3.「ブックマーク数が少ない」=「面白くない」?

 パレートの法則は、イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが提唱したもので、経営学の分野では「80:20の法則」という経験則とあいまって利用されています。

 パレートは一国の内部における経済格差について論じる際に、この法則を提示しました。パレートによれば、いかなる社会・経済体制の国であっても、パレート係数αはほぼ1.5の値になるそうです。

 たとえば、GDP1位を誇っているアメリカのような国であっても、あるいは今だに社会主義国として奮闘しているキューバのような国であっても、パレートの法則から考えてみれば、格差の度合いは同じなのです。

 ところが、「小説家になろう」を支配しているパレート係数はα=0.3。一国の国内格差より遥かに強烈な格差が、「小説家になろう」のブックマークを規定しているようです。

 この問題は、一見するととても絶望的な問題のように思えます。自分の小説のブックマーク数は増えない。おまけにこれから増える見込みもない。法則を通じて明らかになることは、正視するに堪えない不都合な真実であるためです。

――……

 しかし、これは本当に絶望的なことでしょうか。パレートの法則から「小説家になろう」を眺めた際に、私たちは知らず知らずの内に、ある前提を所与のものとして考えてしまっています。それは、本来は比較することなどできない質の問題を、知らず知らずの内に量に変換して考えてしまっている、という前提です。

 話を分かりやすくするために、たとえを用いて考えてみましょう。アカウントを持っている人であれ、持っていない人であれ、Twitterの何たるかくらいは皆さんご存知のことだと思います。あるミュージシャンA、Bがいたとして、ロック歌手Aのフォロワーが5000,000人、シャンソン歌手Bのフォロワーが50,000人だったとしましょう。

 ここで「Aのフォロワー数は、Bのフォロワー数の100倍である」と言うことは可能です。これに異を唱える人がいたとするならば、それはよほどの馬鹿か、あるいは天才です。

 では、次のような質問の場合はどうでしょうか;「Aの歌手としての才能は、Bの歌手としての才能の100倍優れている」。

 この命題を正しいと答える人はいないでしょう。なぜか? 問われているものが違うからです。Aの歌手としての才能とBの歌手としての才能とは、比べられるものではありません。ましてや、一方はロック歌手で、もう一方はシャンソン歌手なのですから、そもそもジャンルさえ異なるわけです。

 上記の命題が間違っているのは、本来ならば絶対に比べようがないものにもかかわらず、同じフィールドに位置しているというだけで、あたかも比べられるもののように取り扱ったためです。Twitterのフォロワー数の大小から分かることは、せいぜい「そのミュージシャンに関心を持っている人間が何人いるか」程度のことであり、「ミュージシャン自身の才能」については何も明らかにしてくれません。

 このような状況は、「小説家になろう」でも当てはまります。私たちは「ブックマーク数」をもって「作品が面白いか面白くないかの指標」としていますが、その作品が本当に面白いか面白くないかは、究極的には読んでみない限り分かりません。冒険小説に興奮する人もいれば、ミステリー小説にカタルシスを覚える人もいます。詩の鑑賞に喜びを見出す人もいるでしょう。読み手が感じる「面白さ」とは、量に変換して比較できるようなものではありません。そもそも、同じ「面白い」という言葉を使っているからと言って、その「面白さ」が同じであるとは限りません。これは当たり前のことです。「ブックマーク数」の大小は、「その作品を面白いと思っている人が何人いるか」を表しているにすぎません。

 多くの場面を見るにつけても、この問題は誤解されているようです。しかも純粋な読み手よりもむしろ、書き手の方が誤解しているように思えます(仮に読み手が誤解していたとしても、その誤解は「小説家になろう」に投稿されている作品のあり方に影響を与えません。したがって単純に判断しづらいだけかもしれませんが)。

 初めはそれなりの方針をもとにして書き進めていたにもかかわらず、いつしかブックマーク数が気になりだし、やがてはブックマーク数を面白さの尺度として錯覚し始め、あれこれの迷走を遂げた挙げ句、完結してみると何がテーマだったのかさっぱり分からなくなっているような小説になってしまっている――ということをやっている書き手は、一定数いるのではないでしょうか。

 もっとも、このような作品が結末を迎えることは稀です。仮に結末を迎えたにしても、たちの悪いことは続きます。一度作品が完結してしまうと、「迷走していた」という都合の悪い記憶は忘れ去られ、記憶の空隙を偽りの充足感が満たすようになるためです。

 話が脱線しましたので、もう一度同じ軌道に戻って考えてみましょう。「ブックマーク数は面白さの尺度ではない」と考えてみれば、ブックマーク数がパレートの法則に制約されていることは、絶望的な状況とは必ずしも言い切れません。むしろパレートの法則のおかげで、ブックマーク数が少ない作品は却って救われている、と言うことだってできるのではないでしょうか。

 それはなぜか? たとえば「出来具合がまずい」と、自他共に認めざるを得ないような小説があったとします。もちろん「認めざるを得ない(状況にある)」からといって、わざわざ認めてやる必要はありません。謝罪をすることによって得られる利益もなければ、謝罪をしないことによって失う利益もないためです(できの悪い作品にどのようなけじめをつけるかは、あくまで書き手の良心の問題です)。

 しかし中には、「お前の書いている小説は面白くない」などと言ってくる人もいるかもしれません。そのようなことを言われた場合には、上に書いてある通りの説明を、その指摘してくれた人に返してあげればいいわけです。たとえ100人、あるいは1000人の人間が「面白くない」と言ったところで、その人数には何の影響力もありません(ただし商業作家の場合は別です)。いかなるジャンルの小説を面白いと思うかは個人の問題であり、「面白いか否か」といった論理学的問題ではありません。「面白い」が通用する論理空間に、排中律は存在しないのです。

 そしてこのような結論が見出される以上、個々の書き手は何をすればよいのかということも、おのずから明らかになってくるでしょう。

▶ 次のページに進む

▶ 前のページに戻る

▶ 『「小説家になろう」におけるブックマーク・評価等の考察について』に戻る

▶ エッセイ等一覧に戻る

▶ ホームに戻る

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする