後に、筆者が考え付いた最大限の憶測を読者の皆様に提示することで、この破格の都市伝説を考えたいと願う読者の皆様の一助としたい。

 私の説も、概ね第三の説と同じく、「ジョージ・サイードマン事件」以降の米国の動きから出発して考えてゆきたいと思う。あの事件のあと何が起きたのかについては、既に第一話でも書いたとおりである。『インセクトアンドテクノロジー』は廃刊に追いやられ、発刊元のペール・プレス社も売却されてしまった。

 今回注目するのは、このペール・プレス社の行方である。この出版社は、いったいどこへ売却されたのか。――辿ってみると、その記録は案外簡単に現れる。購入主(ほぼ大株主と同義であるが)は美術館の管理代行や、美術展の運営、オークションの設営などを手がけるイクストーズ・アーツ社(社長はグラハム・ヨカエという、アルメニアからアメリカへ移民して財を成した大富豪ヨカエ家の御曹司)であり、彼はペール・プレス社の展開する出版網を利用し、大規模な広告事業を始めるつもりであったという(この記録もまた、ニューヨークを拠点にして発刊される多くのベタ記事の中から見つけることができる)。

 さて、ここでペール・プレス社がどこへ行ったのかは特定することができた。今度確認しなくてはならないのは、一体ペール・プレス社は“誰の元から”イクストーズ・アーツ社――ひいてはそれを率いるグラハム・ヨカエ氏――の手に渡ったのか、ということである。この確認作業も至極容易な仕事である。グラハム・ヨカエ氏は自身の投資家としての才を遺憾なく発揮して、ペール・プレス社の株式の大半をせしめ、社の経営権をほぼ手中に収めた。売り注文の殺到して、ほぼばら撒き状態にあったペール・プレス社の株式を買い占めるのは、さぞや簡単な仕事であったに違いない。

 ではそうなる前、つまり事件が発覚する前にペール・プレス社の株を最も多く保有していたのは誰だったのか。1971年の3月に行われた、ペール・プレス社の株主総会における名簿を見れば一発で分かるだろう。

 その最大の大株主とは、グラハム・ヨカエ氏の兄、アレクサンダー・ヨカエである。

 兄のアレクサンダー・ヨカエが売り飛ばして値下げさせた株を、弟のグラハム・ヨカエが買い占める。

 彼らはいったい何を企んでいたのか?

 事件の真相に立ち至る前に、ここでもう一つ明らかにしておかなければならないことが一つある。それはヨカエ家の当主(ヨカエ兄弟の父親にあたる)チャールズ・ヨカエ氏が、1971年の1月末に肝臓がんで亡くなっていたという事実である。チャールズ・ヨカエ氏の持っていた財産は莫大であり、六人いる(!)氏の顧問弁護団でさえもその正確な財産を数えあげられなかったという。それは一つに、チャールズ・ヨカエ氏が1970年代当時であってさえも信じられないほどの「銀行嫌い」であり、独自に金を調達してはそれを全米の各地に秘蔵していたからであると言われているが、その真相さえも定かではない。彼は二人の息子、すなわちアレクサンダーとグラハムの二人に傘下にあるさまざまの会社の経営権は委ねたが、唯一自分の財産と、ペール・プレス社の経営権だけは渡さなかった。渡さないまま死んでいったのである。

 なぜか? ――我々がこう邪推するのは当然である。そして同じ邪推をヨカエ兄弟が行うのも至極当然である。

 ヨカエ兄弟が辿り着いた結論はこうである。自分の老いぼれた父親が冴えない出版社にこだわる理由、それはペール・プレス社の持ち物のどれかに、父親が全米各地に秘蔵しているであろう黄金のありかが記されているのではないか、と。

 あとは読者の皆様の自由なご想像にお任せしたい。私の想像はこうである。ヨカエ兄弟は父親の死後、その莫大な財産がうやむやになってしまうのを恐れた。そこで妖しい、魅力の尽きない父親の所有物であったペール・プレス社を、なんとしてでも手に入れることを画策したのである。この作業は幾らでも明るみに出てしまってはいけなかった。わずかでも埋蔵金の存在が分かってしまったのなら、残るのは父親の大いなる遺産でなく、父親が誤魔化し続けてきた相続税と言う名の負の遺産だからである。株式の仲買業で名の知れていた兄がペール・プレス社の株を確保し、何か突発的な事件を理由に株をばら撒き、さも何事もなかったかの体を装って、法人という覆面をかぶった弟がペール・プレス社を丸ごと買い取ってしまう。――兄弟に必要なのは“きっかけ”だった。株をばら撒くのに充分な、何かしらの突発的な事件。

 事件がないのならば、作り出すしかない。

 そうして生まれた人物こそが、ジョージ・サイードマンだったのではないか。

――……

 2013年現在、この「ジョージ・サイードマン事件」は丹念に調べないとほとんど記録が出てこない。わずか40年ほど昔の事件にもかかわらず、まともな調査をするのだったらインターネットに頼らず、地道に資料を集めてゆくしかない。

 なぜ、この事件は21世紀に入った今もなお、インターネット等の検索に引っ掛からないのか。しかし我々は事実を忘れてはならない、大手検索サイトや情報サイト等も、誰かしらが運営に関わる費用を負担している者がいるということを。そしてもしその人物が、ヨカエ一族であったら……と、これはもはや憶測であるが。

 ヨカエ一族が、現在どこで何をしているのかはよく分かっていない。「ジョージ・サイードマン事件」の後、二人の兄弟の足跡はほとんど辿れていない。

 ただ一つだけ分かることがある。1980年、英国にある由緒正しき一つの大学が、さまざまな事情で経営難に陥っていた。そこに颯爽と表れたかつての卒業生が一人、多額の寄付をしただけでなく、新たな資料館の造成にも援助を惜しまなかった。――オズオ大学近現代史資料館の落成記念碑の裏に回ってみよう。読者諸君はそこで二人の人物の名前を発見するだろう。

 Sir Alexander Joquae

 Sir Graham Joquae

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