「学生諸君、私は自分の人生に疲れました」
七月の第一月曜日、くそ暑い中、朝礼の壇上で校長がとつぜん語りだした。
(今なんつった?)
こっそりとスマホを盗み見ていた僕だったが、校長の言葉が気になって顔を上げた。校長はまっすぐ正面を向いており、とても冗談を言ってのけたような雰囲気ではなかった。
目玉だけを動かし、僕は周囲の様子を確かめてみる。どうやら、校長の今の発言を問題視しているのは、僕だけのようだった。親友で、野球部のキャプテンをしている中野は、体育座りをしたままうたた寝をしているし、茶道部の山下はハンドタオルで口もとをおおったまま、他校の彼氏とラインでやり取りしている。講堂の周辺で生徒たちを見守っている先生陣たちも、いつものように気だるげにしているのみで、今の校長の言葉にそわそわしているようには見えなかった。
(気のせいか――)
今は暑いし、それに月曜日である。ちょっとまだ僕の頭がちゃんとはたらいていないだけかもしれない。
「教師生活をはじめて、私は今年で四十年目になります」
校長の語りは続く。
「校長という責任ある職に就いてからは、八年の歳月が流れました。出会いや別れはいろいろありました。それは何も生徒に限ったことではありません。一緒に働いてくれる先生方や、父兄の存在も、また私にとってはかけがえのない財産です。そういう意味において、私もまた学びを続ける生徒ということができるかもしれません――」
校長の話を聴きながら、僕はうなずいた。やっぱり、さっきの言葉は空耳だったのだろう。いつも通り校長は真面目で、いつも通り誰も話を聞いていない。
「年月を経るにつれて、そして不断の学びを続ける中で、私の中にふと、ある信念が芽生えてきました。そしてとうとう今日になって、私はみなさんにこのような宣言をする機会がやってきたのではないかと思っています。私が言いたい言葉はただひとつです――そう、『死にたい』!」
(やばい)
僕は飛び上がらんばかりに驚いたが、やっぱり周囲は無関心のままのようだった。一人でそわそわしているのが、だんだんバカらしくなってくる。
とはいえ、校長の話を無視することもできない。だから僕は、いつしか真剣に校長の話を聞いていた。
「そうです、皆さん。いつの頃からか、私は『死にたい』と思うようになったのです。沸き上がってくるこの感情が、いったいどのような原因によるものなのかは私にも分かりません。『社会に失望したから』などということを理由にするつもりは、もちろんありません。それはあり得ないことです。『生徒を社会に送り出す』という責任を負っている以上、先生という立場にありながらそのようなことを理由にするのはけしからんと考えるためです」
ポケットからハンカチを取り出すと、校長は額の汗を拭う。
「皆さん、人は立場で生きるものと私は考えております。私は片一方で“学校長”という責任ある立場に就き、また片一方では普通の市民として日常を営んでおります。――この二重の立場が、どのような不都合を私にもたらしたか?」
壇上から校長は問いかけてくる。むろん、答えが返ってくることはない。校長だって、そんなことは百も承知である。印象的な場面で疑問形を用いるのが、校長という生き物の特色なのだ。
「一方で私は『死にたい』と思っている。これは、“市民として”そのように思っているわけです。しかし一方で私は“学校長”という立場に就いている。生徒たちの手前、自殺することなどもってのほかであります。
「そこで私は考えました。普通の死に方をしてしまったのならば、私は校長としての責務を果たしたことにならない。ならばどうするべきか? ――答えは簡単です。私はこの場で、校長先生としての死に方を死ぬべきであると考えたわけであります」
(なるほど)
よく分からないが、なぜだか僕は納得してしまった。でも、じゃあどうやって校長は、“校長らしく”自殺するというのだろう?
「それでは今から、私は諸君にパフォーマンスをしたいと思います。パフォーマンスの後の諸君の反応を確認し、そうして死にたいと思います」
校長はその場を離れると、僕の向かって右側に移動した(ちなみに僕は、講堂のちょうどまん中にいる)。
衆人の環視の前で、校長は着ていたYシャツを脱ぎ、その下のランニングシャツを脱ぎ捨てた。上半身裸になった校長は、自分の胸の肉をわしづかみにすると、とつぜん
「おっぱーーーーーい!!!」
と叫んだ。「おっぱい」の絶叫は講堂を震わせ、山びこのごとく周囲に反響する。掻いたことのない汗で、僕は背中がびしょびしょになってしまった。
それでもやはり、周囲の人間は反応しなかった。自分だけ反応するのもおかしかったから、僕は辺りをうかがっている校長に気づかれないよう、そっと目線を下に落とした。
僕はもう一度親友の中野を盗み見た。はじめ、中野は眠っているものと僕は考えていた。だが、どうも様子がおかしかった。よくよく目を凝らしてみれば、中野は身じろぎ一つしていないのだ。
(停まってる……?)
そんなSFチックな考えが僕の頭をよぎった矢先、また校長が
「おっぱーーーーーい!!!」
と叫び、自分の胸の贅肉をもみくちゃにしはじめた。まったく反応が無かったために、校長は焦ってしまったのだろう。
「なるほど、なるほどね……」
浅い息をつきながら、校長は壇上の中央へ戻ってくる。
「まぁ、突然のことで皆さん動揺しているのかもしれませんね。教室に戻った後に色々言ってもらえばいいと思います。あるいはTwitterとかでね――」
ばつ悪げにしていた校長が、再び先ほどと同じ場所に移動した。ほんの数秒の間に、新たなパフォーマンスを思いついたらしい。
校長はしゃがみ、自分のズボンとパンツとを膝まで脱ぐと、とつぜん自慰をはじめた。オナニーである。僕はあっけにとられてしまい、校長に釘付けになった。校長は段下の生徒などには目もくれず、ひたすら自分の陽根をしごいていた。そうとう激しくやっているのか、マイクが校長の浅い息を拾っていた。それを耳にしているうちに僕は空しくなり、
(はやくこの時間が終わってほしい)
と切に祈り、やがて目をつぶった(場末の芸人というのも、今の校長と似たようなものなのだろう。冷たい空気に堪えることができず、極端にはしってしまっているだけなのだ)。
とにかく、この環境から抜け出せるのならば、自分の人生を棒に振っても構わないと、このときだけは僕もそう考えた。
「ハァ、ハァ――」
一段落ついたのか、校長は荒い息を吐いていた。生臭い臭いが、こっちにまで漂ってきそうな気配だった。校長はすがすがしげな表情で、再び生徒たちを、居並ぶ先生たちを俯瞰する。
それでもやはり、みんなからの反応はない。少なくとも僕を除き、一連のパフォーマンスを見ている人間さえいないのである。
校長は腰に手をあて、壇上から周囲を見渡していた。校長は、懸命に反応を探ろうとしていたのだろう。だが、時間だけが空しく過ぎるだけだった。
校長はうなだれたまま壇上の中央へ戻ると、ハンカチの下に隠されていたものを掴み取った。形からして、それは拳銃のようだった。いったいどうやって手に入れたというのだろう? 色はピンク色をしていたから、3Dプリンターだか何だかで自作したのかもしれない。
終始無言のまま、校長は銃口を口にくわえた。固唾を呑んで見守る僕の前で、校長は銃の引き金を引く。
「ぷるうっ?!」
銃声とほぼ同時に、校長の唇から情けない断末魔の悲鳴がこぼれた。火薬の成分のためだろうか、校長の目と鼻の穴とから、まばゆい光も垣間見える。
あまりにも情けなさすぎて、僕はこんな場面にも関わらず吹き出してしまった。すると、
「キャーッ!!!」
という、衣を裂くような悲鳴が講堂にこだました。そちらに目をやると、家庭科の有村という女の先生が悲鳴をあげていた。それに続いて、
「校長?! 校長先生?!」
という、切羽詰まった声も聞こえてきた。副校長をやっている高橋先生の声である。
「えっ、何、なに?」
「校長どうかしたの?」
「ん? わかんねぇ……」
止まっていたはずの時間が、校長の死とともに再び流れはじめたようだ。先生たちはかいがいしく慌てふためき、生徒たちは混乱に煽られ、いつも以上に騒いでいた。
そのあとどうなったのか――、それは僕には分からない。校長が倒れたのを見届けると、僕は即座に立ち上がって講堂を抜けたからだ。周囲には目もくれなかった。
外に出ると、僕は上履きを脱ぎ捨て、靴下も脱ぎ捨てて、裸足のまま校庭を突っ切って校門を飛び出した。途中から足は痛くなる。振り向いてみれば、足跡がアスファルトに点々とついていた。足の皮が剥け、血が滲んでいるにちがいない。
だけど僕はもう、そんなことにはおかまいなしに、ただひたすら走っていた。校長がなぜ自殺を決意したのか、校長はなぜパフォーマンスを思いついたのか、そしてなぜ、一連の事件を僕だけが認めることができたのか。あるいは校長は狂っていたのかもしれないし、狂っているのは僕の方なのかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいいことなのだ。一番大切なことに、僕は気づけたのだから。自殺なんていうものは、本当にばかばかしい。例え誰がやったにしても、だ。校長はその単純な事実に気づけなかった。だから空しさを抱えたまま、誰にも理解されることなく死ぬしかなかったのだ。
僕はそんなことはしない。校長は自分の脳味噌に自分で穴を開けてしまったが、僕は間違ってでもそんなことはしないつもりだ。仮にもしアルツハイマーとかで、僕の脳味噌にひとりでに穴が空いたにしても、そうしたら僕は現実に悲観せず、今のように外へ飛び出すつもりでいる。たとえ裸足で、足の皮がすりむけようとも、僕はためらうことなく外へ飛び出すだろう。ちょうどこの足のように、僕自身がすりきれることになっても、いつまでもいつまでも生きていたいからだ。